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敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 149 回  *** 第88番 ***
*****  皇嘉門院別当ー難波江のあし *****

目    次
<難波江> <葦の原の風景> <参考メモ:皇嘉門院・別当・歌合せ世界>

百人一首・第88番 難波江のあしのかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋わたるべき


<難波江>

  元良親王の「難波」なる「みをつくし」シリーズの続きとして、皇嘉門院別当が詠んだ「難波江」と
「みをつくし」を見たいと思います。

 「難波」の歌語を詠い込んだ百人一首歌は全部で3首あります。この歌数は「逢坂」の百人一首
固有地名と同じく最も多く、後世になっても多くの歌人に詠われたものです。
 京の都から見て東国方面への玄関である「逢坂」の地と、西国方面への玄関である「難波」の地が
ともに3回詠われていることも大変面白い偶然の一致でしょうか。
 因みに百人一首において固有の地名を詠まれたところは、全部で10府県の36個所になり、その
内訳は次のようになっていて、当然の事ながら畿内5府県で全体の83パーセントになります。
 
           百人一首歌固有地名所属府県件数順位
      奈良県ー10(28%) 京都府ー8(22%) 大阪府ー5(14%)
      兵庫県ー 4(11%) 滋賀県ー3( 8%) 宮城県ー2( 6%)
      鳥取県・静岡県・茨城県・福島県ー1( 3%)

 さて、その「難波」の地に於ける「みをつくし」の風景を追ってみます。
 難波江の「江」(百人一首88番・皇嘉門院別当歌)とは、漢和辞典に依りますと、「河海湖水
などの陸地に入り込んでいる所の入り江」です。因みに「潟」(百人一首19番・伊勢歌)とは、
遠浅の海岸で潮のさし引きによって隠れたり現れたりする所のひかた」となっていますから、「江」と
「潟」では若干地形の意味するところがことなります。
 
 「難波潟」は万葉集でも、平安朝和歌でも詠まれていますが、「難波江」は後者の和歌のみの歌語の
ようです。たとえば「難波江のあし」の歌い出しの例を八代集にみますと、

 「難波江のあしのはなけのまじれるは津の国飼の駒にやあるらむ」(拾遺集・巻九・雑下・537)
 「難波江のあし間に宿る月見れば我が身ひとつもしづまざりけり」(詞花集・巻九・雑上・345)
 「難波江のあしのわかねの繁ければこころもゆかぬ船出をぞする」(金葉集・巻十・雑下・596)

などが見出されます。
 入り江ということに注目して、六〜七世紀の難波の浜の地形を見ますと、海岸線は現在より東側の
上町台地の西海岸になっており、難波宮の北端は、河内平野から流れ込んできた多くの河川によって
入り江が形成されています。これらを総称して、「難波江」と呼んだのでしょう。
 現在の大阪府の地形より河川が多く、湖沼も多く、かつ河口近くには嶋や州が多かったことが
記されています。

(左)6〜7世紀頃の難波江(右)現代の大阪湾埋め立て地
平成期の大阪湾再開発(ベイエリア)
 平成期の大阪湾には、河川改修工事によって淀川や大和川という大河川が流入するようになった
ことに加えて自然に堆積する土砂による州や島と違って人工埋め立て地がどんどん沖合にせり出して
いるのです。これらの人工島が作り出す入り江こそ現代の「難波江」ということになるでしょう。

 難波江とは葦が繁茂していた難波宮の岸辺一帯を指しているのではないでしょうか。古い難波の
海岸線は現在の大阪市の区割りで言えば中央区の東半分、天王寺区、阿倍野区、住吉区の西境界線に
あたり、北は大川にかかる天神橋や天満橋の南端から、西は上町台地に沿って南下する現在の阪神
高速道路あたりであったと想像されます。
 上町台地の稜線には熊野街道があり、その出発点は正しく大川の川岸の八軒浜といわれたところに
あたるわけです。現在昆布屋さんのビルの玄関角に記念碑が建てられているのみです。
   
(左)大川端・天満橋より天神橋や中之島街をのぞむ
(中)「八軒屋船着き場の址」記念碑(右)熊野街道の出発地点
  京の都を出発した熊野詣での人々はこの八軒家浜で船から下りて、街道を南へ南へと旅していった
のです。四天王寺へも、住吉大社へも、紀州の和歌浦から南紀へも、全てここを出発点としたわけです
から、言ってみれば現代の大阪駅あるいは新大阪駅に当たると見て良いわけです。当時の人々の往来が
偲ばれます。この熊野街道を真北に通り抜けるような橋が旧淀川・大川にかけられていたならば、現在
でも賑わいのある町筋になっていたかもしれませんが、天満橋と天神橋は、此の熊野街道の起点から
約250mほど東西にずれてかけられています。

 当該地点は、平安期よりさらに後年の南北朝時代には戦場と化しているわけです。現在大川端の
防潮堤の上に「小楠公義戦の碑」が建立されていて、往時の楠木正行の戦闘振りを讃えています。
 現在の防潮堤は、水面から約2m近くも高いものになっていて容易に大川端に下りることが出来ま
せん。もはや大川浜から陸に上がったり、船に乗り込んだりする必要はなくなりましたが、「水の都」
といわれながら、なかなか水辺に親しめないような人工的環境になされつつあります。

大川端八軒浜の「小楠公義戦の碑」
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<葦の原の風景>

  
 皇嘉門院別当以下の平安朝歌人に詠まれた難波江の葦はもはや大川端のいづれの浜にも見つけだす
ことが出来ません。近代都市防災施策としての防潮堤その他の河川工事によるものです。強引な
こじつけ歌に仕上げますと、
   「契りきなかたみに袖をしぼりつつ難波堤を潮こさじとぞ」
というところでしょうか。

 葦の河原には「ビルが繁茂」する無味乾燥な幾何学的人口世界の風景に取って代わられているのです。
葦の葉末にゆれる夕日はいまやビルの谷間にまばたくネオンサインに変貌してしまったのです。まして
「みをつくし」など何処にも見あたりません。
 
旧淀川・大川沿いの中之島風景
(左)中之島公園上空から中央公会堂・市役所・日本銀行大阪支店などを望む
(右)御堂筋上空から天神橋・天満橋・大坂城・大阪ビジネスパークなどを望む

(左)淀屋橋上から大川下流方面を望む(右)大川端の企業ビル群
高い防潮堤に阻まれて大川端の水辺の憩いは、見られません。
 葦の河原の風景は大阪市域の淀川沿いには見つけだせず、かなり上流に遡らねばなりません。少なく
とも元良親王や皇嘉門院別当などの歌人の頭の中にある「難波江」や「難波潟」としての風景は、
京都と難波の中間地点である高槻や枚方付近の淀川の風景ということになるでしょう。それとても、
川沿いの風物として、高層アパートやマンション群が林立し、はたまた河川敷はゴルフ場に模様替え
した「葦の河原」風景ということになります。

(上)淀川沿岸の風景(高層住宅群とゴルフ場)(下)枚方大橋上流の風景
 現代の難波江には昔の葦に代わって巨大なビル群が葦のお化けのように近年「にょき、にょき」と
成長してきました。「葦の原」変貌の例としては、上町台地北東端大坂城北側が正しく「いにしへの
難波江の地」にあたり、大阪ビジネスパーク(OBP)高層ビル群、大阪の正面玄関に当たる
JR大阪駅周辺の駅前開発地区などが挙げられます。

高層ビル街の風景
(左)OAP(大阪アメニティパーク・桜宮公園前大川端)よりOBP・大坂城などを望む
(右)大阪国際会議場からJR大阪駅方面の梅田地区を望む
 さらには現代の難波津にあたる住之江区南港一画には、超高層ビル群(ワールド・トレード・センター、
アジア太平洋トレードセンターあるいはハイエット・リージェント・ホテル、スポーツ用品美津濃、
その他の企業ビル群)と隣接する海洋博物館「なにわの海の時空館」や水族館「海遊館」が姿を見せ、
桜島地区にオープンした「USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)」と併せて「難波の葦の原」
に於ける新しい集客施設としてまた、新しい大阪の顔になるべく、活動を開始しております。

 一方高層ビル群が新難波潟を固めていくのに対して、何とか自然を取り戻そうと、高層ビル群の
海辺では、「大阪南港野鳥園」として人工的に干潟を造成し、海辺に葦原を再現しひいては野鳥の
群来を図っています。1983年に解説されてから20年経ち、ようやくに「人工干潟」の様相を
呈してきて、野鳥の群も見られるようになりました。自然との共生の中に戻って野鳥によって人間
自身が自然に目覚めさせられる時かもしれません。

人工干潟が再現されつつある大阪南港野鳥園の北池風景
 人工の埋立島の名前は「夢州」「咲き州」「舞州」などですが、その名の通り、「夢」を「咲」
かせて、「舞」い踊れる楽しい地域に成れればと思うところです。

(左)ワールド・トレードセンタービル、アジア太平洋トレードセンタービル群
(右)海の博物館「時空館」

時空館内の展示物例(左)大阪港の今昔(右)昔の風景の模型

(左)USJ会場(中)USJ入口広場のホテルビル群(右)JR夢咲線沿線からホテル群を望む

USJの鳥瞰図と園内での催しもの風景
 これからますます埋立地には各種のビルが建造されていくことでしょうから、新たな大阪の町の
中心になると共に、「ちぬのうみ」から見た難波津の葦の原とは、高層ビル群のことを意味するように
なるかもしれません。
 澪標のシンボルマークと共に新しい人工葦の難波津は、関西新空港の活動開始と共に、どのように
変貌を遂げて行くのでしょうか。離着陸の航空機から見下ろす大阪の町の発展に期待したいものです。
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<参考メモ・皇嘉門院・別当・歌合せ世界>

  
(その1)古代文学での歌語「みをつくし」の歴史
 百人一首歌で歌語「みをつくし」は、前回の連載「元良親王」と「皇嘉門院別当」の二首に用い
られています。その用例については既に前回数首引用しましたが、それらはすべて、「元良親王」の
歌の本歌取りと見なされています。しかし、「みをつくし」は、元良親王(890〜943)より
以前の古今集やさらには万葉集にも見出されるのです。大変歴史の永い歌語ということが出来ます。

 「君こふる涙のとこにみちぬればみをつくしとぞ我はなりぬる」
                    (古今集・巻第十二・恋歌二・567・藤原興風)
 「とほつあふみいなさほそえのみをつくしあれをたのめてあさましものを」
                    (万葉集・巻第十四・譬喩歌・3429・遠江国の歌)      
 「みをつくしこころつくしておもへかもここにももとないめにしみゆる」
                 (万葉集・巻第十二・羇旅に思を発す・3162・読人不知)
 
 因みに「日記文学」の世界から紀貫之「土佐日記」の記述を見ましょう。
 土佐の港を前年(承平四年・934)出帆して、恐る恐るながら、辛うじて紀淡海峡を横切り、
漸くにして翌年(承平五年・935)二月六日、難波江に辿り着きました。
 
 「六日。みをつくしの許より出でて、難波に着きて、川尻に入る。みな人々、媼・翁、額に手を
  当てて喜ぶこと二つなし。」

 都に一歩近づいたことでみんなが安堵している様子が分かります。難波江の「みをつくし」を確認
したときのほっとした全員の顔が目に浮かびます。こうして「難波」と「みをつくし」の関係は、
当時の人々に忘れられない物となっていったのでしょう。


(その2)皇嘉門院の身辺
 皇嘉門院藤原聖子(保安三年・1122〜養和元年・1181)(60歳)

 父・藤原忠通、母・権大納言藤原宗通女宗子の娘として生まれ、(保安二年・1121説あり)
 兄弟には、基実(近衛家の祖)、基房、兼実(九條家の祖)、慈円(慈鎮)などがおります。
 大治四年(1129)八歳の正月、十一歳の崇徳天皇に入内し、翌年に中宮になりました。
 永治元年(1141)二人の間に皇子がなかったため、義弟が三歳の近衛天皇が即位して
           聖子中宮は、皇太后宮に昇り、なおかつ近衛帝の「母后」として内裏内に
          「なほおはしまし」た。
 久安六年(1150)「皇嘉門院」院号宣下。夫の崇徳院は、父鳥羽上皇との間の確執から、
           近衛天皇、ついで鳥羽上皇の崩御の後、ついに「保元の乱」の火元をつくって
           しまいます。
 保元元年(1156)保元の乱勃発と共に、聖子中宮の父親である忠通は夫の崇徳院の敵対側で
           ある夫の実弟帝・後白河天皇についてしまいます。
           聖子中宮は、微妙な立場に立たされ、落飾して「清浄恵」と名乗るわけです。
 長寛元年(1163)剃髪し、法名「蓮覚」尼となります。
 養和元年(1181)平清盛の没年の12月、60歳で亡くなり、最勝金剛院に葬られました。
           その系統は、後世で一条家・二条摂関家として継承されてゆくことになります。


 皇嘉門院別当(12世紀存命し、藤原聖子の生涯をカバーしている年代の宮中女房)

 皇嘉門院聖子の女房として仕えた別当は、村上天皇の皇子・具平親王ー師房ー師忠ー師隆ー俊隆と
繋がる系列の村上源氏の流れで、父親あるいは親族の誰かが別当職にあったための女房名と考えられて
います。
 歌人としての別当は、安元元年(1175)あるいは治承三年(1179)皇嘉門院の兄で
ある兼実家の歌合わせに出ていることが唯一の公の和歌活動で、勅撰和歌集には、全部で9首入集して
いるに過ぎない、それほど抜きん出ていた女流歌人でもなかったようです。
 偶々仕えた中宮の家筋に兼実という和歌世界の主宰者がいたことが彼女に幸いし、その家での
歌合せに詠んだ歌が定家に取り上げられ、後世に「百人一首歌人」として、名を残すことになりました。
 それとともに、主人筋の皇嘉門院も別当のお陰で、院号を拝受した久安六年(1150)以来、
850年間「皇嘉門院」の院号を後世の人々に印象付けることになったわけです。


(その3)別当の和歌世界を探る

養朴常信画(画帖)皇嘉門院別当(出典:別冊太陽「百人一首」Winter’72No.1)
 
 *右大臣兼実家歌合せ(その1)
  月   日  安元元年(1172)10月10日
  場   所  藤原兼実邸
  参 会 者  左方 女房(皇嘉門院別当)、俊恵法師、右大臣兼実公ほか
         右方 清輔朝臣、道因法師、頼政朝臣、小侍従ほか
         判者 清輔朝臣
  歌 合 せ  一番 初雪 
            左 勝    別当
            「めずらしと神もみるらむ榊葉に白木綿かくる今朝の初雪
            右      小侍従 
            「めずらしくわれは待ち見る初雪をいとひやすらむ小野の里人
         四番 落ち葉
            左 勝    女房(皇嘉門院別当)
            「ひとむらも枝に木の葉のとまらねば庭をぞ秋のかたみとはなる」
            右      小侍従 
            「紅葉散る小川の波の立つたびにきれぎれになる唐錦かな」

 *左大臣兼実家歌合せ(その2)
  月   日  治承三年(1179)10月18日
  場   所  藤原兼実邸
  参 会 者  左方 別当局(皇嘉門院別当)、皇后宮大夫入道、寂蓮、俊恵、隆信朝臣ほか
         右方 道因、源三位頼政、顕昭、経家ほか
         判者 皇后宮大夫入道釈阿(俊成)
  歌 合 せ  十番 霞
            左 持       別当局
           「照る月の姿ばかりは面なれて影めづらしき秋の空かな」
            右         大弐
           「かきりありて入らぬ月をもいかかせむ山の果てまでくもらずもがな」

 *千載和歌集 巻十一 恋一
         ー摂政右大臣の時の百首歌の時、忍ぶ恋のこころをよみ侍る  前右京権大夫頼政
         「あさましや抑ふる袖の下くぐる涙の末と人やみつらん」(693番歌)
                                      皇嘉門院別当
         「忍び音の袂は色に出にけり 心にも似ぬわがなみだかな」(694番歌)
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平成16年1月12日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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