敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 166 回  *** 第1番・その1 ***
*****  天智天皇ー近つ湖畔へ  *****

目    次
<山科陵> <近江神宮> <近江大津宮跡>

百人一首・第1番 秋の田の刈り穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ


 百人一首歌人として天皇歌は8首採られています。これまでに敷島随想の連載では、天皇歌は
三条院(87回〜88回)後鳥羽院(115回〜118回)順徳院(119回〜121回)
崇徳院(122回〜123回)陽成院(164回)光孝天皇(165回)と六人の天皇方を
採り上げてきました。
  前回連載の光孝天皇は第58代で、それから遡ること20代約200年前に、天智天皇が平安京の
東隣近江の地に都を、ご自身の永眠の地は山一つ隔てた山科に、大和明日香の地から”近つ湖畔へ”と
移ってこられています。平安京を拓くための先導役を務められたのではないかと思われます。

 第38代天智天皇縁りの地を訪ねる場合、もっとも古い場所はその終焉の地である山科御陵であり
もっとも新しい場所は近江大津宮・近江神宮ということになるのではないでしょうか。
 前者は崩御の年天智十年(671)以降の七世紀末、一説に文武天皇三年(699)御陵修造した
ものであり、造営後はや1300年を経過しています。
 後者は皇紀二千六百年記念として昭和15年(1940)「近江神宮」として造営されたものです。

<山科陵>

 天智天皇の御陵は京都市内山科の地にあります。京都駅から大津に向かって東山トンネルを抜けると
車窓の左手北側には山科の山間の地形がパノラマのように展開し、その麓に少しこんもりとした森が
見られます。この一画が京都市山科区上御陵野町の御陵地ということになります。

山科の天智天皇御陵周辺の地理(左)と御陵正面(右)
 御陵の裏手を琵琶湖疎水が流れ、府道(三条通り)が南面正面を走っています。いずれも御陵の
修造(699年)後、後世の人々が建設したものですし、さらに現在では御陵の周辺は住宅が所狭し
と立て込んできています。現在のところ御陵の周辺には大きな建造物は見あたりませんが、既にJR
琵琶湖線の路線は高架になっているため山科の町を南北に分断していますし、山裾に沿っては大きな
集合住宅や事務所建造物も目立ち始めました。
 あと何十年か何百年すれば、山科の地は高層ビルの林立するところでそのビルの谷間に御陵が
ぽつんと取り残されているようになるやも知れません。
 ちなみにJR山科駅の南側一帯は駅前再開発の事業で、高層ビル群の集合体となりつつあります。

  山科の地がどうして天智天皇の御陵地として選定されたのか分かりませんが、近江大津宮に近く
かつ桓武天皇による平安京造営地に隣接しているのが山科地区です。平安遷都の100年前に既に
山科の地は開けていたのです。当時は平安京もなく、しかも東山を隔てたこの地は、確かに山間の
静かな陵墓に適した地であったのでしょう。平安京遷都が完了してから、朝廷は国家の出来事や事変
毎にこの御陵に勅使を派遣したようです。御先祖の御加護を願ってのことでしょう。京の都の包含され
てしまったために陵の主も静かに永眠することが出来なくなりました。

参道脇の縦型日時計(昭和13年京都時計商組合建立)と参道
 御陵前の山科野のごく限られた範囲に、日本の大動脈が敷かれているのです。JR東海道本線、
東海道新幹線、国道一号線、名神高速道路、などです。
 京都の都がおかれてから、逢坂山の関を越えて、東国や北国へ往来した昔の人々は現在私たちが
JRの電車の窓から眺めているように、天智天皇の山科御陵を拝しながら旅の足を運んだことでしょう。

 京都市山科区は東に音羽山、西に東山・稲荷山が、南には醍醐寺・醍醐山、北には大文字山・如意ヶ岳
が四周を囲んでおり、この地に御陵を構えるのは、天智天皇、第60代醍醐天皇山科陵、第61代
朱雀天皇醍醐陵などです。
 近世では、豊臣秀吉の花見で有名な醍醐寺や義士の討ち入りで有名な大石内蔵助の大石神社などが
この山科の地に拠っています。

 もう一人山科盆地で忘れてならない人物がいます。征夷大將軍坂上田村麻呂(758〜811)です。
八世紀末に清水寺を建立し、蝦夷鎮圧に功績があり、山科の地に約三万平方メートルもの広大な墓地を
賜っており、現在石碑の立っているところは山科川と旧安祥寺川に囲まれた丘陵地の一角(勧修小学校
北側)になっており、逢坂山の関の方向に向かい合っています。清水寺と坂上田村麻呂の関連事項は
すでに坂上是則の所で言及いたしました。
 生前は東国・陸奥に出兵し、奥州の地の鎮圧に国家的な功績を残したので、死しても東国への出口で
ある逢坂関を山科の地から東国ににらみを利かす役目を負わされているような感がします。

坂上田村麻呂の墓所
 坂上田村麻呂は初期平安朝にとっては如何に重要な人物であり、如何に当時の桓武天皇およびその
皇子(平城天皇、嵯峨天皇)にとって頼みの人物であったか、清水寺創建の勅許、広大な墓地の賜下の
ことだけでもわかります。彼の居所は逢坂関への道粟田口周辺(粟田別業)であり、勅許を得た清水寺
は京都から山科への東山にあり、終焉の地でも山科の野ですから、生涯東国地方を意識したものであっ
たのでしょう。1200年の後の現在は、東国との人、もの、情報の通路にもなっているわけです。
 田村麻呂は墓の中から東国に走る列車や自動車の群、はたまた音羽山の通信鉄塔を眺めて、賑やかに
なったなあと、ヒゲを撫でているのでしょうか。田村麻呂も静かに眠りに就けない歴史上の人物に
なっているのです。 
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<近江神宮>

 天智天皇はその都として近江大津宮を造営したわけですが、父舒明天皇の四宮(飛鳥岡本宮、田中宮
厩坂宮、百済宮)母皇極天皇・斉明天皇の二宮(飛鳥板葺宮、後飛鳥岡本宮)と併せますと、日本歴史
上でももっとも”引っ越し癖”のある親を持ったことになります。継体天皇も四度遷宮されているよう
ですが、その后ともども六宮も造営されたのは舒明天皇のみのようです。その気質が天智天皇に遺伝
されて時代の心機一転の時は、遷宮という手段に拠ったのでしょうか。

 琵琶湖畔に都がおかれた例は第12代景行天皇が志賀高穴穂宮と天智天皇の近江大津宮の二回で、
何れも現在の大津市錦織のちであったようです。
 これら琵琶湖西南に位置する一画は、1300年前の都の地以来、琵琶湖を有する近江国の中心地で
あり続けたのです。現在でも滋賀県県庁、大津市市役所を中心として、県や市の頭脳部分になって
います。より細かく地名を見ますと、大津市役所は近江神宮の南、三井寺近くになり、滋賀県庁は、
さらに南のJR大津駅前に建っています。

 近江神宮は、皇紀2600年の昭和15年(1940)、現在の神宮町の地に近江造りという
新しい神社建築様式(本殿、中門、拝殿が棟続きで、内拝殿とそと拝殿が回廊で結ばれている)で
造営されました。
 天智天皇は日本で初めて、漏刻(水時計)を作った(天智十年四月二十五日)ことから、毎年太陽暦の
6月10日の「時の記念日」(大正9年制定)には「漏刻祭」が執り行われます。
 時計に関する博物館として「近江神宮時計博物館」が昭和38年に開設されて、和時計や世界各地の
時計に関しても約3000点が展示されています。

近江大津宮周辺の地理と近江神宮の正面参道

近江神宮の拝殿や楼門

(左)近江神宮時計博物館と(右)水時計・漏刻の復元
  現代の大津市の中心は浜大津当たりでしょうか。JR大津駅前よりさらに東に移動した膳所あたりに
西武鉄道が関係する高層ビルのホテルも建ち始めており、膳所の湖畔には近年近江大橋が開通して
大津市対岸の草津市との道路交通網が整備されるとともに、県の中心も少しづつ東の方に移動しつつ
あるようです。草津市は大津市の東側に位置し、昔の東海道と中仙道の分岐点になっていた交通の
要衝の地であり、古代から現代までの琵琶湖の海上交通に変わって21世紀は陸上交通の発達と共に
県の中心地になる可能性があります。
 
 現在名神高速道路のインターチェンジ(栗東地区)が昔の東海道(国道一号線)と中仙道(国道八号線)
の基地になっている感があり、物流関係の産業施設が目立つようです。
 さらに草津市の東方に蒲生野があり、ここに将来空港を建設し、県近代交通の中心にしようとして
います。このことからも県の中心が少しづつ東に移動しつつある事がいえるかもしれません。

 京阪電車で浜大津駅から琵琶湖西岸を北上して、二つ目の別所駅で降りると、湖には皇子山運動公園が
あり、長等山側には、大津市役所他の官庁建造物が並んでいます。大津市役所や警察学校の裏手に、
天智天皇の皇子で、壬申の乱で叔父の大海人皇子(天武天皇)に破れ、自害した大友皇子(弘文天皇)
の御陵が、それらの建物の庭に取り囲まれています。

弘文天皇長等山前陵の参道と御陵
 この地域一帯は天智天皇さらに古くは景行天皇の時代より琵琶湖の中心であり、現在の大津市役所
まで1300年以上も行政の中心であり続けています。
 山手には円満寺や三井寺があり、風致地区として千年後も変わらない景観を保ってもらいたいところ
です。明治になって琵琶湖の水を京都に人工的に疎ぎ入れる水路が三井寺の脇に掘削されました。
 この琵琶湖疎水の一帯は水の流れもさることながら、人や物の流れのもっとも激しい幹線群が集中
しているところです。鉄道では東海道新幹線、東海道線、湖西線、のそれぞれのトンネルがあり、
道路では名神高速道、国道一号線、161号線が、長等山、逢坂山や音羽山をくぐり抜けています。
 これほどに多くの鉄道、道路、隧道、水道が本の数キロメートルの範囲に集中しているところは
日本でもめづらしいのではないかと思われます。

 近世まで琵琶湖周辺の景勝地は近江八景として、石山寺(石山の名月)、瀬田の唐橋(瀬田の夕照)、
粟津の晴嵐、三井寺(三井の晩鐘)、比良の暮雪、矢橋の帰帆、唐崎の夜雨、堅田の落雁が並べられて
いました。現在では、石山寺付近の南郷洗堰、粟津近くの近江大橋、三井寺近くの琵琶湖疎水、唐崎
の北に位置する歓楽街としての雄琴温泉地区、堅田地区の琵琶湖大橋や比良山スキー場などをして
現代人の琵琶湖名勝地あるいは遊楽の地になり変わっているようです。
 もはや琵琶湖は海上交通路としての役目はなくなり遊覧の地として夏は水泳、ヨット・ボートや
遊覧船の場所となり、琵琶湖西岸の山岳地帯は、冬季にスキー場(びわ湖バレイ、比良山・箱館山・
マキノなどのスキー場)を提供できるようになっています。

 天智天皇による大津宮開闢(667年)以来、琵琶湖とそれを取り巻く比叡山・逢坂山・長等山・
比良山など志賀の自然環境は1350年間、湖岸に展開する「近江の歴史」を見続けてきました。
いろいろな時点で日本の歴史の流れに関係する重要な地域であったのです。
 千年以上に渡ってこの地から、日本全国・東西南北への重要な拠点になるであろうと予見された
天智天皇の勘は当たっています。現在の日本の状況は、山科の里の「みささぎ」から、目の前を
東奔西走する「人・もの・情報」の動きで感知されていることでしょう。

 天智天皇は1300年後の「我が国原」の実態を如何に評価されるのでしょうか。いろいろの面で
国としての基本条件を整えられることに尽力されただけに一層「国体の現況評価」が気になるところ
です。 
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<参考メモ・近江大津宮跡>

 天智天皇の御陵は京都市山科区の「山科陵」で、確定していますが、「近江大津宮」の跡地に
関しては近年まで特定されていませんでした。
 昭和13年から開始されたという発掘調査も、昭和49年錦織地区に於ける大規模な掘立柱建物跡
発見で、大津宮内裏南門と判明したことからほぼ宮跡が特定され、引き続きの近年の発掘調査によって、
大津市錦織地区が大津宮の中枢部分であったことがほぼ確定され、一帯は現在「近江大津宮錦織遺跡」
として国指定史跡になっています。

史跡周辺拡大図

大津宮跡付近の地理

大津宮跡石碑
  最近の発掘情報を新聞から拾いますと、次のようになっていて、「大津宮」内裏の規模がほぼ確定
できるまでになってきているようです。

大津宮跡発掘情報(引用資料:読売新聞平成16年2月21日付け)
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関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第一話 事始め(天智天皇)ー
併せて御覧願います。

平成16年4月20日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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