敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 163 回  *** 第27番・その3 ***
*****  中納言兼輔ー堤中納言の物的遺産  *****

目    次
<堤中納言邸> <兼輔家の係累> <参考メモ・簡易官歴>

百人一首・第27番 みかのはら湧きてながるるいつみ川いつみきとてか恋しかるらむ



<堤中納言邸>

 中納言兼輔の邸宅として「粟田の家」と「鴨川の堤邸」が物的不動産ということになりましょうか。

(その1)「粟田の家」
 「粟田の家」については、後撰集の中に収録されている次の何首かの歌に言及されています。

 (巻第十五・雑一・1107番歌)詞書「淡路のまつりごと人の任はててのぼりまうで来ての
    みつね(凡河内躬恒)      ころ、兼輔朝臣の粟田の家にて」
 (巻第十八・雑四・1281番歌)詞書「粟田の家にて人につかわしける」
    兼輔朝臣
 (巻第二十・哀傷歌・1412番歌)詞書「兼輔朝臣なくなりて後、土佐の国よりまかりのぼりて
    貫之               かの粟田の家にて」 

 躬恒にしろ、貫之にしろ、それぞれ地方官の仕事をして、京に戻ったときは、彼らに面倒見のいい
兼輔邸を訪れ、帰任のご挨拶をしていたようです。もっとも貫之は、土佐守から戻ったときは、
既に兼輔はすでにいなかったのですが。

 粟田の地というのは、下粟田は、東を白河、西を鴨川、北を二条東までとし、上粟田は、北を北白河
までとする一帯の地域とされています。(「三州名跡」誌による)

粟田口周辺の地理
  平安期には、この粟田地区は、高級貴族の邸館が建てられたところで、基経別邸としての「粟田院」、
関白道兼(道長兄)山荘「粟田殿」粟田関白などと大鏡では言及されています。
 現在の地名では、粟田神社を中心にした旧東海道沿いの三条坊町や鳥居町に粟田口の名前を残して
います。因みに京から各地への出入り口である七口のひとつとしての粟田口は、東海道を往来する
人々で賑わったところです。

粟田神社参道と本殿
(その2)「鴨川の堤邸」
 堤邸とは、現在の京都御苑東地区梨木神社東側に対している廬山寺であるとされています。
 廬山寺については連載第29回紫式部の項にて言及いたしました。若干の情報を追加いたします。

廬山寺周辺の地理

廬山寺の山門には、藤原兼輔への言及なく「紫式部邸」へ代替しています。
子孫の方が「世界的偉人」に選定されていますから、やむなし。
 邸内は、「源氏の庭」と設定されて紫式部が、この地でかの「源氏物語」を執筆したとされています。
 紫式部に因んで庭園には桔梗が所々に植えられ、式部書斎の雰囲気を醸し出そうというものです。
 もちろん、紫式部の百人一首歌の歌碑も据えられているのはいいのですが、願わくは御先祖の
兼輔の百人一首かもと望むところですが。


下左の歌碑は、紫式部の百人一首歌碑
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<兼輔家の係累>

 堤邸が世界的な有名人「紫式部」に占領されてしまいましたが、紫式部の時代に到る前の兼輔の
直系の家族を辿ってみます。

(その1)娘桑子への親心
 私家集「兼輔集」、大和物語や後撰和歌集に採り上げられている歌で、醍醐帝に入内した娘桑子に
対する親心の歌が挙げられましょう。 それぞれで歌に対する詞書きが異なりますが、ここでは、
もっとも事情が理解しやすい大和物語の文章を引用しておきます。

 ー堤中納言の君(娘桑子のこと)、十三の皇子(醍醐帝第十三皇子章明親王のこと)の母
  宮す所をうちにたてまつり(むすめを入内させたこと)たまひけるはじめに、帝(醍醐帝)は
  いかがおぼしめすらむなど、いとかしこくおもひ嘆き給ひけり。さて、帝によみてたてまつり
  たまひける。

 「ひとのおやの心はやみにあらねども子を思ふ道にまよひぬるかな」
 
 「尊卑分脈」に記されている兼ね輔の子女は雅正・清正・守正・庶正・公正の五人で、娘の桑子が
長女なのか、末娘なのか不確実ですが、末娘のかわいさを思う親の気持ちが当てはまりそうです。
                       (後述の参考メモ・兼輔官歴参照方) 
 長男・雅正(まさただ)(生年不詳〜応和元年・961)
      紫式部の祖父に当たる。藤原定方の娘を妻として、為時(紫式部の父)・為頼らの父と
      なる。従五位下で、周防守、豊前守を歴任。紀貫之と親交あり。一時百人一首歌人伊勢が
      隣家に住んでいたらしい(後撰和歌集など)。勅撰集7首入集。
      歌人としてよりも、紫式部に繋がる文人家系を繋いだ位置付けの意味合いが大きい。
 次男・清正(きよただ)(生年不詳〜天徳二年・958)
      延長八年・930従五位下、蔵人、斎院長官、修理権亮、近江介、左近衛少将、紀伊守
      など歴任。天暦三年藤花宴講師を務める。村上朝宮廷歌壇で活躍。父兼輔と同じく
      三十六歌仙の一人。後撰集を初出として、勅撰集31首入集し兄以上に歌人としての
      活動が目立つ。

(その2)内室との若い頃の歌のやり取り
 これらの文化人を繋いだ兼輔室は昵懇の三条右大臣・定方の娘で、大和物語に次のように、挿話が
入れられています。
  
 大和物語 第135段 三条の右大臣の娘、堤の中納言にあひはじめたまひける間は、
      内蔵のすけ(903〜907)にて内の殿上をなむしたまひける。・・・・
   
      女からの歌は、

      「たきもののくゆる心はありしかどひとりはたえねねられざりけり」

      受けた兼輔からの返しの歌は、どうであったか。

      かへし、上ずなればよかりけめど、えきかねば書かず。
      (歌の名手であったので、さぞ素晴らしい返し歌であったろうが、
       聞き及ばず、言及せず。)

 大和物語 第136段 また男(堤中納言)、「日ごろさわがしくてなむえまいらぬ。・・・」

      女からの歌は、

      「さわぐなるうちにもものは思ふなりわがつれづれをなににたとへむ」

      受けた兼輔からの返しの歌は、どうであったか。続く詞書きには、「となむありける。」


 後撰集には前だった妻を偲んで貫之と歌の贈答をしています。

 ー妻の身まかりての年のしはすのつごもりの日、ふるごといひ侍りけるに
                     兼輔朝臣
 「亡き人の共にしかへる年ならば暮れゆく今日は嬉しからまし」(巻第二十・哀傷歌・1425)
 ー返し                 貫之
 「恋ふるまに年のくれなばなき人の別れやいとどとほくなりなむ」(巻第二十・哀傷歌・1425)
                                (後拾遺和歌集の巻末歌)

(その3)曾孫紫式部からの恩返し
 雅正の孫に当たり、兼輔の曾孫にあたる紫式部は、御先祖の和歌の才を当然受け継いでおり、併せて
御先祖方の歌人としての敬意も十分その作品「源氏物語」に含ませたというのが、源氏物語研究家の
解析結果です。
 特に、娘桑子への思いやりの歌「人の親の・・・」の歌の印象は強く打ち出されているようです。
 それによりますと、「兼輔の詠歌を基にしたとみられる表現が多くあり、引用した歌は十七首、
このうち「人の親の・・・」の歌は二十六個所にわたって表現基盤になっている」ということです。
         (引用文献:岡山美樹「大和物語の研究」桜楓社(平成5年6月)第四章より)
 
 御先祖の力を得て、「源氏物語」は、どんどん書き進められたことでしょう。正に「この親にして
この子あり」ならぬ「この兼輔にして、この式部あり」と言ってもいいでしょう。  
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<参考メモ・簡易官歴>

 堤中納言と言われるに到る藤原兼輔の大凡の官歴は次の表の通りです。50数年の彼の生涯は、
当時の上流貴族の一生として、遜色はないように思うのですが、当人自身は、官人一般としてまた
特に藤原氏族の中にあっては、より早く、より高い官位に就きたいという願望を人以上に強く持って
いたようで、絶えずパトロン的存在の藤原定方に請い望む姿勢であった事が伺えます。
 
西暦年年月日官    歴関係人物
877元慶元年誕生父右中将利基
897寛平九年7月7日昇殿醍醐帝
898寛平十年1月29日讃岐権掾
900昌泰三年2月19日右衛門少尉実頼(小野宮太政大臣)生れる
901延喜元年(長男・雅正誕生?)次男・清正とともに歌人
902延喜二年1月7日従五位下叙位
903延喜三年2月26日内蔵助
907延喜七年2月29日左兵衛佐
909延喜九年1月27日蔵人
910延喜十年1月7日従五位上右衛門左
913延喜十三年1月21日兼左少将忠平・左大將在任
914延喜十四年1月12日兼近江介
915延喜十五年1月7日正五位下
916延喜十六年3月28日兼内蔵権守
917延喜十七年8月28日蔵人頭同年11月従四位下
919延喜十九年1月28日兼備前守・兼左権中将
921延喜二十一年1月30日参議叙任
924延長二年(醍醐帝に入内した娘桑子に
第十三皇子章明親王誕生か)
927延長五年1月12日権中納言・従三位
930延長八年中納言兼右衛門督
932承平二年三条右大臣・定方薨去(60歳)
933承平三年2月18日薨去(57歳)
 (参考引用資料:岡山美樹「大和物語の研究」桜楓社(平成5年6月)による)

 藤原摂関家の傍流にあって延喜朝を中心とした57年は、兼輔の温徳な性格からはまずまずの人生で
あったと推測してやりたいところです。ただ大和物語の主要人物とされている所から見ますと、生涯の
パトロン的存在であった三条右大臣・定方同様、宮廷の主流ではなかったのです。

 三条右大臣と共に百人一首歌人の名誉を得て永遠の命を定家から与えられたわけですから、幸いな
人物評価となりました。

百人一首図絵の兼輔画(田山敬儀国文学研究資料館より)
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平成16年4月13日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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