敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 165 回 *** 第15番 ***
***** 光孝天皇ー宇多野の地 *****
目 次
<和風文化志向>
<小松帝の御陵>
<文徳天皇御陵>
百人一首・第15番 君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ

光琳カルタの光孝天皇
(引用資料:別冊太陽「百人一首」平凡社(1972年12月)
<和風文化志向>
前回の連載に採り上げた第57代陽成天皇が奇人であったのに対して、その正反対の「閑雅の帝」で
あられた今回の「仁和(にんわ)のみかど」光孝天皇は、誠に対照的な皇位継承者であり、かつ
苦労人であられたことがこの歌に伺うことが出来ます。はたまた「仁和御集」に収録されている
次のような歌が詠えるのは、そのお人柄によるのでしょう。百人一首の歌(第一番歌)に続いて、
「なみだがはながるるもののうきことはひとのふちせもしらぬなりけり」(第二番歌)
この系譜は、宇多天皇や村上天皇以下、平安朝の「延喜・天暦の治」へと繋がっていくのです。
光孝天皇は治世の面で、皇位継承者として自らを先導してくれた臣下藤原基経にあらゆる面で
控えめであったとされながらも、無能な人ではなく、曾祖父や祖父の桓武天皇・嵯峨天皇時代が
意図的に唐風文化に接近して、一時置き去りにされていた和風文化の復興に尽力されたことが、後世の
平安時代を形作る事に影響を与えました。
これは父の仁明天皇の和風文化志向から引き継いだと見られるもので、自身の育った環境も多分に
この和風文化の空気を吸えるものであったようです。「若菜を摘む故事」も言ってみれば和風文化への
目覚めで、古来の宮廷行事への復興です。さらには「和歌」という和風文芸の興隆のきっかけを
もった「仁和の時代」でもあったのです。ご自身は「仁和御集」に和歌を残されました。
御集には多くの妃達との和歌のやり取りの中で次のような歌を詠んでおられますが、ここでいう
「何」の「跡絶えて」なのかと推測しますに、光孝天皇の頭の中には「わが国の」「和風文化」の
姿や形を思い描いていたのではないでしょうか。
「あと絶えて恋しきときのつれづれは面影にこそはなれざりけれ」(第十三番歌)
(なくなると余計におもかげがしのばれていっそうこいしくなる)
「逢はずしてふるころほひのあまたあれははかなき空にながめをぞする」(第八番歌)
(経る、降る) (眺め、長雨)
単なる「恋歌」のように読める和歌のようですが、背景には帝の立場での「国の文化」のあり方を
思う心を述べているようにも取れないことはないと思います。
和歌と帝の関係の仲に親しんだ歌人に、かの僧正遍昭がいるのです。遍昭はすでに連載第103回「元慶寺」
第104回「深草の里」、第104回(補足)「をみなへし」で見ましたように、父帝仁明天皇の
蔵人頭であった時分に知り合って和歌の文化を吸収しているからです。
遍昭集に次のような詞書きと和歌が載せられています。
ーそう正までなりてのちのことにや、仁和のみかどのみこにおはししとき、ふるのたき御覧ぜんとて
おはしましけるみちに、へんぜうがははのいへのはべりけるにやどりたまへるに、にはをあきの
のにつくりて、いとをかし、おほんものがたりのついでによみてたまへりし、
「さとはあれて人はふりぬるやどなれやにはもまがきもあきののらなる」(遍昭集・第二十番歌)
それほどに僧正遍昭には、恩義を感じていたからでしょう、遍昭七十賀の宴を仁和元年(885)
十二月宮中仁寿殿で催して太政大臣基経以下の臣下が陪席して夜を徹して祝福したということです。
よほど遍昭には教えられる所が多かったのでしょう。それに答えた遍昭も正に「六歌仙のひとり」と
されるに相応しい和歌世界への功績を後世に残したことになります。
「この帝にして、この臣下あり」。
<小松帝の御陵>
船岡山の北側に三条天皇陵があるように、双ヶ岡の北側には光孝天皇御陵(小松帝後田邑陵)が
あります。高尾への周山街道(国道162号線)を北に向かって京福北野線の高架橋を越えて福王子
交差点を右に取ると、仁和寺山門前に出ます。門前町の住宅地の一画に光孝天皇の御陵があります。
仁和寺前を通る衣笠街道と京福電鉄北野線の間に挟まって御陵の前は路面電車のような小型郊外
電車がゴトゴトと走り、後ろは自動車が行き交うはななだ落ち着かない環境に変わってしまったよう
です。

宇多野の地理
衣笠街道が仁和寺境内風景と御陵を、また京福電鉄が双ヶ岡の風景と御陵を分断してしまったのです。
仁和寺も光孝天皇陵も双ヶ岡を借景にした風光の明媚な修行の地であり、永眠すべき地であったと
思われますが、1200年後の人々はその環境を市街地化と交通手段の多様な導入を図るために犠牲に
してしまった感があります。一般人が近づきやすくなった一方で環境そのものが破壊されつつあるわけ
です。
御陵周辺も他所に於ける御陵環境の変化と同様、住宅開発の波が押し寄せており、参道も辛うじて、
確保されているといった風情で、聊か寂しい物を感じます。住宅も住む人も100年、200年と
時が流れるにつれて、すこしづつ京宇多野の風情を変えていくのでしょう。辛うじて、仁和寺境内のみ
昔の面影を伝えているのです。
嘗てこの御陵は仁和寺北院の西側に接していたところ、時代と共に所伝を失い、整備して行くべき
縁の寺院が衰退し、近世では一時陵所が不確定でした。江戸期末期にも確定できず、明治22年になって
漸くに「天王塚」と称されていた現在の「後田邑陵」を治定したという経緯があるとのことで、以後は
不明にならないように願うところです。

光孝天皇の宇多野の御陵(小松帝後田邑陵)
光孝天皇が春の野に出てたのは宇多野の双ヶ岡周辺であったかもしれません。詠まれた御歌のままに
今も御室の山里では春は野に出て若菜を摘みつつ、衣手には雪が降りかかっていることでしょう。
双ヶ岡には北に仁和寺が、東には妙心寺の広大な境内が平安からの風情を伝承してきており、比較的、
千年前の雰囲気が持ち来たらされている京の一画と言えましょう。これ以上の人工的な建築物の混在は
避けたいものです。

狩野探幽「百人一首画帖」の光孝天皇
(引用資料:「百人一首」学習研究社(昭和60年12月))
目次に戻る
<文徳天皇御陵>
第54代仁明天皇の二皇子が後の文徳天皇と光孝天皇です。文徳天皇の系統は孫の陽成天皇まで
継がれ、その後光孝天皇になりました。同じ兄弟皇子でも弟帝は50歳を過ぎてから、思いもかけずに
皇位を継承されたためでしょうか、御陵も双ヶ岡の北麓にひっそりと準備されたようです。
それに引き替え、兄帝の文徳天皇陵は、双ヶ岡の西約1kmの宇多野の平地に造られ、御堀
(門徳池)も備えた大型の御陵になっています。文徳天皇御陵は「田邑陵」(たむらのみささぎ)と
称されたので、弟帝の陵は「後田邑陵」(のちのたむらのみささぎ)となるわけです。兄弟揃って
宇多野の地に永眠することになりました。
「田邑陵」は御陵の正面へお堀を渡るようになっておりますので、弟帝光孝天皇の約20mほどの
円丘御陵と比較しますと、各段の規模の差があります。しかしそのお堀へは満々と水を張るべきで
しょうが、心ない人のゴミの投棄によって堀のおもむきが失われつつあります。残念な環境破壊です。

文徳天皇御陵への参道
若菜の儀その他、「春の野に出る」には下記に引用しました百人一首随筆「平平点描」第十五話を
参照願います。
目次に戻る
関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第十五話 旬の料理(光孝天皇)ー
併せて御覧願います。
平成16年4月16日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
フロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。