敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 168 回 *** 第2番・その1 ***
***** 持統天皇ー飛鳥の宮 *****
目 次
<天の香具山>
<飛鳥浄御原宮>
<藤原京>
百人一首・第2番 春すぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山
<天の香具山>

天の香具山
万葉集に於ける大和三山のひとつ「天の香具山」は、三山の中でもひときわ古代大和の飛鳥の地に
於いて重要な山であることが、万葉集を繙けば理解できます。
万葉集巻一は、古代の天皇の紀年順に歌が載せられています。
最初の時代は「泊瀬朝倉宮に天の下知らしめしし天皇の代」としての大泊瀬稚武天皇(第21代
雄略天皇)の御歌で、まず、「大和の国」を詠い挙げています。
次にその「大和の国」における重要な神との接点になる御山として「天の香具山」が、第34代
舒明天皇によって、望国の歌として挙げられています。天皇が国見をする為に登る山ですから、
「大和の国」の中心的位置付けです。
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山・・・」
大和には多くの山があるが、中でも天の香具山は「天津神のよりしろ」である重要な山であると
詠っているのです。「天の香具山」とは称されても、「天の耳成山」「天の畝傍山」とは言われない
理由がそこにあるのです。
さらに神の山である香具山は、第38代天智天皇に歌い継がれ、有名な「中大兄の三山の歌」
(第十三番歌、第十四番歌)となり、その娘の持統天皇に伝承されてゆきます。
ー藤原の宮に天の下知らしめしし天皇の代」ー天皇の御製歌
「春過ぎて夏来るらし白たへの衣干したり天の香具山」
持統天皇は、この歌を香具山近くにあった宮殿(飛鳥浄御原宮、あるいは藤原京)からの単なる
叙景として詠んだのではないでしょう。当然、父天智天皇の大和三山の歌、さらには御皇祖舒明天皇の
国見をした大和国の中心的シンボルと認識した上で「天の香具山」を詠んだはずです。
専門的な解釈としては、これは星の「スバル」(牡牛座散開星団プレアデス)のことで、農事を
促す一種の呪歌として受け取られています。(吉野裕子「持統天皇」人文書院(1987))
つまり、「スバル」が天頂に来る前そばの栽培、麦の種まき、稲の田植えなどの農事の目安になる
重要な星で、夏の夜半香具山の上に輝く「白衣の星」ということになるのです。
さてその天の香具山は天武天皇の飛鳥浄御原宮の真北に位置する標高わずかに152mのこんもりと
した丘陵です。国の風致地区に指定されよく整備された甘樫の丘に登って四周を見渡しますすと
古代大和朝廷の飛鳥の地、藤原京跡の風景が遠望されます。
西方に二つの頂を持った畝傍山、北方に富士山を小さくしたような耳成山、その東南に広い裾野を
持った天の香具山があります。


(左)天香具山付近の地理(右)甘樫丘からみた耳成山(左方遠方)と天香具山(右前方)


大和三山(左)畝傍山(中)耳成山(右)香具山
下はライトアップされた大和三山(平成11年9月5日産経新聞記事より)



この香具山は浄御原宮からは真北に、藤原京からは真東に見ることになります。持統天皇はどちらの
方角から香具山を望んで、「夏来にけらし」と詠んだのでしょうか。
甘樫の丘を下りて浄御原宮跡の稲田の間を北へ、畦道を歩いて行きますと、大官大寺跡地に到ります。
この地点の田園には周囲に民家も森も丘もなく、北に香具山が間近に、南に雷丘あるいは甘樫丘が
望まれて、大和の故地を感じるところです。もっとも目立つものは、畦道の曲がり角にたてられた
「大官大寺跡石碑」のみという本当の「大和の古里」風景が残されています。
願わくはこの環境が後世に受け継がれんことを。


(左)豊浦の飛鳥川岸から甘樫丘を望む(右)大官大寺跡地から天の香具山を望む
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<飛鳥浄御原宮>
天武天皇と皇后鵜野皇女(持統天皇)親政の中心地となった「飛鳥浄御原宮」関連の遺跡発掘が、
この数年続いています。
飛鳥時代の宮変遷は次のように記録されています。飛鳥浄御原宮は、本格的な都城建設への準備期間
にも当たりましょう。
630〜636 飛鳥岡本宮 (舒明天皇)
643〜655 飛鳥板蓋宮 (皇極・斉明天皇)
655〜662 後飛鳥岡本宮 (斉明天皇)
(667〜672)近江大津宮 (天智天皇) **** 壬申の乱 ****
672〜694 飛鳥浄御原宮 (天武・持統天皇)
694〜710 藤原宮 (持統・文武・元明天皇)

甘樫の丘からみた古代飛鳥の宮跡地域
天武天皇の宮に関係した遺跡が発掘されたのは、史跡公園伝飛鳥板蓋宮跡地の西側飛鳥川近くの
川岸に位置する一画で、平成11年6月に新聞発表されました。
ー奈良・飛鳥京跡ー最古の大規模庭園跡発見 「天武天皇の白錦後苑か」



(左)発掘現地(中)上空からの発掘全景(右)復元イメージ図
(引用資料:産経新聞平成11年6月15日記事より)
発掘された庭園は、日本書紀天武十四年(685)「白錦後苑に幸す」、あるいは持統五年
(691)「馬を御苑に観(みそなわ)す」とある庭園類に関係している可能性があると推察され
ました。まさにこの発掘現場に立つとき、1300年ほど前の天武・持統天皇世界が身近に感じ
られます。


(左)飛鳥板蓋宮跡(右)宮跡から甘樫丘(左手丘陵)と天香具山を望む
平成16年3月9日の新聞発表では、「飛鳥浄御原宮の正殿跡出土」と報道され、これまで確認
されてきた遺構と併せて天武天皇の皇居の地が裏付けられたのです。



(左)発掘現地(中)上空からの発掘全景(右)復元イメージ図
年が改まる毎に飛鳥の地には、古代が甦ってくるような思いです。持統天皇の古里もまさに飛鳥の
里に掘り起こされているというところです。それと共に、古代歴史資料を通じてのみしか、体験でき
なかった天武・持統朝が正に目の前に展開されていく感がします。
飛鳥の地は近年になって特に第二次世界大戦後、民主日本に展開した社会で古代日本に人々の目が
ゆくようになり、現在の考古学の隆盛を見るようになりました。
飛鳥駅前には訪れる人の便を考えて、レンタルサイクリング、各旧跡での案内表示、旧跡巡回道路
整備など、配慮されつつあります。財団法人飛鳥保存財団あるいは、観光飛鳥公共事業会社などの
団体も組織されるようになり、訪れる人も幅広い年齢層に拡大しているようです。
明治以降、この飛鳥の地は古代日本の古里として、何度か全国に注目されてきました。
最初は、昭和15年を中心とする神武天皇の畝傍山と橿原神宮参拝の国家的な紀元2600年記念
行事であり、近年では、極彩色の壁画で一躍古代日本を甦らせた高松塚古墳の発見でしょう。
いずれも現状の環境整備を進め、後世に古代の日本を伝承するという昭和平成時代の人々の役目を
果たさねばならないように思います。もっとも一方では、飛鳥の地周辺の地域開発が進み、日本民族の
古里が変質されつつあるようにも感じられます。


(左)橿原神宮拝殿(右)高松塚古墳正面
郊外電車を始めとする交通の便が良くなったことから、地価の上昇とともに宅地開発も静かな大和の
飛鳥の奥まで拡大しつつあるのです。
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<藤原京>
天武天皇(在位672〜686)の都である「飛鳥浄御原宮」(22年)に対して、持統天皇(在位
690〜697)が律令国家造りの中心に据えた「藤原京」(16年)は、皇位に就いた翌年(691)
「新益京(あらましのみやこ)」の地鎮祭を挙行し、東西二十坊の5.3km、南北十坊の
4.8km、広さ25.3平方kmで中心に「藤原京」を据えるという後世の平城京・平安京と異な
ったと都城構成とし、且つ、広さもそれらを凌ぐ宮都建設になっています。




藤原京の想定図
(上)(引用資料:橿原市「よみがえる藤原宮と京」1996年9月)
(下)(引用資料:高橋康夫「永遠の都・平安京へーふるさとの原風景」2001年4月
古代都城建設には、中国の道教的神仙思想が活かされました。藤原京の遷都に当たっても、さらに
その後の平城京の建設に先立っても、占われた環境条件でした。
すなわち東西と北の方向に神仙の三山(蓬莱・瀛洲(えいしゅう)・方丈)を、さらに南山を配置
して、目出度い土地の神の祝福を受けるべき都城でなければいけなかったのです。
持統天皇の次世代・元明天皇の時、平城京への遷都に当たっても「平城の地は、四禽図(しきんと)
(北・玄武、東・青龍、西・白虎、南・朱雀)に叶い、三山が鎮めを作(な)し、」神仙思想の合致し
ているとしています。
藤原京の場合は、神仙三山とは天香具山・畝傍山・耳成山で、南山は吉野山になります。
万葉集では巻第一・52番歌「藤原宮御井歌」として、四山が次のように詠み込まれています。
「・・・ 大和の 青香具山は 日のたての 大御門に 春山と しみさびたてり
畝傍の この瑞山は 日のよこの 大御門に 瑞山と 山さびいます
耳成の 青菅山は そともの 大御門に 宜しなへ 神さびたてり
名くはし 吉野の 山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける・・・」
香具山は神仙三山の内「蓬莱」山として、万葉集では、
「天降りつく 天の芳来山(かぐやま)」(萬葉原文ー天降付 天之芳来山)(第257番歌)
「神さびけるか 香山(かぐやま)」(萬葉原文ー神左備祁留鹿 香山之)(第259番歌)
「天降りつく 神の香山(かぐやま)」(萬葉原文ー天降就 神之香山)(第260番歌)
と詠われ、さらに四周の四山を詠い込んだ「ているのです。
国都の建設に当たって執行者の頭の中には、「天の香具山の取り込み」が、その前提条件となって
いたと思われます。したがって持統天皇が万葉集に「天の香具山」を詠み込んだ歌を残していることは、
大いなる意味があるわけです。
「春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山」(巻第一・第28番歌)

藤原宮跡地近くの醍醐池畔に建てられた持統天皇万葉歌碑
持統天皇がわずか18文字に託した香具山の神への祝詞のようなものです。藤原京加護の願文と
して、ひしひしとその思いが伝わってくるような歌です。
「春過ぎて」とは、律令国家の基礎が出来上がり、「夏来たる」とは、その国家の繁栄を迎える
時が来たと実感したかったのでしょう。「白妙の衣」とは、天香具山が巫女の白衣で、巫女の仕える
神の居られる神の山・香具山(神を具す山あるいは神が来る山か)の神にお祈りいたします、という
ことでしょう。
694年に天皇の遷都が行われ、3年後の697年持統天皇は自ら譲位して孫の軽皇子(文武天皇)を
即位させました。さらに律令国家の最終の仕上げとして、701年に大宝律令を完成させ、702年から
施行されるのを見届けて、持統天皇はその年の暮れに崩御しました。
持統天皇がその建設に生涯をかけた「藤原京」も、後を継いだ文武天皇も在位僅かに十年にして
707年崩御し、その首皇子(後の聖武天皇)はいまだ7歳のため、母の阿閇(あへ)皇女が皇位に
就き、その三年後710年都は平城京へ遷都することになります。
持統天皇の「藤原京」も三代の天皇十六年間の都に終わります。
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