敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 158 回  *** 第48番・その2 ***
*****  源重之ー陸奥・安達ヶ原  *****

目    次
<陸奥歌枕> <安達ヶ原>

百人一首・第48番 風をいたみ岩打つ波のおのれのみ砕けて物を思ふころかな



源重之肖像画(若鶴百人一首・国文学研究資料館の写真集より)

<陸奥歌枕>

 陸奥に大変関わり深い源重之の歌枕を、その私家集の「重之集」その他に追ってみたいと思います。
 「重之集」323首の中から、陸奥に関係した詞書きを拾ってみますと、次のように重之人生の
いろいろの事に懸けて詠まれた歌が抽出されてきます。

   28番歌 ーみちのくにのあだちにありしをんなに、九月にいひやる
         (安達ヶ原については、後述)
   30番歌 ーみちのくにのやなぎがはのいへにて、かみくにもちなどして、七月七日七夕の心
         (やなぎがは、梁川か。伊達郡内に梁川町あり。)
   34番歌 ーうごの大ふよしのぶに、みちのくより
         (羽後国の知人の官人か)
   59番歌 ー又、みちのくににて、あるもののとりのたはれるをこひにやる
   62番歌 ーむねたかがみちのくににて、こども三人がかうぶりしはべりける、またのあした
   63番歌 ーすゑにまつやまに、子の日に、この人のははくるまにていでたるに、かみしげみ、
         すけつねみなどいひあひたりといへば、たるなりなどいへば、
         (末の松山)(第43番歌・清原元輔の連載にて言及の予定)
   91番歌 ーみちのくに山のこほりといふ所にて、冬の月を
   94番歌 ーさねかたの君のともに、みちのくににくだるに、いつしかはまなのはしわたらんと
         おもふに、はやくはしはやけにけり
         (実方と陸奥へ下向)(第145回146回参照方)
  139番歌 ーむかし、衣川のせきのおさの、ありしよりはおいたりしかば
         (衣川関:平泉・衣川村の北上川支流衣川に設けられた古代からの関跡)
  145番歌 ー二月ばかり、みちのくににりむじのまつりに、ゆきにぬれこうじたるかちなる
         をのこ、こづるのいけをすぐるほどに、ここはいづこぞととへば、こづるのいけの
         つつみといへば、心やりによめといへば、むねちか、
  147番歌 ーみちのくにのかみ、はらばらのこども、をとこをんなとかうぶりし、もきす、
         はかまもきす、かはらけとれとあれば、人人かはらけとりて、ははぎみうせての
         ことなり
  180番歌 ーみちのくにのかみさねちか、ある人のおやにおくれたるをとひにおこせて、
         きぬわたなど、こをつくりていれておこせたり
  186番歌 ーみちのくにのかみのははぎみに、いひはじめに
  199番歌 ーたけくまのまつ、一もとかれにけり
         (武隈の松は、現在の宮城県岩沼市にあった国府城館・武隈館にあった
          二本の老松で、この松は枯れたり植え継いだりしたという伝説による。
          下に掲げた写真参照方)
  210番歌 ーみちのくのくににて、このかくれたるに

 重之百首歌のなかには、前回の連載文にて言及しました次の歌枕が列挙されます。

  305番歌 「まつしまのいしまのいそ」(松島・雄島)
  309番歌 「なとりがわ」(名取川)
  310番歌 「まがきのしま」(籬島:下に添付した写真参照方)
  315番歌 「ころもがは」(衣川)
  316番歌 「きさかた」(象潟:秋田県由利郡象潟町の往時の海岸景勝地で東西1.5km
                  南北5kmの入り江に大小百余の島があり、東の太平洋岸の
                  松島に対して、西の日本海に面していた。
                  松尾芭蕉「奥の細道」最北の名勝地。
                  南には秋田県・山形県の県境に鳥海山(標高2236m)が
                  象潟に映って、見所のある海岸美を誇っていた。)
  318番歌 「まつやま」(末の松山)
  319番歌 「たけくまのはまべ」(武隈の浜辺)
  320番歌 「やそしまのまつ」(八十島の松ー松島のことか)
  321番歌 「やそしまのまつ」(同上)
   
源重之の陸奥歌枕地図

武隈の松風景写真(奥の細道・芭蕉の句「桜より松は二木を三月越し」)
(左)塩竃市の航空写真(湾内左手海岸に籬島あり)(右)現在の籬島
  重之集から重之の陸奥を中心とした交友録が垣間見えます。
 「よしのぶ」「むねたか」「さねかた」「みちのくにのかみ・さねちか」など、さらに同集中には、
「むさしのかみ・ためかた」「ためきよ」「むねちか」「ひごのかみ・ただよし」「するがのかみ兼盛」
「そねのよしただ」などです。

 個人的な関係としては、「あだちのをんな」「みちのくにのやなぎがはのいへ」、さらに重之個人に
とって一番痛恨の極みは、210番歌にある「こ」が「かくれたる」事でしょう。
 嘆きの心を静めるに和歌一首では、心おさまらず、5首も詠んでいます。彼の悲嘆の気持ちに同情
すべく、その5首を引用しましょう。

 「わがためとおもひおきけんすみぞめはおのがけぶりの色にぞありける」(210番)
 「ことのはにいひおくこともなかりけりしのぶぐさにはねをのみぞなく」(211番)
 「なよたけのおのがこのよをしらずしておほしたてつとおもひけるかな」(212番)
 「さもこそは人におとれる我なれめおのが子にさへおくれぬるかな」(213番)
 「なげきてもいひてもいまはかひなきにはちすのうへのたまとだになれ」(214番)

 この「こ」の関連して、私家集中に次の「こ」の詠んだ歌があります。
 
 ー京より下るに、たごのうらにて、むすめ
 「いそぎゆくたびのこころやかよふらんたたぬひぞなきたごのうらなみ」(93番歌)

 源重之には三男一女ありと「尊卑分脈」に記されているので、この「むすめ」は、彼にとってたった
一人の可愛い女の子ということになります。
 彼女は父親の歌才を受け継いでいると見られ、新古今和歌集を初出とする勅撰和歌集に計18首
入集しています。父親の「ものを思ふ」事と同じ「物思ふ」詠みのものを2首引用しておきましょう。

 「秋はただものこそおもへ露かかるをぎのうへふく風につけても」
              (新古今集・巻三・秋・354・源重之女)
 「春の日は花に心のあくがれて物思ふ人とみえぬべきかな」
              (続千載集・巻一・春・88・重之女)

 重之集中に知人として兼盛は、次のような歌の交信を重之と詠み合っています。この会話は
兼盛集にも引用されています。

 ー兼盛するがのかみなりけるとき、そのくになりけるをとこの、きよみがせきといふところに
  またひとまうけて、このめのもとにいかざりければ、かくなんあるとかみにうれへたりければ
  かみかねもり
  (兼盛集の詞書き:駿河なりけるものの男、いづといふ所にかよふが、さきに人まうけて
   もとのひとのもとにまからざりければ、神にうれへ侍りけるうれへぶみにはしはべりける、
   兼盛)
 「よこばしりきよみがせきに人すゑていづてふことはながくとどめつ」(170番歌)
 ーをんなにかはりて(兼盛集の詞書き:とありければ、しげゆきかへし)
 「せきすゑぬそらに心のかよひなばみをとどめてもかひやなからん」(171番歌)

 彼は重之の兄妹(第157回連載中の重之系譜参照方)のことに大変思いやりを懸ける中であった
ようで、次のような歌を詠んで重之の妹に結婚を申し込んだことが「大和物語」(第58段)に
出ています。

 「・・兼盛、みちの国にて、閑院(清和天皇)の三の皇子(貞元親王)の御むこ(子)に
  ありける人、黒塚といふ所にすみけり、そのむすめどもにをこせたる、
   みちのくの安達の原の黒塚に鬼籠もれりと聞くはまことか
  といひたりけり。・・・」

  (注)拾遺和歌集・巻第九・雑下・559・兼盛
     ーみちのくに名取の郡黒塚といふ所に重之が妹あまたありけりとききていひつかわしけり
     「陸奥の安達が原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」
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<安達ヶ原>

 重之の父清和天皇の皇子貞元親王の子従五位下三河守兼信は、陸奥国安達郡に土着した関係から
陸奥安達郡は重之の本拠地ということになります。もっとも重之の人生は伯父の参議兼忠の養子に
なって、都を中心に各地に転々とする受領層の典型のような物でしたが。
 
 陸奥安達郡は、延喜六年(906)安積郡から独立し、東山道の安達駅(現本宮町付近)と
湯日駅(現安達町付近)のほぼ中間に当たる位置にある現二本松市郡山台遺跡と長者宮遺跡付近に
「安達郡衙」があったと推定されています。

(左)東山道沿線・陸奥安達郡付近(右)現二本松市周辺地理
 重之の友人である兼盛の歌に戯れに詠われた「安達ヶ原」に「こもれりと」聞く鬼女の伝説に縁りの
地は、JR二本松駅の東4.5km阿武隈川対岸に「安達ヶ原ふるさと村」として整備されています。
 周辺には、伝説の鬼婆の棲み家であったとされる岩屋や人殺しのに使った出刃洗い池という恐ろしい
場所も地域に隣接している観世寺境内にあり、ふるさと村の西側小丘上の老杉根元に鬼婆の墓とされる
「黒塚」碑も建立されているのです。

安達郡衙跡と安達ヶ原

安達ヶ原鬼婆伝説の岩屋

鬼婆の墓・黒塚碑
 さて、問題の「安達ヶ原の鬼婆」伝説とは、次のようなものです。
 紀州熊野の山伏東光房祐慶が行き暮れて一つの家に宿る。主の老婆の留守に禁を破って閨の中を
覗き、死骸の山を見て逃げ出す。老婆は鬼女の正体を現して追いかけ喰い殺そうとするが、山伏に
折伏される。

 謡曲「安達ヶ原」(観世流)「黒塚」(観世流以外)になり、浄瑠璃「奥州安達ヶ原」(宝暦12年
近松半二作)などの文芸作品となり、ますます人口に膾炙されるようになりました。重之・兼盛の
平安期にすでに伝承されていた民話のような語りが、時代と共に内容が膨らんで、芸能の世界に
展開していったわけです。
 もっとも民族学的・歴史的観点からみますと、この説話は、江戸時代の巡検使が記録に留めている
ように、黒塚の鬼に事寄せて、「政事悪しき地頭など、国々政道司る役人にもこの鬼の類多し」(古河
古松軒「東遊雑記」)ということの比喩話であるかもしれません。

(左)紀州熊野山伏・東光房祐慶(中)山伏と鬼婆(右)鬼婆の仮の姿・老媼
  安達郡下に定住した源兼信や重之の関係者は、安達ヶ原の鬼婆にも匹敵するような悪しき官人で
あったとは思いませんが、さらに遡った昔に当地にそのような悪しき状態があったのかもしれません。
 当地では、近世の江戸時代の於いてさえ、たびたびの天災や飢饉に悩まされた歴史が残っていますし、
加えて悪政の事例があり、庶民はどうしても後世にその事実を何とか形を変えてでも伝承したいと
思ったのかもしれません。

 重之ならずとも、庶民階層では「天候荒み」「庶民も」「くだけて物思ふ」事が多かったので、
「安達ヶ原の鬼婆」を退散させてくれた山伏に当たる生活環境の到来を長年願ってきたことでしょう。

「物思ふ」源重之の肖像画(出典:錦百人一首織)
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平成16年3月15日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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