敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 160 回  *** 第25番 ***
*****  三条右大臣ー山科と逢坂山  *****

目    次
<勧修寺周辺> <醍醐の里> <参考メモ>

百人一首・第25番 名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな


光琳カルタの三条右大臣

<勧修寺周辺>

 第159回連載の藤原朝忠卿の父にして三条右大臣と呼ばれた藤原定方の古里を訪ねてみましょう。
                (藤原定方の略歴は後述<参考メモ・その3>を参照方)
 定方の百人一首歌は逢坂山を歌枕としたものですが、彼の「古里」の近隣ということになります。

 JR山科駅から真南の方向に向かい、名神高速道路をくぐりますと、勧修寺(かんじゅうじ)
(山科区)、醍醐寺(伏見区)、随心院(山科区)の「古里」に到ります。バス道路から山科川を
渡って勧修寺の庭園の南側の道路脇に地元民の会所(公会堂)と背中合わせに宮道神社の祠が見え
ます。元は勧修寺域の一部であったと思われる宮道神社も、今は、地元民の公園の役目を担っている
ようです。
 この神社の由緒説明板によりますと、霊元天皇の寛文五年(1665)再建時に藤原高藤・定方・
胤子を合祀したそうです。合祀されている三人の関係は父と兄妹なのです。文末に添付した定方関係
系譜図(参考メモ・その3)を参照願います。

山科区・勧修寺近くの地理

(左)宮道神社(右)勧修寺下交差点から見た定方墳丘
 三条右大臣・藤原定方の墓は、この勧修寺の地にあり、彼はこの地区が「古里」とも言うべき所で
何かと縁り深いことが分かります。
 定方の墓が何故山科の南西勧修寺近くにあるかは「今昔物語」(保安から保元年間成立)に逸話が
挿入されています。「今昔物語」巻22が本朝部の中でも藤原氏の列伝になっていて、八話ある内の
第七話に「雨宿りの宿に一夜を契る話」が載せられています。
 この説話は閑院の右大臣冬嗣の子、内舎人良門の子・高藤すなわち定方の父の話になっています。
 高藤は好きな鷹狩りに南山階に出かけて、道に迷った末に雨宿りしたのが、この郡の大領を務める
宮道弥益の舘で、そこで見初めたのが弥益の娘で後の兄大納言右大將(泉大将)こと定国、弟右大臣
定方の母に成る女性です。

 娘の胤子は宇多院の女御に出仕し、醍醐天皇の母となります。高藤は内大臣に、弥益は四位修理
大夫になり、その後弥益の家は寺になり、今の勧修寺に到っているわけです。したがって定方は
母方の里に永眠していることになります。
 ちなみに弥益の妻が建てた堂は大宅寺と称され、後の醍醐天皇御陵は、その近くに設けられました
から、醍醐天皇も母方のお祖母さんのお寺近くに葬られていることになります。さらに醍醐天皇の
御母胤子女御の墓は、勧修寺から名神高速道路沿いに約1km西の深草方面に向かった高速道路北側に
小野陵があります。

 勧修寺は醍醐天皇(第60代・885〜930)が900年(昌泰三年)生母の御願により創建し、
外祖父藤原高藤のおくりな(諡号)を採って「かんじゅうじ」と名付けられ、醍醐天皇等身仏としての
千手観音像を祀る真言宗山階派大本山亀甲山勧修寺となっています。後伏見天皇皇子が法親王として
入山して以降、三十数代門跡寺院となり「山科門跡」とも称されました。
 境内には書院、宸殿があり、氷室の池には杜若、水蓮、花菖蒲などが新緑の時期に咲き誇る広さ
2万平米の「勧修寺氷池園」と称されている池泉式庭園で、庭園脇にはかの「水戸の黄門さま」が
寄進された勧修寺型灯籠もあります。
 醍醐天皇は勧修寺の南東にある醍醐寺への帰依を深くしており、山科の地の醍醐には少なからず
思いの深い場所になっていたようです。

(左)観音堂と勧修寺石灯籠(中)勧修寺氷池園から堂宇を望む(右)書院 目次に戻る
<醍醐の里>
  
 勧修寺の南西方向に三叉路脇に高さ約20mほどの小丘が見えます。この小山が藤原定方の墳墓に
当たるとされています。近年誰も訪れる人がないと見えて、山頂まで登れる道はなく、僅かに麓の
民家の庭先に亀の背に乗った石碑が墓の由来を伝えているだけです。
sadakata160-8 (左)平安朝公卿 三条右大臣
藤原定方(873〜932)
墳墓碑
京都市山科区勧修寺南谷町在
(右)定方画像
(出典:別冊歴史読本
「百人一首100人の歌人」
新人物往来社(1992))
sadakata160-9
 石碑の表は風雨に曝されて剥がれかけており、もはや全文読みとれなく成りつつあります。勧修寺の
周りも定方の時代(873〜932)から、1100年も経ち、周囲の環境も大いに変貌しています。
 
 山科盆地の南方出口にある勧修寺は稲荷山(233m)と大岩山(182m)の麓にあり、東方の
山並みには北から音羽山(593m)、行者が森(437m)、高塚山(485m)や醍醐山
(420m)が連なっているのを望むことができます。

 今から1100年前、醍醐帝や藤原定方時代の山科の地は京の御所から山一つへ立てた正しく離宮や
別荘としての環境には好適の場所であったと想像されます。
 しかし時代が下るにしたがって山科の地は東国への出発点として、日本の東西を結ぶ幹線の地になり
変わっていったのです。まず逢坂山を越える東海道、次に汽車の幹線、電車の新幹線、さらには自動車
専用高速道路の名神高速道に到っては正に勧修寺の境内北を走るようになりましたから、定方の墳墓
からでも目の前に高速道路が見え、自動車の騒音が四六時中聞こえてくるのです。静かな安住の地で
あった「定方の古里」も自動車の往来で、安眠できなくなりました。

 地上をいろいろなど交通の利器が目まぐるしく動き回るだけでなく、地下も電車が走るようになって
いるのです。山科地区にも京都市地下鉄が開通し、京都の奥座敷であった山科も京の町同様、地下鉄で
動き回れる市街地の一画に化してしまいました。
 地下鉄路線はJR山科駅から南下して、醍醐寺近くを終点とする東西線で、東はJR二条駅と結ばれて
いるのです。この地下鉄の開通によって東山地区や音羽山麓の緑地帯も益々市街地化に拍車がかかる
ことでしょう。

 賑やかになる一方の山科盆地において、藤原定方の墳墓のある真東に随心院(小野小町墓碑あり)が
あり、その東隣は定方の仕えた醍醐天皇(第60代・897〜930)山科陵があり、その中間の
山科川の近くには宇多天皇(第59代・887〜897)陵が、その東方三宝院の近くに朱雀天皇
(第61代・930〜946)醍醐陵がありますから、これら三帝の父・子・孫の三代が山科の地で
三角形に陵墓を構えていることになります。代わって第62代村上天皇(946〜967)あるいは
曾祖父の光孝天皇(第58代・884〜887)は仁和寺の近くに御陵があります。

 定方は光孝天皇の時代に生まれ、宇多天皇の時代に成長し、出仕し、醍醐朝に右大臣にまで昇進し、
村上天皇の御代に没しました。したがって死しても臣下として醍醐天皇のそば近く控えるために勧修寺
南谷町から山科陵を1100年間お守りしてきたのでしょうか。
 百人一首家族のお隣さんで遠縁にあたる「藤原忠平卿」同様「忠臣の鑑」と見るべきでしょうか。
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<参考メモ>

<参考メモ・その1>「大和物語」の定方

 「今昔物語」には、父藤原高藤の逸話が引用されていましたが、息子定方は「大和物語」何段かに
挿話が出てくることになります。大和物語は天暦五年(951)頃成立し、一条天皇治世頃増補された
と考えられる173段からなり、146段までは、和歌を中心とした歌語りの短編で、後半は散文
中心の説話集になっています。
 一例を第九十一段の話より、引用してみます。

 「三条の右のおとど」(定方)が中将(906〜911)の時、「祭の使」(賀茂祭の奉幣勅使)に
「さされて」(指名されて)、扇が必要になり、以前「かよひたまひける女」に扇を所望したところ、
女から扇は届いたのですが、女の嫌みが次のように認められていました。

 「ゆゆしとて忌むとも今はかひあらじ うきをばこれにおもひよせてむ」

 (扇を男女間の贈り物にするのは縁起が悪いからといって、お送りするのをやめたところで
  いまさら、(私たちのこれまでの関係の回復に)何の役にもたちますまい。心憂い私たちの
  なかをこの扇に思い寄せてお贈りしましょう。)
  (補足説明)扇を男女間で贈り物にするのは何故、縁起が悪いか。それは、扇は秋(飽きる)に
        なると、用がなくなって捨てられてしまうから。さらに漢籍に次の故事があるのです。
        前漢成帝に見捨てられた班(しょうじょ)が「怨歌行」という詩をつくり、秋に
        なると捨てられる扇に自分をたとえた故事(文選)があります。

 そこで、女からの故事を踏まえての嫌みの和歌に対して、「三条の右のおとど」は、次のような
返歌を出しました。

 「ゆゆしとて忌みけるものをわがためになしといはぬは誰がつらきなり」

 (扇の贈り物は不吉だと忌み嫌って持っていないと言って送らないはずが送ってきたところを見ると
  あなたを愛している私の心も知らないのでは。つれないのは一体どちらでしょうか。)
  (補足説明)定方は漢籍の故事を予め分かった上で、女に扇の所望をしたはずはないのでしょうが、
        結果的には、女から嫌みで扇を送ってこられた事に、一瞬しまったことをしたと思った
        かもしれません。もし、女が故事を踏まえて、「別れ話には応じられません」と
        いう意味合いで、「扇は無い」と言ってくれれば済むことではないか、どうして、
        故事を思い出してまで嫌みの歌を添えて送ってきたのだろう。こちらから別れ話を
        する目的ではなかったのに、というところでしょう。すなわちこちらから「飽きが
        来ました」と言わせるために扇を所望したわけではないのに、そちらはあっさりと
        「あきがきたんでしょうね」と言ってよこしたと思ったわけです。

 この男女間の歌のやり取りの中には、かなりの憶測と思惑とが行き違っています。しかし、当時の
歌のやり取りとは、このような感情や心境のさぐり合いであったのでしょうか。

 
<参考メモ・その2>さねかづら(さなかづら)
 
 定方百人一首歌の「さねかづら」なる植物は、事典(久保田淳・馬場あき子「歌ことば歌枕大辞典」
角川書店(平成十一年五月)あるいは大岡信監修「日本うたことば表現辞典」植物編(上)(株)遊子館
1991年7月)に依りますと、真葛・狭根葛と書き、モクレン科常緑蔓性低木で、夏に
黄白色の花が咲き、冬は赤い実を付ける木です。茎から取れる粘液は昔の整髪料となり「美男かづら」
と称されたのです。
 定方の頃すでに整髪料としての植物として認識されていたのではないかと思われますから、恋歌に
この「美男かづら」なる「さねかづら」を枕詞として用いたことには、恋歌の関連語として優れた
歌語選定ということが出来ましょう。
 もっとも昔は、さねかづらの活用方法からくる歌語としての利用より、語音からくる「さね(さ寝)」
さらには「後も逢ふ」の方に意味がかかっていたようです。

 「たまくしげみもろのやまのさな葛さ寝ずは遂にありかつまじし」(万葉集・巻二・94・鎌足)
 「木綿包み白月山のさな葛後もかならず逢はむとぞ思ふ」(万葉集・巻十二・3073)
 「・・いまさらに 君来まさめや さな葛 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて・・・」
                       (万葉集・巻十三・3280及び3281)

  定方に関係深い「大和物語」には、次のような平中(平貞文)の歌が挙げられています。

 「本院の北の方(在原棟梁女)の、まだ帥の大納言の妻にていますかりける、
  平中がよみてきこえける

    はるの野に緑にはへるさねかづらわが君ざねとたのむいかにぞ

  といへりけり。かくいひいひてあひちぎることありけり。・・・・」(第百二十四段)


 「わがきみざね」とは、「私の大切なお方さま」と「ざね」(ざ寝)を掛けている詠みということに
なります。このように扱われる「さねかづら」は、その植物形態が周辺の樹木に絡まっていく蔓性の
常緑木であることからの連想であるのでしょうか。
さねかづら「真葛」
漢字名:
実葛・核葛・五昧・五昧葛など
別名:
美男・姫葛・鬢葛・鬢付け蔓・美人草などと艶な漢字名が多い。
さらに薯蕷汁葛(とろろかづら)・山黄蓮・布海苔葛・糊葛・
どろり葛・つくば・もちかづらなどと
食物に関係する名でもいろいろに用いられています。
用法:
薬用(果実「南五味子」ー鎮咳など)
製紙用糊料(茎の粘液)
整髪油(茎の粘液ー髪付け油代用「美男葛」)
季節:
秋ーかづら・さなかづら・たまかづら・朝鮮五味子
出典:
木村陽一郎監修 「図説草木辞苑」
 柏書房 1988年
<参考メモ・その3>藤原定方の経歴

養朴常信画の三条右大臣(別冊太陽「百人一首」No.1-Winter'72より)
   0歳 貞観15年(873) 生まれ・父藤原高藤 母宮道弥益女
  20歳 寛平 4年(893) 内舎人
  24歳    8年(897) 正月 従五位下叙任、右近衛少将・右近衛権中将歴任。
  36歳 延喜 9年(909) 四月 参議昇任。
  40歳   13年(913) 正月 中納言従三位
  46歳   19年(919) 九月 右近衛大将
  47歳   20年(920) 正月 大納言
  50歳 延長 元年(923) 四月 東宮傳
  51歳    2年(924) 正月 右大臣
  53歳    4年(926) 正月 従二位叙位。
  57歳    8年(930) 十二月 左近衛大将兼務
  60歳 承平 2年(932) 八月四日 右大臣従二位兼左近衛大将にて没。
                 八月十一日 従一位追贈。

    歌人としても宇多・醍醐・両朝の宮廷歌壇に影響を与え、紀貫之の庇護者的立場にあった。
  親戚筋の藤原兼ね輔とは、多くの歌を詠み交わす親交あり。
  勅撰和歌集には、古今集を初出として、約17首ほど入集している。特に後撰集には、9首あり。
  私家集「三条右大臣集」には、35首収録されている。

勧修寺家系譜
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平成16年3月30日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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