敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 155 回  *** 第40番・その1 ***
*****  壬生忠岑ーつれなく憂き世 *****

目    次
<卑官の嘆き> <古今集撰者> <忠岑集の長歌> <壬生周辺>

百人一首・第40番 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし


 第152回および第153回で連載しました壬生忠見の父親である忠岑を追ってみたいと思います。

壬生忠岑人物像(光琳カルタ)

<卑官の嘆き>

 壬生忠岑の簡単な人物歴伝では、「散位壬生安綱息、古今和歌集撰者、藤原定国随身、三十六歌仙」
と略記されています。すなわち、官人としてよりも歌人としての経歴の方が著しく目立ち、かつ
彼をして歴史上の人物に記録させる事項になっています。

 生年は貞観十年(868)頃と推測されており、官職歴は寛平年間(889〜)頃、左近番長
(つがいのちょう)の官職に就いていたのですが、次のように歌人仲間の紀貫之に嘆いた甲斐が
あったのでしょうか、まもなく延喜元年(901)に右衛門府生へ昇進を命ぜられました。

 ー壬生忠岑、左近のつがひのをさにて侍りける時、文おこせて侍りけるついでに、
  身を恨みたる返事に
 「ふりぬとていたくなわびそ春雨のただにやむべきものならなくに」
                    (後撰和歌集・巻第二・春中・80 紀貫之)

 しかしこの昇進に忠岑は嬉しくなかったようです。それは近衛府の官職は華やかな宮廷行事に
関係して目立った役職で務め甲斐があったのに、衛門府では地味な治安行政職でしかないからと
推測されます。
 たとえば、近衛府に在席中の逸話として「大和物語」(第125段)には、次のように壬生忠岑は
和歌で活躍したと記されています。

 「泉大将と言われた藤原定国(867〜906、大納言・右大將(901〜906)、三条右大臣
  藤原定方・百人一首25番歌人の兄)の供をしていた時、夜更けに酔って左大臣時平(871〜
  909)邸を訪れ、定国に代わって夜中の訪問の口上を次の歌で名乗り、時平から褒賞にあず
  かったというものです。」
    <かささぎの渡せるはしの霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ>

 これはどうも逸話に過ぎないのでは、と見られています。すなわち定国は右近大将で、忠岑は
左近番長であるうえ、大将では番長を随身にできる身分でないとされているからです。
 近衛府の役職は、この逸話のように最高職公卿の官人に注目されやすかった譬えなのでしょう。

 さて、忠岑のぼやきの歌ですが、これは既に「御垣守」の事項に関係して
      第83回大中臣能宣(その1)衛士の篝火
で連載しましたように、次のように古今和歌集の長歌にまでして「卑官を嘆き」ました。

 「・・・近き衛りの身なりしを            (近衛府に勤めていたのに)   
  ・・・御垣より 外の重守(へも)る身の 御垣守  (衛門府に転出させられた)
  ・・・かかるわびしき 身ながらに・・・」     (侘びしい身分になった)
 (古今和歌集・巻第十九・雑躰・1003 壬生忠岑)

 これだけ延々と嘆きの長歌を勅撰和歌集に再録されますと、嘆きも嘆きでなくなろうというものです。
 因みに古今和歌集巻第十九には、長歌の代表歌人として「伊勢」「貫之」「躬恒」そして「忠岑」が
名誉の撰定を受けているのです。

  右衛門府生としての「壬生忠岑」は、謡曲「草子洗小町(さふしあらひごまち)」にも描き留め
られています。
 すなわち二段目の御所清涼殿の場面で、ワキ大伴黒主、シテ小野小町で、ツレとして紀貫之、凡河内
躬恒、二人の官女とともに壬生忠岑が登場しているのです。次のような台詞が続きます。

 貫之「さて御前の人々は」
 ツレ・ワキ(一同)「小町を始め河内の躬恒、紀の貫之」
 貫之「右衛門の府生壬生の忠岑」
 ツレ・ワキ(一同)「ひだりみぎに着座して」
 貫之「既に詠みをぞ始めける。・・・・」

 さらには、古今和歌集(延喜五年・905)の仮名序にも「右衛門府生壬生忠岑」として記され
ました。すなわち彼の生涯の中で最も輝いていた時期であったと思われます。
                            (次節の「古今集撰者」の項参照方)

 右衛門府の次は御厨子所外膳部へ、そして摂津権大目に到っています。壬生忠岑の拠点は、最終の
官職が摂津権大目であることから、息子の忠見の所で言及しましたように、摂津国であるようです。
また六位の位階があったかどうがは疑問視されています。
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<古今集撰者>

 前述のように「右衛門府生壬生忠岑」よりも、彼は永久に「古今和歌集撰者」として歴史に刻まれ
ました。撰者5名の中で古今和歌集仮名序に記されているように、一番官位と役職が低く、反対に
一番年長(五十歳前後とも推定)であったのではないかと推測されています。「身を恨みたりける」
苦労人の古今和歌集歌人かつ撰者であったわけです。

 古今和歌集の撰者に選ばれるだけの経験と実績が当然忠岑にはあったわけですが、その実証事例の
ひとつにはいるのは百人一首歌で、その出典が自ら撰した古今集巻第十三恋歌三625番歌です。
 この歌に対して藤原定家や家隆は異常に高い評価を与えていることです。「此の詞のつづきは及ばず、
艶にをかしくも詠みて侍るかな。これ程の歌一つよみ出でたらむ、此の世の思ひ出に侍るべし」
(「顕注密勘」より)と相当なご執心であることが分かります。さらにある時、後鳥羽院から古今集
中の秀歌を挙げよと御下問があり、躊躇無く忠岑の当該和歌を挙げた(一条兼良「童蒙抄」)とのこと。
 
 彼が延喜五年(905)の古今和歌集撰者に抜擢される以前の歌人としての経歴には、それに遡る
こと10年以上前の寛平五(893)年「寛平御時后宮歌合」や「是貞親王家歌合」などの活躍を
挙げることが出来ます。当然これらの歌合せでの歌の何首かは古今集にも採歌されていますし、
私家集「忠岑集」にも多くの歌が載せられています。
 古今集撰進の後は延喜七年(907)宇多法皇大堰川御幸に和歌を詠進し紀貫之と別に仮名序を
献上しています。(後述の<忠岑集の長歌>参照方)

 古今集に34首の和歌を初出として、勅撰和歌集には、以降新後拾遺集に到るまで合計80首以上
採られています。また彼は歌論書とも言うべき「和歌体十種」というものも纏めています。

 古今和歌集には全部で34首ある壬生忠岑の歌から興味あることに四季毎に鳥を詠い込んでいる
のです。意図的な採歌なのか、あるいは偶然なのか、なかなか粋なしゃれた企画です。

 春 鶯   春来ぬと人は言へども鶯の鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ (巻第一・春歌上・11)
 夏 時鳥  暮るるかとみれば明けぬる夏の夜を飽かずとや鳴く山時鳥 (巻第三・夏歌・157)
 秋 稲負鳥 山田守る秋の仮庵に置く露は稲負鳥(いなおほせとり)の涙なりけり
                                  (巻第五・秋歌下・306)
 冬 千鳥  千鳥鳴く佐保の川霧立ちぬらし山の木の葉も色増さりゆく (巻第七・賀歌・361)

 彼の和歌人生に於ける常套歌語を探ってみますと、「つれなし」「はかなし」「憂し」「夢」
「別れ」などのようです。これらの歌語は何処かで良く聞く「殺し文句」です。そうです。現代の
大衆歌謡・演歌の世界の常用語でもあります。言い換えますと、壬生忠岑の9世紀から現代まで何と
日本人は、千年以上に渡ってこれらの言葉を馴染みやすい情緒表現語として使ってきていると言う
ことになります。  
 まず、百人一首歌よりみますと「つれなし」「別れ」「憂し」の「三点セット」になっています。
 
 「有明の つれなく 見えし 別れ より暁ばかり 憂き ものはなし」
                               (巻第十五・恋歌五・625) 
 この歌と異曲同音の歌は、後撰和歌集の夏歌に採られている次の歌です。

 「夢 よりも はかなき ものは夏の夜のあかつきがたの 別れ なりけり」
                                (巻第四・夏・170)
 「命にもまさりて惜しくあるものは見はてぬ 夢 の覚むるなりけり」
                             (巻第十二・恋歌二・609)
 「風吹けば峯にわかるる白雲の絶えて つれなき 君が心か」(巻第十二・恋歌二・601)
 「寝るがうちに見るをのみやは 夢 とは言はむ はかなき 世をもうつつとは見ず」
                             (巻第十六・哀傷歌・835)

いかにも物憂きつれなくはかなげな壬生忠岑人物像(永真安信筆・百人一首画帳)
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<忠岑集の長歌>

 続いて忠岑集に「つれなき」「夢」を追ってみますと次のようになります。

 「駿河なる宇津の山辺のうつつにも ゆめ にもひとをみてややみなん」(52番)
 「ゆめ にだに つれなき 人のおもかげをたのみもはてじこころくだくに」(53番)
 「月影にわが身をかふるものならば つれなき 人もあはれとやみむ」(55番)
 「ゆめ のみちまどひける世を心からなげくながめによよをふるかな」(56番)
 「吉野山よしや つれなく しのばれよみみなしやまのしらぬかほにて(61番)

 壬生忠岑と同時代人の他の歌人の私家集とちがう「忠岑集」の特徴は、次の諸点でしょう。
 (その1)百語句を越える長歌が3首入っていること
      (1)81番歌:古歌召しし時、添え奉りしながうた(古今集・巻19・雑躰・1003)
      (2)84番歌:甲斐の国にまかりたりしほどに、頼みはべりしをんな、人に名立ち侍りけるを
         ききて、かへりまうできて、(連載第156回ーおほせごとの出張ー参照方)
      (3)87番歌    
 (その2)問答集が2組み合わせ入っていること
      (1)96番〜128番歌:「ただみね」「みつね」
      (2)129番〜147番歌:「ただみね」「これひら」
 (その3)宇多法皇大井川御幸和歌詠仮名序が記されていること
      「えんぎ七ねん、(ここのつのあきは、よろこびをのぶる十日)、ていじのみかどの
       御時、みゆきせさせたまひし・・・」

大井川堰、嵐山と渡月橋付近の風景
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<壬生周辺>

 毎年のNHK放映年間大河ドラマは、歴史上の人物を扱っていますが、平成16年度は明治維新期の
新撰組を取り上げています。新撰組の拠点は、壬生忠岑と無縁ではなさそうな壬生寺周辺の「壬生
屯所」とされ、四条大宮西側で朱雀大路と五條通の交差地点に当たりますから、平安京の真ん真ん中に
位置していることになります。当地は今年大いに観光客で賑わうことでしょう。

 もともと「壬生」というのは、平安京の左京を南北に貫く大路の一路であって、大内裏の美福門に
通じていました。

壬生寺周辺地理(出典:矢野貫一著「京都歴史案内」講談社(昭和49年))
  上記の参考資料に依りますと、壬生忠岑邸宅の推定位置は、「梛ノ宮の南にある牛頭天神社から
南に一町余り、東南の田地」で、今は名のみ残る」(「近畿歴覧記」東寺往還の章より)と記録されて
いたり、あるいは「壬生地蔵院の北にその跡あり、今田畑」(「京羽二重織り留め」巻二より)と
推測されたりしています。いずれにしても現在の壬生寺の周辺で、慶長年間に畑から忠岑と文字のある
硯一面が畑から出てきて、壬生寺に保管されているとのこと。決定的な証拠物件ではないかもしれ
ませんが、いずれにしても、壬生寺周辺は、壬生忠岑と何らかの関係を持った土地柄であるという
ことになるでしょう。
 もっとも現在壬生寺境内には、三十六歌仙歌人壬生忠岑の記念塚でなく、人丸塚が祀られています。

壬生寺の山門

(左)人丸塚(右)壬生塚

(左)新撰組隊員の宿所になった八木邸(中)八木邸周辺(右)観光土産物店
         <参考メモ>壬生寺と新撰組
 壬生寺は天平宝字五年(761)僧過海が聖武天皇の勅命を奉じて開創し平安時代は勅願寺として
栄えました。本尊は地蔵菩薩ですから地蔵院とも言われ、またの一名小三井寺とも。
 建保元年(1213)より現在地にあって、以降何度か罹災しています。
 天明期(1781〜1788)大火で焼失し、文化8年(1811)に本堂と書院が再建されました。
 明治維新期に到って文久三年(1863)に新撰組屯所が置かれ、時代の変わり目の台風の目に
なりました。京都守護職に所属して、京内の反幕府勢力の鎮圧に当たった新撰組隊長近藤勇胸像も
壬生塚に据えられ、一時代の歴史を留めようとしています。

 9世紀中頃から丁度千年後、忠岑自身、自分の邸宅近くに、近衛府ならぬ幕府政権の衛士府にあたる
武士の屯所なるものが設けられようとは思っても見なかったでしょう。天皇親政体制以外の国政しか
体験していない平安朝の官人の思い及ぶところではありません。自身が近衛の衛士であっただけに
後世を知れば驚きの一語でしょうか。これも歴史の古く、長い京都の土地ならではの事です。
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平成16年3月3日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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