敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 169 回 *** 第2番・その2 ***
***** 持統天皇ー桃源郷と奥津城 *****
目 次
<吉野へ>
<宮滝>
<大内陵>
百人一首・第2番 春すぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山
<吉野へ>
歴代天皇の吉野行幸の中で、持統天皇の場合、33回と圧倒的に多く、他の天皇が多くとも3回
(聖武天皇)どまりであることと比較して、むしろ異常なほどです。
(北島徹「萬葉王族歌人群」世界思想社)
夫天武天皇(大海人皇子)の壬申の乱の出発地であると共に「禊ぎの聖水を求める」吉野として
こよなく愛したのかもしれません。
持統天皇の都である藤原京(神武天皇橿原宮以来、天武天皇飛鳥浄御原宮までの「宮」に代わって
初めて「京」の名称が使われたところ)は、北は耳成山、西は畝傍山、南は甘樫丘、東は百人一首に
詠まれた天の香具山に囲まれた平地に位置し、飛鳥川が藤原京の東南から北西の対角線に沿って流れて
います。
この藤原京から吉野までは、直線距離にして、約15kmで、明日香村の栢森から芋ヶ峠を越える
峠道をとっても徒歩で数時間の距離にあります。

(左)飛鳥から吉野へ(右)吉野周辺の地理
飛鳥の宮人から見れば、「吉野」とは、南方高取山の山向こうにある桃源郷のような世界として
考えていたのでしょう。
天武天皇の御歌にも「よき」「よしの」が詠み込まれている通りです。
「よき人のよしとよくみてよしと言ひし吉野よくみよよき人よく見」(巻一・27番歌)
そして、持統天皇の御代になって柿本人麻呂は、吉野の地を寿ぎ、第36番歌(長歌)その反歌の
第37番歌、および第38番歌(長歌)その反歌の第39番歌を献歌しています。
ー吉野の宮に幸しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
「やすみしし わが大王の ・・・・・ 吉野の国の ・・・・・
この川の 絶ゆることなく この山の いや高しらす
水激つ 滝の都は 見れど飽かぬかも」
(巻一・第36番歌)
反歌
「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の たゆることなく またかへり見む」
(巻一・第37番歌)
そして、第39番歌の左注として、日本紀による持統天皇の「吉野行幸」の記録が列挙されている
のです。
それから1300年後、吉野の地は、一般庶民の桜見の「桃源郷」と変貌して昔を偲ぶ民族のルーツ
のような日本のふるさとになって現存していることは嬉しい限りです。
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<宮滝>
近鉄吉野線の大和上市駅で下車し、駅前から吉野川を遡る国道370号線を走るバスに乗って、吉野
川右岸沿いに上流に向かいます。上市の町を過ぎて、妹山の麓を通過して約20分ほど乗りますと、
吉野宮滝のバス停留所に着きます。

(左)吉野宮滝付近の地理(右)妹山と吉野杉材木の山
バス道から吉野川の方へ逸れますと、旧道に出て、梅谷味噌醤油店の裏庭先に水準点(187.7m)が
あり、そこから100mほど戻った所に吉野宮滝遺跡の石碑が立っています。
石碑から吉野川岸までの平らな畑地が嘗ての吉野宮滝の跡と推定されているのです。
東端には中莊小学校の地まで広がっていたとされています。

(左)宮滝遺跡碑(左手の山・象山、中央奥・吉野山)
(右)中莊小学校東門付近の宮滝遺跡石碑と案内板
「大和には鳴きてか来ぬらむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる」(巻一・70・高市連黒人)
「み吉野の象山の間の木末にはここだもさわぐ鳥の声かも」(巻六・924番歌・山辺宿禰赤人)
中莊小学校から吉野川の対岸には、象山が立ちはだかっています。中莊小学校の前を通って柴橋を
渡りますと、象の小川が流れ込んでいる「ゆめのわだ」と呼ばれる川岸に到ります。
「ゆめのわだことにしありけりうつつにも見てけるものを思ひし思へば」(巻七・1132番歌)
これらの風景は日本の片田舎の何処にでも有りそうなもので、「宮滝」と意識しなければ見過ごして
しまいそうな平凡な山川の一画と言えます。
この宮滝遺跡も近年昭和32年になって考古学者によって確認され始めたもので、石碑も昭和34年に
建立されています。
宮滝遺跡に立てば足繁く訪れた持統天皇とそれに従った宮廷歌人達を思いだし、偲ばねばなりません。
どのような荘厳な離宮をこの地に造営したのでしょうか。吉野川とその奇岩群、それに背後の象山を
眺めることが出来る宮殿の甍が川岸に沿って建ち並んでいたことでしょう。

(左)柴橋上から眺めた吉野川の渓流と宮滝大橋
(右)宮滝・桃源郷、鉄橋は柴橋、左手川岸の竹林奥は宮滝遺跡
「み吉野の滝もとどろに落つる白波留まりにし妹に見せまくほしき白波」(巻十三・3233番歌)
「皆人の恋ふる美吉野今日見ればうべの恋ひけり山川清み」(巻七・1131番歌)
「吉野川岩と柏と常磐なす我は通はむ万代までに」(巻七・1134番歌)
万葉集巻六に詠まれている宮滝と現在の吉野川渓流とは、かなり景観が異なる事が想像されます。
たとえば、巻六から、渓流の描写歌詞を採り上げますと、次のようなものです。
「・・・美吉野の 清き河内の激つ白波」(908番歌)
「山高み ・・・落ち激つ 滝の河内は・・・」(909番歌)
「・・・み吉野の滝の水沫に咲き・・・」(912番歌)
「・・・み山もさやに 落ち激つ 吉野の川の 川の瀬の・・・」(920番歌)
「・・・・・み吉野の激つ河内の・・・」(921番歌)
これらの歌のように「激流と滝」をなした古の吉野川も、現在は木橋から鉄橋に代わった柴橋の
上から見下ろしても所々に青緑色をなした淵が見え、奇岩が川床に横たわっているだけで、とても
激流とは言い難く、滝をなすところは一所も見いだせません。
1300年の間に吉野川の流れが川の風景を変えていったのでしょうか。大和上市辺りと宮滝付近
の吉野川では、川の様相が全く違います。宮滝付近では、川は大きく蛇行を繰り返しており、さぞかし
その昔は急流が白波を立てて流れ下っていたのかもしれません。
現在宮滝の山一つ北側には津風呂湖が人工的に建設されていて、水を満々とたたえた湖面が山あいに
出現しています。藤原朝の激流・吉野宮滝の景勝の地に代わって平成の世では湖の観光地と取って
代わりました。もはや宮滝は万葉集の中でしか存在しないのです。
吉野を愛したというより、崇めた天武天皇、吉野を聖地とした持統天皇、遙か昔の宮廷の華やかさは、
想像できないほど現状は鄙びた田舎になり果ててはいますが、ことに吉野の地に魂を染み込ませた持統
天皇の存在は、この宮滝の空気の中に生き続けることでしょう。
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<大内陵>
天地天皇の近江大津宮から壬申の乱を経て、都は飛鳥浄御原宮へ遷宮され、そこで即位された天武
天皇の政事は15年で天武天皇15年(686)9月終わりを告げ、天武天皇はその二年後に大内陵
(奈良県高市郡明日香村大字野口)に葬られて、さらに15年ほど経った大宝二年(702)12月
天武天皇の皇后で第41代持統天皇もこの陵に合葬されます。
持統天皇は天智天皇と遠智姫の間に生まれた鵜野皇女で、天智天皇の実弟天武天皇に嫁して草壁
皇子をもうけたものの天皇の位に就ける願望を達することが出来ず、孫の第42代文武天皇に夢を
託することになったのです。この間に持統天皇はその身辺の王族(大津皇子、大伯皇子、弓削皇子、
飛鳥皇女)に多くの運命を作り出すことになったのです。
額田王が当初天武天皇に嫁していたにもかかわらず、後年その実兄に嫁いだことなど、両天皇を
取り巻く女性の運命が様々に揺れ動いていることを感じさせます。
大内陵は飛鳥浄御原宮から甘樫丘を越えて、南西方向に約1.5km離れたところで、真北に藤原宮
が、真南には高松塚古墳を中心とした飛鳥歴史公園があり、その東方石舞台古墳の歴史公園などの
歴史公園群に囲まれた古代日本の中心地に位置しています。
この一帯は、古代日本の歴史的景観の地として、環境保護の手を尽くされているいるところです。

天武天皇と持統天皇の大内陵
大内陵を訪れるには、近鉄吉野線「飛鳥」駅前から国道169号線を渡り、丘陵の側道をとり、
高松塚古墳や中尾山古墳の脇を抜けると、大内陵が小高い丘の上に見えてきます。
地理的には持統天皇の都藤原京の中央大道(朱雀大路)の真南方向の延長線上にありますから、
参道から御陵は藤原京の方向を拝むことになります。さらに大内陵の真南には持統天皇のお孫さんに
当たる文武天皇の御陵があります。大内陵の東の山辺に向かうと聖徳太子縁の橘寺、川原寺、飛鳥
板葺宮さらには石舞台古墳などがある古代大和朝廷の中心地に到るわけです。

(左)雷丘脇から天の香具山を望む(右)橘寺から岡寺方面を望む

橘寺全景
橘寺の小高い丘陵地より北の方を望みますと、天の香具山のふんわりとした小山が飛鳥平野に横た
わっているのが目に入ってきます。
橘寺と天の香具山の丁度中間地点の飛鳥川が藤原京の方へ流れを変える脇に甘樫の丘があり、その
麓は飛鳥寺および飛鳥浄御原宮跡地に当たり、まさしく古代日本の中心地帯の中でも核心地とも言う
べき、「持統天皇」の奥津城でもあるわけです。
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