敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 162 回  *** 第27番・その2 ***
*****  中納言兼輔ー堤中納言の文化的遺産  *****

目    次
<兼輔和歌サロン> <兼輔の歌枕例・城崎> <大和物語の兼輔>

百人一首・第27番 みかのはら湧きてながるるいつみ川いつみきとてか恋しかるらむ



いつみかは(木津川)のながれ

<兼輔和歌サロン>

 堤中納言兼輔が後世に残した「遺産」は、いろいろあるでしょうが、平安朝前期・醍醐朝における
最高の文化人として国風文化の一翼を担う「和歌」への尽力が挙げられます。

(その1)藤原定方(三条右大臣)
 初の勅撰集「古今和歌集」は、彼が28歳の時に編纂され、彼自身も4首入集しており、引き続き
第二番目の勅撰集「後撰和歌集」には、24首、その後の勅撰集への入集も合わせますと計58首にも
なります。また、三十六歌仙の一人として、私家集「中納言兼輔集」も残しています。

 彼は平安朝和歌の隆盛を支えた歌人で、いとこに当たりかつ百人一首第25番歌人である右大臣
藤原定方の支援の下、当時の実力歌人群としての紀貫之、凡河内躬恒、坂上是則、清原深養父などと
親交を結び「兼輔和歌サロン」とも言うべきグループ文化活動を推進したのです。

 三条右大臣定方との友好関係は、勅撰和歌集や私家集に残されている何首かの歌のやり取りを見ても
わかります。定方との血縁関係はすでに連載「三条右大臣」で引用しましたが、再度
添付しておきます。

観修寺家系譜
 私家集での歌の贈答記録を辿りますと、25番歌から29番歌にかけて、「京極の家の藤」の花に
寄せて藤原氏族の繁栄を寿ぐ歌のやり取りを、

 ー三月しもの十日ごろに、三条の右大臣兼輔朝臣の家にまかりて、藤の花咲ける水のほとりに、
  かれこれ大御酒たうべけるついでに 三条右大臣
 「限りなき名におふ藤の花なればそこひも知らぬ色の深さか」(後撰集・巻第三・春下・125)

 「色深くにほひしことは藤波のたちもかへらず君とまれとぞ」
                   (後撰集・巻第三・春下・126または私家集の26番歌)

 第113番歌から120番歌にかけては、「だいごのみかどうせ給ひてのち」臣下としての嘆きを
詠いあっています。

 「山科の宮の草木と君ならば我もしづくに濡るばかりなり」(119番歌)
                            (後撰集・巻二十・哀傷・1391)
 第119番から120番歌では、「三月さくら」に歌の贈答あり。
 
 「春深くちりかふ花を枝に見てとりあへぬものは涙なりけり」(120番歌)

(その2)清原深養父
 琴の名手深養父の演奏を聴きながら、一方で彼は和歌つくりに励む文芸仲間でした。

 ー夏の夜、深養父が琴ひくを聞きて
 「みじか夜の更けゆくままに高砂の峯の松風吹くかとぞ聞く」
 
 まさに深養父の演奏は、さわやかな松風の中にいるような感じであったのでしょう。

(その3)紀貫之
 何度も歌の贈答を繰り返していたようです。後撰集に採られた例として

 ー雪のあしたに、老をなげきて  つらゆき
 「ふりそめて友待つ雪はむばたまのわが黒髪のかはるなりけり」(巻第八・冬・472)
 ー返し 兼輔朝臣
 「黒髪の色ふりかふる白雪の待ちいづる友はうとくぞありける」(巻第八・冬・473)
 ー又 つらゆき
 「黒髪と雪との中のうきみれば友鏡をもつらしとぞおもふ」(巻第八・冬・474)
 ー返し 兼輔朝臣
 「年毎に白髪の髪をますかがみつつぞ雪の友はしりける」(巻第八・冬・475)

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<兼輔の歌枕例・城崎>

 古今集の4首の中に歌枕を見ますと、「二見の浦」として次の歌が採られています。

 ー但馬国の湯へまかりける時に、二見の浦といふ所に泊りて、夕さりの餉(かれいひ)
  たうべけるに、供にありける人々、歌よみけるついでによめる 藤原兼輔

 「夕月夜おぼつかなきを玉匣(たまくしげ)ふたみの浦はあけてこそ見め」
          (古今集・巻第九・羇旅歌・417) (中納言兼輔集・90番歌) 

 歌枕「二見の浦」として有名な個所は、三重県度会郡二見町の海岸、あるいは兵庫県明石市二見町の
海岸などが挙げられますが、この歌での「二見の浦」は、詞書きにあるように現在の兵庫県城崎郡城崎
町の円山川左岸付近の景勝地のことです。

但馬国国府址、二見の浦と玄武洞、城崎温泉(「たじまのゆ」)
 兼輔が「但馬国の湯」へ「まかりける」背景は歌の詞書きからは明確でありませんが、何ら公的事情
なく湯治のみの目的で、わざわざ京から足を延ばして但馬に出向いたとは考えにくいところです。
 彼の官歴のなかに「讃岐」「近江」などは関係していますが、但馬守の時期があったのかは、明らか
ではありません。しかし、但馬国の国府は「但馬の湯」の城崎からほど遠からぬ同じ円山川沿いの
現在の日高町にあったと推定されていますから、但馬国府への下向の公的行動があったと考えたい
ところです。
 但馬国府は現在の城崎郡日高町国府・府中付近にあったと考えられており、現在でも周辺には
国分寺村があり、「府中新」「府市場」などといった国府との関連を意味する地名が残っているのです。

 兼輔の歌枕「二見の浦」は、旧但馬国府のあった日高町と「たじまのゆ」の城崎町の中間地点で
円山川が広々とした水郷的風景を展開している左岸・上山地区の河川流域を指します。近くの山側の
二見谷からは清らかな湧き水があり、現在でも上水道水源地になっているくらいです。
 二見の浦の右岸には、現在でも当地の観光名所になっている「玄武洞」があり、左岸から右岸の
玄武洞までは嘗て渡し船で観覧する時期もあったようです。

 豊岡市赤石の玄武洞は160万年前に火山の溶岩が固まるときに規則正しい割れ目を作ったという
玄武岩の列柱で「柱状節理」と呼ばれている地層露出部で、付近は大きく5洞があり、それぞれ
中国の四周の神獣名称に因んで「玄武洞」「青龍洞」「白虎洞」「北朱雀洞」「南朱雀洞」と名付け
られています。

 兼輔は城崎の「但馬の湯」に行く道か、戻りの道での泊まりは夕方になり、辺りの風景を十分観覧
する事が出来ない夕方で、「二見の浦」泊まりとなったことが和歌の詞書きから分かります。

 玄武洞の景観は次のような露出した玄武岩の岩壁美で、なかなかの壮観です。
 二見の浦に着いたその日は玄武洞を見られなかったにしても、翌日は、「あけてこそ」名所を
「見め」の望みを果たしたのでしょうか。兼輔は玄武洞の景観を見たとも見なかったとも、詠み残して
いませんので、不確かですが、当然「但馬の湯」の湯島に直行せずに宿泊したのは、明るい昼間に
二見の浦の景観を見たかったからに相違ありません。


(上)円山川沿いの玄武洞周辺(下)玄武洞の風景
(参考メモ)城崎温泉について
 城崎温泉は現在でも関西周辺の著名な温泉地の一所です。ちょっと入湯してみましょう。
 円山川支流の大谿川沿いに湧出する温泉で、舒明天皇(629〜641)時代より湯が知られて、
僧道智が養老年間(717〜724)曼陀羅修行によって曼陀羅湯を湧出させたとされ、近くの
温泉寺は、同道智が天平年間(729〜749)開創とのこと。その後、藤原兼輔の古今和歌集歌で
一躍都を始め、広く世間にしれる歌枕の地となり、江戸時代までは、「湯島」という本来の地名で
「但馬の湯」とされてきました。畿内のあちらこちらから「但馬の湯」を訪れる人が増えていったと
見えて、江戸時代には、数首の案内書に言及されるまでになり、人々は播磨越え、三田越え、福知山
越えで、当地を訪問するようになりました。

 幕末の頃60件以上の宿屋がならび、明治43年には山陰本線の鉄道開通と共に、湯治客が一度に
増え、これまで以上に温泉地として栄え始め、大正始めに文豪志賀直哉の「城崎にて」によって、
一躍全国的な温泉地となりました。大正末に北丹大地震により温泉街は壊滅的な影響を受けましたが
いち早く復興なり、現在6湯(曼陀羅湯、鴻の湯など)からなる名湯城崎温泉郷に発展しているのです。

城崎温泉街の風景(太鼓橋と柳並木) 目次に戻る

<大和物語の兼輔>

 間接的な意味合いで兼輔の文化面の遺産と言うべき物は、「大和物語」に幾つかの話題を提供した
ことも挙げることが出来るわけです。
  同物語で、もっとも頻度高く話題が取られている人物としては、先ず宇多帝で15章段に渡ります。
 続いて、としこ(10章段)、監命婦(9章段)に続いて兼輔は、8章段、実質9章段に和歌を
提供しています。兼輔の和歌仲間であり、パトロンでもある定方(三条右大臣)でさえ、3章段(24,
29,91)であるのに対して彼の関係章段数が大変多いことが分かります。
 これらの章段の中(全部で294首)で兼輔自身が提供している和歌は7首で、そのうち3首は、
古今集と後撰集に合計3集採歌されているのです。
 
章段番号題  目内容と関係人物関連和歌
35大内山醍醐帝の使者として
宇多上皇の下に出向く。
48番歌、兼輔集98番歌
36呉竹勅使として宇多天皇皇女
柔子内親王斎宮の多気宮へ出向く。
49番歌、兼輔集82番歌
45心のやみ醍醐天皇御息所で、兼輔の娘桑子への
親としての心配事
61番歌
後撰集・巻15・雑1・1102
71山桜故式部卿宮を偲んで
三条右大臣との歌贈答
103番歌
兼輔集101番歌
73待つとてさへも国の守への下向餞歌106番歌
74宿の桜寝殿前の桜植え替えの歌107番歌
後撰集・巻1・春上・17
兼輔集4番歌
75越の白山蔵人が加賀の守として
下向する餞歌
108番歌、兼輔集93番歌
古今集・巻8・離別・391
135火取り三条右大臣女の兼輔への贈歌212番歌
136つれづれの思ひ三条右大臣女の兼輔への贈歌213番歌
 解説書に依りますと、大和物語作者の意図したところは、定方・兼輔の宮廷和歌集団に代表される
ように宮廷政界の権勢を離れて、「もののあはれを理解する人々」に焦点を当てていると言うことで、
兼輔に集約されるように宇多法皇をめぐる宮廷社交圏にあっても「風流人」で、「世間的に恵まれ
ない」また「失意の人々」の集団を意識的に採り上げているために、上表のような取り扱いとなる
のです。

光琳カルタの兼輔画(別冊太陽Winter’72No1(平凡社)(1972)より)
 なお、第45章段と第135章段および第136章段の和歌については、次回の連載「堤中納言の
物質的遺産」で採り上げます。

 さて、中世の物語集に「堤中納言物語」という短編小説集があります。
 名前からは「堤中納言兼輔」に期待したいところですが、残念ながら単なる名前の一致で、兼輔とは
直接関係がない文芸作品のようです。しかし、偶然の一致とはいいながら、兼輔はその文芸的且つ
人間的に幅広い才能から、この種の文芸活動に関係していたとしてもおかしくない位置にあったと
言うことが出来そうです。

 もし、そうであれば、歌人であり、かつ短編小説家とも言われうる兼輔となり「堤中納言物語」も
一層興味の惹くところであったでしょう。
 こういう面にも「堤中納言」名前の影響を感じること自身、兼輔の残した文化遺産的影響でしょうか。

 ちなみに、「堤中納言物語」は兼輔の存命期(877〜933)から大凡200年後、11世紀
中頃から12世紀前半に成立したと推測されている作者・編者とも不詳の「世界初の短編小説集」です。
 物語としては本邦初の伝奇物語「竹取物語」から150年以上経っており、上述の歌物語の延長線
上にある「大和物語」からでも100年以上後世での成立で、半世紀前に紫式部の手になったと
される「源氏物語」の「物語り流行り」の影響で、「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」「狭衣物語」と
ともに生まれ出てきた物語集のひとつという時代的位置付けです。
 「堤中納言物語」以降、大凡半世紀後に「今昔物語」、さらには時代が下って鎌倉時代の「宇治拾遺
物語」などに発展していくのです。

 「花桜折る少将」「このついで」「虫めづる姫君」「ほどほどの懸想」「逢坂越えぬ権中納言」
「貝合」「思はぬ方にとまりする少将」「はなだの女御」「はいずみ」「よしなしごと」「(断章)
冬ごもる」など約10編の短編小説の中で、三番目に「虫めづる姫君」が大変有名な一編です。
 和歌の関係からは、藤原為家が1271年・文永八年編集した二十巻から成る風葉和歌集と密接で、
約5首の歌が取り込まれています。この和歌集には平安時代から鎌倉時代にかけての約200編の
作り物語中の和歌を収集した物で、十八巻しか現存していないものの散逸した本体の物語を推定する
重要和歌集となっているのです。こういった点でも、定家の冷泉家日本文学への貢献は意義深いものが
あります。

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平成16年4月10日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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