敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 161 回 *** 第27番・その1 ***
***** 中納言兼輔ーいつみかは *****
目 次
<京阪奈学研都市>
<恭仁京>
百人一首・第27番 みかのはら湧きてながるるいつみ川いつみきとてか恋しかるらむ

「いつみかは」(木津川)の流れ
<京阪奈学研都市>
恋しいという思いが滾々と湧き出てきて押さえようがないという形容に引き合いに出された
「みかの原」の「いつみかは」は、現在の木津川です。伊賀・伊勢の国境に聳える山間部から
流れ下ってきて、山城国(京都)と大和国(奈良)の境界を流れて摂津国に入り、淀川に合流して
難波の海に注ぎ込む全長約52kmの河川で、古代の日本の中心地を貫流していることになります。
「いつみかは」はいろいろの国の境を成して流れると共に、流域の関連地域の歴史が長いので、
伊賀川、笠置川、鴨川、さらに古くは、和訶羅河、山背川、泉河など、河川名はいろいろに呼ばれて
きたのです。
JR奈良線(京都ー奈良間)の木津駅は昔よりこの河川流域の中心地にあっております。泉川の
津(湊)という意味で泉津(いつみつ)といわれていたのが、平城京の外港的地理関係より、
取り扱う木材運搬の中心となり、その意味から木を扱う津として「木津」と改名されていったの
かもしれません。

京都府木津町付近の地理
確かに泉津は藤原京あるいは平城京も含めて古代都城建設の資材運搬の一大物資集結地であった
わけです。平安京が存在しなかった平城京を国の中心とする時期に於ける都の北の港としての役目は
重要です。「いつみかは」は、単なる歌枕以上に古代国家建設者あるいは経済活動の当事者には
大変重要な交通手段であったのです。
現在でも北に行けば平安京(京都)、西に向かえば難波京(大阪)、南下すれば都・平城京(奈良)
と畿内三古都への三分分岐点に位置しているわけです。
この地理的好環境條件より近年、又木津地方が見直されてきています。昔は物資の集結地であった
わけですが、現在では高度な知識や情報の集結地に変貌をとげようとしています。すなわち、数年前
から木津駅の西北の京都・大阪・奈良の三都府県にまたがる丘陵地一帯が京阪奈学研都市と称する
学問を中心とする施設(正式名称:関西文化学術研究都市)のための地区として、昭和53年度
(1978)より都市構築の開発が動き出したからです。
京阪奈学研都市の中心には平成5年春に「けいはんなプラザ」が姿を見せ、その支援施設群として、
国の関係施設や関連民間企業研究所群がクラスターを成しつつあります。研究地域としての支援施設と
して「けいはんな記念公園」の傍らに「けいはんなプラザホテル」や自治体の休暇センターも整備
されています。
京阪奈学研都市主な構成
位置:京都府精華町・木津町を中心として
大阪府(枚方市・交野市など)奈良県(奈良市
・生駒市)にまたがる1.5万ha地域
(人口約41万人)内に12クラスター
開発都市(3600ha、人口約21万人想定)
を含む研究都市。
推進機構:国土交通省都市地域整備局・
関西文化学術研究都市建設推進室
同都市建設推進協議会・(財)同都市研究機構
文化施設:美術館、国立国会図書館関西館など
大學:同志社および女子大學、京都府立農学部
研究施設:通信総合研究所、国際電気通信基礎
技術研究所、国際高等研究所、地球環境産業
技術研究機構、
日本原子力研究所
その他民間企業研究機関約25研究所
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学研都市中心・京阪奈プラザと周辺の施設 |

けいはんな地区の中央通り沿い「けいはんなプラザ」と「民間企業の研究所棟」

けいはんな地区内の「国立国会図書館関西館」外観
泉津として栄えた奈良の時代から約1300年が経って、再び古都三市の中間地点である地の利を
生かそうとしているわけです。果たして21世紀以降に「情報の湧き出るところ泉津」として、木津
の地域は再び脚光を浴びることになるのでしょうか。
それはいつに人々が木材(情報)をどれだけ木津(学研都市)に陸揚げ(収集)し、そこから
新しい都(知識や学問としての付加価値を想像し、構築すること)を創り出すかに懸かっていると
言っていいでしょう。
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<恭仁京>
奈良朝から平安朝にかけて国の中心地を貫流していた木津川に関わる人々の思いは、兼輔が歌枕と
して単に詠み込む思い以上の大きなものであったと思われます。
現在は河川の上流から順次治水事業が行き渡り、多目的ダムその他の措置によって河川流そのものは
昔の面影を薄めていると想われますが、恭仁京址を始めとして河川流域のあちらこちらに残る遺跡群
より、当時の「いつみかは」が果たした役割に思いめぐらすことが出来ます。
JR木津駅を降りて、奈良街道を北上しますと、木津川に架かる泉大橋を渡ります。すぐ東方に曲がり、
木津川右岸を遡って行きますと、国道沿いに京都府立郷土博物館が見えます。その前庭から木津川を
望みますと、広々としたその河川流域は、東から西にかけて、横たわっており、川の背景には奈良盆地が
霞んで見えます。

(左)郷土博物館より木津川を望む(右)万葉集歌碑
庭先には1250年前恭仁京(天平12年・740)に寄せて詠い込まれた万葉集の歌碑が建てられて
います。
「こまやまになくほととぎす泉河わたりをとおみここにかよはず」(巻六・1058)
「おとめらがうみをかくとふ 鹿背の山時の行ければ都となりぬ」(巻六・1056)
万葉集巻六に収録されている歌歌には、聖武天皇が都を転々と移していた時期の歌が集められており、
この二首以外に、家持も天平15年(743)8月16日に”久爾の京を讃めて”
「今造る久爾の都は山川の清けきみればうべ知らすらし」(巻六・1037)
と詠んでいます。他の歌にも「みかの原」「泉川」を詠み込んだ歌として、
「みかの原ふたぎの野辺を清みこそ大宮所定めけらしも」(巻六・1051)
「泉川行く瀬の水の絶えばこそ大宮所移ろひ行かめ」(巻六・1054)
そのように祝福された都もわずかに二、三年で廃止され、また次の難波京へと遷都されていった
のです。いつもの如く捨てさられた都に対して、人々は寂しい心情を述べざるを得ないのです。
「みかの原久爾の都は荒れにけり大宮人の移ろひぬれば」(巻六・1060)
「咲く花の花は変わらずももしきの大宮人ぞたち変わりける」(巻六・1061)
その恭仁京址は、郷土資料館の前をさらに木津川に沿って遡った山里「みかのはら」に残っています。
この付近は平城京からみますと、正しく「山の背」に位置する山背(山城)の国にあたるわけで、
都が国の中心として活動できるための各種の支援施設を持っていたようです。泉津がそうですし、もう
ひとつ、通貨の鋳造所(和同開珎の鋳銭場)も恭仁京址よりさらに木津川を遡った右岸に発見されて
います。都が山背であった恭仁京に遷都されていたことによって、「山の背の国」がいつしか中心の
地に変貌していくことになるのです。恭仁京はわずかに4年(740〜744)でしたが、その丁度
40年後に山背国長岡が都となり、50年後に平安京に遷都され、平城京は「荒れにしいにしへの都」
と化してしまうのです。
恭仁京を賀する事は古い平城京の歌と共に次のように廃都の奈良が詠まれています。
「世の中を常なきものと今ぞ知る奈良の都の移ろふ見れば」(巻六・1045)
「立ちかはり古き都となりぬれば道のしば草長く生ひにけり」(巻六・1048)
「なつきにし奈良の都の荒れゆけば出て立つごとに嘆きしまさる」(巻六・1049)
「みかの原」から都が去っていったあとに残されたものは、「いつみかは」のみ都の面影を憶えて
いるといった状況でした。時と共に周囲の環境は遷都される前の山背国泉河の河川敷に戻って行った
わけです。1250年経った現在までその環境は殆ど変わることがありません。
泉川の流れが絶える事がないようにこの「みかの原」の昔に戻った環境が時勢の流れに左右されて
再び荒廃を重ねることがないように祈るだけです。嘗ての都の址を石碑に留めるだけで十分ではない
でしょうか。

(左)恭仁京大極殿址(右)山城国国分寺址
国道163号線(伊賀街道または、笠置街道)からすこしはずれて、古い村落に入りますと、
加茂町立恭仁小学校があり、その裏地が恭仁京の大極殿址地に当たっています。小学校の敷地も
宮殿の一部の平地であったかもしれません。
恭仁京が廃都された跡に山城国分寺が建立されたようで、大極殿跡は金堂として再利用され、隣り
には七重の塔跡の基壇が残っています。国分寺の全体の広さは、南北330m、東西275mの広大な
寺域を所有していたのです。
その国分寺に残るものは、礎のみで、淋しい限りです。地表に僅かに顔を出した1250年前の
昔への扉となっています。
恭仁京跡からさらに木津川を遡りますと、加茂町では恭仁大橋が架けられ、その左岸の袂に
「いつみかは」への思いを記念碑として残すべく、兼輔の百人一首歌碑が建てられています。

(「百人一首歌碑一覧」第27番歌歌碑より)

木津川左岸・恭仁大橋袂の「百人一首歌碑」(藤原兼輔)

木津川右岸・恭仁大橋袂の「万葉歌碑」(大伴家持)
藤原兼輔の時代は、恭仁京よりおよそ150年ぐらい経過しており、もはや「いにしへの都」に
思いを馳せるより、「みかのはら」「泉河」にこよなく親しみを感じているようにおもいます。
木津川、特に恭仁京付近の流れは、桂川、宇治川や淀川に比して、家持が詠んだように「清け」しと
「見れば」「百代にも変わるましじき」(巻六・1055)ふるき「いつみかは」であってほしい
ものです。

恭仁大橋付近の木津川の流れ(京の南部を北上して宇治川、桂川に合流する)
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平成16年4月10日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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