連載第168回および第169回で採り上げた持統天皇は、大化元年(645)生まれで、大宝 二年(702)58歳で崩御されました。ほぼこの年代に人生を送っているのが柿本人麻呂で、 推定されている生涯は、大化四年(648)生まれで、慶雲・和銅年間に60歳前後で没したと され、ほぼ持統天皇と同時代人になります。 万葉集の中に於ける柿本人麻呂の歌は95首(長歌20首、短歌75首)、それに歌集から 引用されたものが、371首(長歌2首、短歌334首、旋頭歌35首)で、合計466首に なります。 この歌数は、大伴家持の479首(長歌46首、短歌431首、旋頭歌1首、連歌1首)に ほぼ匹敵し、萬葉集中の主要な歌人になります。家持自身も萬葉集中で「山柿之門」(柿本人麻呂と 山部赤人か、山上憶良かは論議あり)と位置付けて尊敬しており、後世の人々は「歌聖」にまで 祭り上げた歌人になります。
![]() 勝川春草・錦百人一首あづま織の 柿本人麻呂画 |
人麻呂歌・著名度上位五首 *もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(巻3ー264) *近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(巻3ー266) *東の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ(巻1ー48) *玉藻刈る敏馬をすぎて夏草の野島が崎に舟近づきぬ(巻3−250) *天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(巻3−255) これらに次の辞世の歌などを加えれば、人麻呂和歌世界を体験したことになるでしょう。 *楽浪の志賀の唐崎さきくあれど大宮人の舟まちかねつ(巻1−30) *石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらんか(巻2−132) *鴨山の岩根しまける我をかもしらにと妹が待ちつつあるらむ(巻2−223) 秋山虔他編集「日本名歌集成」(学灯社)1988年11月より、 稲岡耕二博士撰出柿本人麻呂歌20首からさらに選別したもの。 |
人麻呂歌に言及されている歌枕的な地名の分布は西日本各地に拡がっていますが、大凡次の地域に 分類して見ることにします。 (その1)柿本氏族の采地で古里の添上郡櫟本、大和国原の巻向・三輪、新庄・葛城など (その2)畿内周辺巡旅の地としての吉野、安騎野、宇治、近江国など。 (その3)官人として西国への羇旅先としての瀬戸内海沿岸各地および紀伊国沿岸など。 (その4)終焉の地とされる石見国 7世紀から8世紀にかけての持統・文武朝に、これだけ各地に足を運んで歌を残せたというのも、 地位は低いながらも「宮廷歌人」ともいうべきその官職のゆえでしょうか。自分の住む地域から 他国へ出歩くのさえ困難な時代だからこそ、歌の持つ情報伝達力は大変高い物であることが認識されて います。 空間的な隔たりを繋ぐ力もさることながら、時間的に千年の間隔を置いても、我々現代人に 持統・文武朝の風景を伝送してくれるのが和歌の力、人麻呂の歌唱力であるのでしょう。 人麻呂の繋いでくれた「和歌」という情報伝達手段に頼って、今を去る1300年前、西暦700年 前後の萬葉和歌世界に戻ってみましょう。目次に戻る
柿本人麻呂の生誕地は何処か、という点に関しては、多くの研究者の意見があるようです。 代表的な推定例としては、 「柿本一族の本拠地は、大和国添上郡櫟本である。現在の天理市櫟本朝にあたる。 ・・・・この櫟本の柿本寺付近を柿本氏の本拠地とすることは、柿本寺や和爾下神社 および同系諸氏の本拠地を考えあわせてみると、ほぼ確実なようである。」 (稲岡耕二「王朝の歌人1ー歌の聖なりける柿本人麻呂」(株)創美社(1985年4月))

奈良と桜井を結ぶJR桜井線で天理駅より北の奈良方面に向かい、西名阪自動車道の高架を過ぎた ところが櫟本駅です。東に道をとると、天理ー奈良間の県道に面した和爾下神社の鳥居前に出ます。 当社は柿本氏と同族の春日・和爾・櫟井・布留諸氏の祖神(天押足彦命)を祀る社で、人麻呂には 氏神に当たります。 参道の途中左手に「柿本寺跡児童公園」があり、その脇に「歌塚」の石碑が建てられています。 公園の一部は老人クラブのゲートボール場に流用されていて、お年寄り方の憩いの場になっています。 人麻呂の古里と思うとき、何となく似つかわしい片田舎のお宮さんの境内風景に映ります。 公園の東隣は和爾下神社古墳があり、古代(4〜5世紀)のこの地の豪族(和爾氏)の墓がそのまま 神社になっていて、この地が大和朝廷のさらに昔の時代に於ける生活の場であったことが分かります。 この地に関係した柿本人麻呂でさえ、7世紀末の人物ですから、大和豪族の古さが分かります。

櫟本町の周りの地域は由緒ある町名ばかりです。南に「石上町」、東北に「和爾町」、北に「楢町」、 西に櫟枝町、上総町(かんさちょう、素戔鳴神社、八坂神社などの地)となっています。これらの 大和古里地域でも鉄道が敷かれ、高速道路が建設され、縦横に交通機関が走り回ることになり、 嘗ての人麻呂の古里もその静けさが壊されつつあるようです。古里はますます目の前から遠のいて いく感がします。目次に戻る
歌聖柿本人麻呂の縁の地は各所に伝承されていますが、櫟本町から南西に約15km離れた葛城山の 東麓にあるのが新庄町で、この地には「柿本」の地名まで残っていて、人麻呂を祭神とする「柿本 神社」、墓所、氏寺・柿本影現寺(しほんようげんじ)があります。

近鉄南大阪線の尺土駅で乗り換えて、御所線の新庄駅で下りますと、駅の西側に柿本神社が隣接して います。駅の裏庭といった感じの村の小さなお宮さんで、なおかつ、奈良県葛城郡新庄町役場の隣地と もなっているのです。 新庄駅に立って四周の「大和国原」の景色を遠望しますと、柿本人麻呂の歌の世界の背景になって いる大和という国の映像がはっきりと認識できます。 葛城山(標高959m)の東麓に位置する新庄町からは、北西に二上山が、南西には金剛山がまさに 覆い被さるように間近に望むことができます。東方に目を転じますと、飛鳥の里から北に向かって 大和平野が広がっており、畝傍山・香具山・耳成山の大和三山が、さらに飛鳥の地の背景には、 南側から巡に竜門岳(904m)、音羽山(852m)、さらに三輪山(467m)が見えます。 古歌に詠われているように「・・・大和は国のまほろば、たたなづく青垣うるはし・・・」の 広々とした大和国原となっています。萬葉の人々の「大和の風景」を一層身近に感じることが出来る 場所でもあるのです。 鳥居をくぐって正面本殿の左奥の竹林の中に「柿本大夫人麻呂之墓」碑と天然石に刻まれた万葉歌の 歌碑が並んでいるのが見えます。

人麻呂の古里がこの地であるという背景には、萬葉集中に人麻呂の数々がここからの「大和国原」を 詠んでいるからなのでしょう。 例えば、柿本人麻呂と関係ある葛城山の歌には、 「飛鳥川もみち葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし」(巻10−2210) あるいは、 「春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ」(巻11−2453) などでしょう。

因みに2453番歌31音は、万葉集原本で漢字わずかに10字で表現していて、 「春柳 葛山 発雲 立座 妹念」 となっています。万葉集でも最少字数の歌ではないでしょうか。 大変便利な萬葉漢字活用法です。なんとなく真似て「萬葉漢字和歌」なるものを作ってみたくなる 漢字応用世界です。 因みにこの歌の周辺には同じ様な「萬葉漢字和歌」がいくつかあります。一例としてもう一首漢字 10字よりなる歌を引用して人麻呂歌人に敬意を払いましょう。 「白玉 従手纒 不忘 念 何畢」(2447番歌) (しらたまを てにまきしより わすれじと おもひしことは いつかをはらむ) 人麻呂自身、和歌を詠む時、どのような記録方法を採ったは不明ですが、少なくとも人麻呂の 歌を残した万葉集編者はその漢字世界を存分に活かして和歌として記しているのです。 上述の歌枕である「飛鳥川」「葛城山」の他に、人麻呂歌集中には、櫟本周辺あるいは柿本の里 近辺の歌枕が多く見られます。 巻7ー1087〜1119番歌 巻向の穴師川、弓月嶽、檜原山、巻向山、三室山、三輪檜原など 1268〜1269番歌 巻向山 巻9−1709番歌 南淵山 1775番歌 泊瀬川 巻10ー1812〜1818番歌 香具山、巻向檜原、巻向山、弓月岳、朝妻山など 巻11−2368〜2516番歌 布留山、香具山、奈良山、春日山、三室山など 巻12ー2841〜2863番歌 明日香川、八釣川など

これらの地域名を見ていますと、明らかに人麻呂の歌の世界は、巻向地域に中心があるように 思われます。人麻呂の生活圏が三輪山の周縁にあると想像されることより、万葉集研究者の意見 (例えば、稲岡耕二「王朝の歌人1ー歌の聖なりける柿本人麻呂」集英社)として (1)人麻呂の家は、住坂(奈良県宇陀郡榛原町の西峠付近)にあったのではないか。 (2)人麻呂の母の実家が住坂にあったのではないか。 (3)人麻呂の愛する女性が三輪山周辺に住まいしていたのではないか。 などの推論が出されているのです。そういう仮定を設けるとこれらの「人麻呂歌集」の歌々が 人麻呂の目を通して詠まれたとして理解しやすいと言うわけです。これこそ「萬葉ロマン」と いうことになるのでしょうか。 なお、人麻呂伝承地として、櫟本地区、新庄町以外の奈良県下の関連地として、 (1)大和高田市根成柿 柿本人丸の墓(天満神社境内石塔二基)あるいは 人麻呂最後の妻依羅娘子の生誕地という伝承。 (2)橿原市地黄 人麻呂神社 (3)吉野郡吉野町 人麻呂塚 (4)山添村毛原 人麻呂建立の大仏殿跡 などですが、奈良県下以外の所でも何かと人麻呂の関係する遺跡が残されているところをみますと、 やはり、人麻呂およびその一族は「宮廷歌人」であったと同時に、「巡遊伶人」すなわち歌を 持ち歩く集団という説(折口信夫博士など)を裏付けることになるのでしょうか。

人麻呂の歌として百人一首に採られたものは、拾遺和歌集巻十三・恋三・778の歌で、さらに 出典の万葉集では、巻十一・2802番歌の左註に書かれている歌となっています。 「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を」 さて斯くも「長きもの」の譬えに扱われた「山鳥の尾」がそんなに長い物か、念のため、事典を 引用しておきましょう。 野鳥図鑑によりますと、山鳥は地球上で日本の九州、四国、本州にのみ棲息する日本列島の特産種 ですから、代表的な「日本の鳥」ということになります。人麻呂が日本にのみ棲息する鳥と分かった 上でわざわざ歌に取り込んだとは思えませんが、山鳥を取り込んでいるところに意味がありそうです。 山鳥は、四季を通じて雉より標高の高い山岳部の森林にのみ留まって開けたところへでない習性で、 一夫多妻制で巣は林の中の地上に作り、雌が卵を抱いて、雛を育てる役目だとのこと。 雄の体長は125cmほど、雌は50cmで、「長い尾」をもつのは雄だけですから、人麻呂は 雄の山鳥を詠い込んだことになります。 また、種類は本州、四国、九州で5亜種になり、畿内では主として、「キタヤマドリ」「シコク ヤマドリ」ですから、人麻呂が歌に引用したヤマドリも、見かけた経験があるとすればこれらの亜種 ということになるのでしょう。

山鳥といえば、僧行基の歌の方が趣があります。 「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば 父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」 (玉葉和歌集・巻19・釈教・2627)目次に戻る
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