敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 171 回  *** 第3番・その2 ***
*****  柿本人麻呂ー畿内巡旅  *****

目    次
<畿内歌枕世界> <安騎野> <かぎろひ> <舒明天皇陵>

百人一首・第3番 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々しき夜をひとりかもねむ


<畿内歌枕世界>

 連載第170回で分類した柿本人麻呂の歌枕世界のうち、大和国原周辺の畿内への巡旅は、四方へ
足跡を残しています。大雑把に万葉集の巻数を追って分類してみますと、次のように大きく北方の
近江国・大津宮方面、東方は宇陀郡安騎野方面、さらに南方は吉野方面と言うことになりましょう。

 北・近江 近江大津宮(巻1−29)、志賀唐崎(巻1−30)、志賀大わだ(巻1−31)
      宇治河(巻3−264)、近江海(巻3−266)
 東・宇陀 安騎野(巻1−45,46,47,48,49)
 南・吉野 吉野宮(巻1−36)、吉野川(巻1−37,38)、吉野河内(巻1−39)
      吉野川(巻3−429,430)

 近江方面は、壬申の乱前、天智天皇大津宮の世界であり、一部連載第166および167回で、
垣間見たところです。
 引き続き、吉野方面は、壬申の乱後の持統朝に於ける桃源郷であり、持統天皇にとっては「奥津城」
でもあったのです。この地も前回および前々回の連載に於いて言及したところです。

 ここでは、持統天皇のお孫さんに当たる軽皇子(草壁皇子の子で、後の文武天皇)に従駕した
思い出の巡旅地・宇陀郡安騎野の地を踏んでみたいと思います。
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<安騎野>

 人麻呂作歌なる万葉集巻1−45番歌の詞書きにある「軽皇子の安騎の野に宿りましし時」とは、
持統六年(692)冬(陰暦11月17日早朝と推定されております。
 人麻呂は軽皇子(当時十歳)の安騎野における遊猟にお供し、薨去後三年の草壁皇子を追慕して、
嘗ての狩り場において献歌を命ぜられたのでしょう。

大宇陀町周辺の地理
  奈良県宇陀郡大宇陀町は「萬葉浪漫とかぎろひの里」として万葉集の古里の一所になっています。
 桜井市の東に隣接する標高300〜350mの丘陵地に位置し、宇陀川が町の東を北流しています。
 「かぎろひの里」への最寄りの交通の要所は近鉄大阪線の榛原駅になります。駅前から宇陀高校行きの
バスに乗って芳野川を遡ること約30分で、軽皇子巡幸地中庄地区に到ることが出来ます。
 山間のやや開けた見晴るかせる盆地の平野中央に大宇陀町役場があります。1300年前に当宇陀野の
中心地であったところが、再び地区の要になっているわけです。役場の裏手の広場が「かぎろひの広場
公園」になっています。

 平成7年の中之庄遺跡発掘によって嘗ての人麻呂が万葉歌を詠唱したであろう場所が現れました。
 遺跡発掘場所は整備されて南面した平地の稲田の中に、町の公共施設と軽皇子の騎馬像が記念広場に
建立されました。また中之庄地区の西隣本郷地区でも平成9年に遺跡が発掘されました。

(左)中之庄遺跡発掘関連新聞記事(引用:産経新聞・平成7年12月15日付け)
(右)本郷遺跡発掘関連新聞記事(引用:産経新聞・平成9年11月21日付け)
 本郷遺跡では、直径52cmもの太い柱が一本確認され、建物跡の広さは、縦9m、横6mもの
「望楼的建造物」と推定されました。このように発掘によって7世紀後半の建物跡群が具体的に
確認されますと、人麻呂の萬葉世界も万葉集上の過去の歌人ではなく、生々しい人間像となって想定
されてきます。
   
  (左)中之庄遺跡に復元された奈良朝の二棟の建造物
(中)柿本人麻呂騎馬像正面(後述の中山画伯の絵画からの石造ということですから、
軽皇子の騎乗姿というほうがいいのかもしれません。)
(右)「阿騎野・人麻呂公園」全景
  日本の片田舎的な風景の中に奈良朝建造物を据えてみますと、嘗ての軽皇子の御猟場と人麻呂の
詠歌の場所が浮かび上がってきます。周りの山並みの彼方に大和の飛鳥浄見原宮や藤原京があると
思うとき、ますますこの「かぎろひの里」が「萬葉の浪漫の地」として想像することが出来ます。

 もともと「安騎野(阿騎野)」の地区の歴史は、推古天皇十九年(611)陰暦5月5日、菟田野で
薬狩りが催されたことに始まるのです。それから三代100年ほど経った持統天皇の時代には、御猟場
ともなって、関連する朝廷管理の建造物も整備されるに到ったのでしょう。
 薬狩りの場としての「阿騎野」は、さらにそれから1000年後、18世紀になって「薬草の里」と
なります。現在宇田川の右岸沿いの旧街道に面して国指定史跡「森野旧薬園」があります。ここは、
享保十四年(1729)初代森野藤助(賽郭)が、江戸幕府薬草御用植村左平次を手伝ったことから
寛保三年(1743)幕府から貴重な薬草木の種苗を譲り受け、自宅裏庭に植えたのが薬園の始まり
となるのです。
 大宇陀町は、平成7年5月に、町指定文化財「旧細川家住宅」を活用して、町歴史文化館「薬の舘」
を開設して、「薬草の里」と銘打って大宇陀町町おこしとして「阿騎野」を見直すことで動き始めました。

(左)旧細川家住宅を活用した「薬の舘」(右)森野旧薬園入口
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<かぎろひ>

 「東の野に炎の立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」(巻1−48)
   (詠みの別説に、東の野には炎立つ見えて)
  萬葉14漢字本文ー 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

 柿本人麻呂の代表歌というより以上に万葉集の代表歌とされるこの歌は、「かぎろひの里」の根拠と
なる歌です。
 大宇陀町観光協会の説明による「かぎろひ」とは、「厳冬のよく晴れた夜明け、日の出一時間
ほど前に現れる最初の陽光」ということで、「赤、橙、紫など、スペクトル状の光が空を染める現象で
冬の晴れた又寒い日だけに限られる特有の気象現象」のため、毎年観察されるものではないようです。

(左)かぎろひのイメージイラスト新聞記事(産経新聞・平成7年12月15日付け)
(右)柿本人麻呂騎馬像(さらには、軽皇子の騎乗姿をも想像します。)
 萬葉の浪漫の「かぎろひ」を求めて人々が集まるようになりました。
 柿本人麻呂の和歌一首が1300年後の世界の人々を動かしているのです。たったの31文字で、
さらに煮詰めて言うなれば「炎」という漢字一文字が、古代世界を記録して後世の人々に訴えかけて
いるのです。古代万葉期の世界を後世に送り込んだ和歌の力、優れた歌人の歌唱力には、素晴らしい
ものがあります。和歌が本当に「言霊」であることを証明する一事例でしょう。

 因みに萬葉集中での「かぎろひ」の使われ方は、(1)明け方の仄かな光と(2)陽光が地面から
立ち上がる水蒸気でゆらゆらと揺れて見える現象に分かれて、「炎」は(1)の意味で人麻呂歌
(48番)に、「陽炎」は(2)の意味で、1051番、1808番および1839番歌に用いられ
ています。。 

(左)かぎろいの丘公園(右)万葉歌碑(昭和15年・佐佐木信綱揮毫)
 
 平成8年と9年の新聞記事に次のような情報が載りました。

 「人麻呂のかぎろい出ずーーーー人麻呂の・・・歌にちなみ、「かぎろい」を見ようという会が
  七日明け方、歌が詠まれた奈良県大宇陀町で開かれた。天候は快晴。待ち受けた萬葉ファン等
  約千五百人の期待も高まったが、見られたのは朝焼けに近い光景だけ。鮮明な赤や黄、紫の色が
  帯状に織りなす現象はでなかった。
  会は毎年、歌の詠まれた旧暦十一月十七日に開かれ、二十四回目。かぎろいが見られたのは
  三回ほどという。」 (引用記事:産経新聞平成8年1月8日付け)
 「かぎろひの丘・萬葉公園・・・・を会場に毎年、「旧暦十一月十七日」早朝に開かれている
  「かぎろひを観る会」には真冬にかかわらず多くの萬葉ファンが集まる。・・・・これまで
  二十五回開かれているが、鮮やかなかぎろひがあらわれたのは数回という。・・・・」
            (引用記事:産経新聞平成9年10月9日付け)

 このように多くの「万葉歌ファン」のために、自治体は絵画を中央公民館に提供しました。 

中山正實画伯製作になる壁画「阿騎野の朝」(御猟場での軽皇子の騎乗姿を描いたもの)
(大宇陀町中央公民館所蔵)  目次に戻る

<舒明天皇陵>

 現在の大宇陀町域は万葉期宮廷世界の一部となっていたことが、その周辺の遺跡を探れば分かります。
 榛原東北には山辺赤人墓があり、かぎろひの丘公園から真西方向に見える音羽山の北麓には石位寺、
舒明天皇陵、大伴皇女墓、鏡女王墓が、さらに音羽山の山向こうが飛鳥、藤原京の地であるわけです。

  推古天皇の時期から大和朝廷と関係深い土地柄であったこの宇陀の地「阿騎野」周辺は、古くから
皇室関係の縁りの土地であることがわかります。
 初瀬川が巻向山の東麓渓谷から流れ下ってきて、大和平野に入る山間の南側丘陵地が押阪あるいは
朝倉地区になり、この地こそが持統天皇の祖父、草壁の皇子の曾祖父、軽皇子(文武天皇)の玄祖父
にあたる舒明天皇の縁りの地であるのです。
 舒明天皇御陵・押坂内陵は、伊勢街道(国道166号線)から村落の中の山道を登ってゆきますと、人家の
途切れた山間にあり、舒明天皇の母・田村皇女も合葬されています。
 また御陵のさらに山奥側に欽明天皇皇女・大伴皇女押坂内墓、藤原鎌足妻・鏡女王墓が隣接して
います。

(左)舒明天皇・押坂内陵への参道と御陵正面(右)鏡王女忍坂墓
 舒明天皇は、万葉集でも最も古い和歌を詠んでおられるので、萬葉の世界は舒明天皇によって
開かれていったと言ったとしても過言ではないでしょう。この押阪地区に大伴家持の縁の事績があれば
正に「萬葉の世界」になるところです。ちなみに舒明天皇の父は押坂彦人大兄と名乗られました。

 前回の連載で、柿本人麻呂の縁りの地「住坂」が万葉集巻一・第二番歌歌人舒明天皇の縁りの地
「押坂」から見て初瀬川上流の対岸になりますから、ほんの隣地区ということになります。さらに
その東隣には山部赤人の本拠地があるわけですから、この初瀬川沿岸沿いの一帯は、「初期萬葉
(第一期)の地」あるいは「白鳳萬葉(第二期)の地」というべきでしょうか。

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「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第三話 歌聖(柿本人麻呂)ー
併せて御覧願います。

平成16年5月13日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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