前回の連載は、中納言兼輔の恋歌題としての「いつみかは」なる泉川・木津川の歌枕でした。 百人一首に川の名前を詠み込んだものは、次のように8河川になります。これらは兼輔歌のように 恋歌として扱えるものと、叙景歌になるものに大別できそうです。
| 歌分類 | 百人一首 歌番号 | 歌枕 河川名 |
所在地 | 連載題名 |
|---|---|---|---|---|
| 恋歌 | 13 | 男女川 | 筑波山麓 | 本編 |
| 27 | 泉川 (木津川) |
三重県下 京都府下 | いつみかは | |
| 77 | 滝川 | 不特定地 | 保元の乱の果て | |
| 叙景歌 | 17 | 竜田川 | 奈良県生駒郡内 | 竜田川 |
| 32 | 山川 | 京都市左京区内 | 山中越え | |
| 64 | 宇治川 | 京都府下 | 宇治の川霧 | |
| 69 | 竜田川 | 奈良県生駒郡内 | 能因歌枕 | |
| 98 | ならの小川 | 上賀茂神社境内 | (連載予定) |
兼輔歌の「いつみきとてか恋しかるらむ」の詠みにもっとも近い詠いぶりのものは、陽成院の 「恋ぞつもりてふちとなりぬる」の歌になりましょうか。陽成院に関して伝えられている奇行の数々 からは少々想像しにくい華やかな恋歌です。筑波嶺を訪ねてみましょう。
関東平野の真ん中、古来の歌垣で有名な筑波嶺に登るには、東京からですとJR常磐線に乗って 土浦市からバスによる方法と高速バスで常磐自動車道を通って筑波学研都市経由で筑波山麓に到る 方法があります。時間的には後者の方が便利です。 昭和40年代から全国に伸びている高速自動車道路網は自動車による移動を益々便利にさせて います。筑波山は「つくば市」の最北部に位置し、大化改新以降常陸国府のあった石岡市や 太平洋戦争時、海軍の航空隊基地があった土浦市などに隣接し、これらの歴史のある旧市街に替わって 新しい茨城県の顔を持つ都市に発展しつつあるのです。
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筑波研究学園都市ー28,400ha(東京23区の半分) 国の各種研究機関や民間の研究所が多く集結した学術結集未来型都市として実験的な人工都市と いえます。開発の目玉として科学万国博覧会も1985年に開催されました。 研究学園地区2700haー東西6km、南北18km 文部科学省関係:筑波大学、理化学研究所、宇宙開発事業団、物質材料研究機構、 防災科学研究所ほか8所 外務省関係:国際協力事業団ほか 国土交通省関係:国土地理院、土木研究所、建築研究所、気象庁気象研究所ほか5所 環境省関係:国立環境研究所ほか 経済産業省関係:産業技術総合研究所ほか16研究所 厚生労働省関係:国立感染症研究所、国立医薬品食品衛生研究所ほか16研究所 農林水産省関係:農業技術研究機構、国際農林水産業研究所、森林総合研究所ほか15研究所 民間研究機関:NTTほか、約40社、 公益法人関係:日本歌学技術情報センターほか13団体 |
筑波山の男体山と女体山の夫婦峯は眼下の関東平野に展開される1300年以上に渡る東国の 栄枯盛衰を見つめてきたわけです。 石岡の国分寺、土浦の飛行場、筑波センターの宇宙ロケットなど、時代と共に、地上から宇宙へ 大変貌に目を見張ったことでしょう。

筑波山への取り付きは筑波駅からのバスで約300mほど登ったところにある筑波山神社からと いうことになります。この社は、萬葉時代からの神社で「いざなぎ・いざなみ」の男女二神が祀られて 縁結びや夫婦和合の神として信仰を集め、また萬葉の昔から歌に詠まれ、人々に感動を与えてきました。 筑波山神社の西どなりからケーブルカーで1.6kmを一気に登ると、御幸ヶ原という男体山と 女体山の間の山の背部分に着きます。ここから両山へ徒歩で簡単に登ることが出来ます。特に女体山 山頂からは土浦市やつくば市方面、さらに遠く、霞ヶ浦の眺めは何の隔てもなく、関東平野を見晴る かすことが出来る素晴らしいものです。


関東平野の真ん中にぽつんと飛び出した山になっている筑波山(標高877m)は、昔から西の 富士、東の筑波として眺めの名勝地とされてきました。筑波山の麓からでも富士山は望むことができ ますから、関東平野に生活する人々のうち、茨城県、埼玉県、東京都、千葉県などでは、両山を眺め られるわけです。 歌に詠まれた男女川の現在を訪ねてみました。地図の上では御幸ヶ原から真南へ下りた標高約330m のケーブルカー道脇を水源として川は流れ下っています。自動車道の下を流れる地点では、ほとんど 水無川に近いほどの水量しかありませんが、すこし、ハイキング道に沿って下流へ降りますと、水量は 増して水郷筑波国定公園特別地域に指定される所になります。さらに平地の筑波駅近くになりますと、 田園風景の中をゆったりと流れる小川へと川の形を成してきます。

歌のイメージでは、激しく飛沫をあげて滝の如く、流れ下る男女川を想像しますが、現実の男女川は、 誠におとなしい田園風景の中の物静かな川となっています。昔の人々は歌枕としての男女川をどのように 想像して水墨画などに描いていたのでしょうか。夢を馳せることが出来る空想絵画の方が趣があり、 現実の風景はなるべく生々しく見ない方がいいのかもしれません。目次に戻る
東大路通りを北へ上がり、東一条通の交差点に立つと、周辺は京都大学構内にいるような感じになり ます。東側には大學本部や教養学部が、西側には医学部、薬学部が建ち並んでいます。 京都大学は明治30年に吉田山の西の麓に創設されました。この地は平安遷都1100年(明治27年) 記念事業の一つとして建てられた平安神宮の丁度北隣に当たりますから、明治30年前後、この周辺は、 大型国家的プロジェクトの建造物建設で賑わったことになります。 それから100年経った現在、これらの建造物は完全に市街化地域に飲み込まれてしまい、当時の ままの姿を留めるのは僅かに吉田山だけになったようです。 それからまた100年、平成6年・1994は平安遷都1200年を通過しました。またの100年後 遷都1300年の頃、吉田山周辺はどのように変貌していることでしょうか。吉田山や平安神宮は 変わらないにしても、京都大学キャンパスは、高層ビル群に一変しているかもしれません。吉田山は 標高123mですから、現在の200mを越す高層ビル建築技術からすれば、いとも簡単に120mを 越える学舎群の風景も不可能ではないのです。 もっとも現状では、自治体の法規制で、高層建築物の高さ制限が規定されていますから、一度には 高層ビル化は進まないにしても、近年大學のあり方が再検討されつつある中、大學の機構自身が変貌 しているかもしれません。 吉田山の東側は京都の中心街から見れば、裏手になり白川の流れている岡崎通りに沿った一画は表の 大學外と違って閑静な住宅地区で、浄土寺や黒谷という町名の表すように古い京都の寺町としての 雰囲気が残っているところです。

吉田神社を通って吉田山を越えてきた東の麓には、まず後一条天皇菩提樹院陵があり、小径を挟んで、 隣には和泉式部縁りの軒場梅の東北院があり、さらにその南に民家数軒を隔てたところに陽成天皇 神楽岡東陵あるいは真如堂があります。

陽成天皇陵の周辺は、四周民家に囲まれているものの、南面の道路の西突き当たりは宗忠神社が、 東突き当たりには真如堂があり、閑静な昔を偲ばせる京町が残っている地域です。 第57代陽成天皇(876〜884)は平安遷都された桓武天皇(781〜806)から約90年 後に当たる時期に僅かに7年だけ未だ10代の時期に在位され、天暦三年・949年崩御されこの 吉田山の東麓に葬られたわけです。 当初の平安京は鴨川から西側が京域でしたから、鴨川から東地区は洛外となり、まして吉田山より 東側となりますと、京の町から遙かに離れた郊外の片隅という環境であったでしょう。 第68代後一条天皇(1016〜1036)は、陽成天皇が亡くなられてからさらに約90年後 同じ吉田山東麓の地に埋葬されたことになります。現在でも陽成天皇陵の近くは黒谷町の金戒光明寺 など寺院の多いところから考えますと、京都の町の市街化が平安京の地域より、鴨川を越えて東山の 麓まで移動してくるまでは、陵墓や寺院だけの地域であったと思われます。 日本民族の中で仏教信仰が廃れない限りこの吉田山東山麓の寺院の森地区も大きく環境や景観を 変えることはないでしょう。 ちなみに白川を越えた東山の麓には鹿ヶ谷になっていて、かの平家物語で有名な平家討伐の密議の 地であったわけです。当時でさえも密議を凝らすのに最適のうら寂しいところであったのでしょう。 ー東山の麓、鹿の谷といふ所は、後は三井寺に続いて、ゆゆしき城郭にてぞありける。 俊寛僧都の山庄あり。かれに常はよりあひよりあひ、平家滅ぼさんずる謀をぞ回しける。ー また鹿ヶ谷の麓には第63代冷泉天皇(967〜96))の桜本陵や火葬塚などもあり、北には 法然院や慈照寺(銀閣寺)が麓沿いに並んでいる土地柄でもあることから白川と寺の谷とも言い換える ことが出来る環境です。 さて、陽成天皇陵は非常に簡素な規模の小さい御陵で、むしろ周りの民家の方が御陵を見下ろす 形で民家の庭先のようになってしまっています。御陵の周辺は寺院や住宅ばかりですから、一度に 環境は変わることはないと思われます。これ以上市街化が進むことは御陵の周辺の環境を壊すことに なりかねません。現に御陵の北側地区では、寺の一画がアパートやマンションに建て替えられつつ あります。 陽成天皇がこの地に永眠されて1050年以上経ちますが、祭祀や法事を行ってくれる寺院が減った 事を嘆かれているか、庶民が枕元近くまで来て賑やかになったとよろこばれているか、どちらでしょう か。生前の奇行の多い帝であったことから察しますと、後者の印象かもしれません。 しかし、不幸にして若くして、心の病にかかられた陽成帝にあっては、静かな「寺の谷」の地で、 瞑想に耽りつつ永眠したいところかもしれません。あの世に逝っても静かに眠らせてくれないこの 吉田山麓の環境を嘆いているかもしれません。 ともあれ、吉田山およびその東麓の寺院地区が極力現状を崩さず、仏道修行の地として、また天皇の 永眠の地として相応しい静かさと落ち着きを失わない環境であり続けることを後世の人々のためにも 祈るところです。目次に戻る
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