敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 148 回  *** 第20番・その2 ***
*****  元良親王ー摂津歌枕 *****

目    次
<みをつくし歌碑> <たまさか> <源氏物語の元良親王>

百人一首・第20番 わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ


<みをつくし歌碑>

  
 元良親王の歌碑が、交通の流れのほとり(名神高速道路・吹田サービスエリア)に建立されています。
こんな所にと思いますが、現在の生活の流れ(陸上交通)のほとりで、歌碑が「みをつくし」の役目を
しているのでしょうか。いずれにしても、難波江の船よりもせわしげなる気持ちで、交通整理しな
ければならないことは確かです。毎日流れる車に目を回しながら、毎日「みをつくし」であり続けて
いるのでしょうか。


(上)名神高速道沿いの歌碑の位置(下)元良親王歌碑外観と石碑面の拡大
目次に戻る

<たまさか>

  私家集の「元良親王集」の中に、吹田ではないかもしれませんが、次のような「津の国の、たまさか」
を詠んだ歌があります。「たまさか」とは、地名的には、「玉坂」でしょうが、「邂逅山」あるいは
「適逢山」と書き替えて歌語として取り入れているのです。平安朝の和歌世界では、発音と言葉の
意味とが絡みあって趣を拡げて活用されたものですから、大変面白い且つ広い世界となるのです。

 ーつのくにに、たまさかといふところに、しりおき給へる女
 「てしまなるなをたまさかのたまさかにおもひいでてもあはれといはなん」(169番歌)

 同じ内容の和歌が「万代集」にも載せられています。

 ー津の国玉坂といふ所に住みわたりければ、兵部卿親王元良通はずなりにければ云ひ遣わしける
 「豊島なるなほ玉坂のたまさかに思ひ出づれば哀れといはなん」(読み人しらず)
              (引用資料:「摂津名所図会」巻之六(角川書店)昭和55年)

 この歌で言及されている「豊島郡」は、名神高速道路吹田サービスエリアのある嶋下郡の西隣の
郡で、「たまさか」という所は昔の歌枕を引用して言及しますと、「待兼山」周辺と言うことになり
和歌に多く詠まれた歌枕の一名所です。ですから、嶋下郡の吹田の地に歌碑が建っているのも無関係で
ないことになるのでしょうか。

 ついでに「元良親王集」から、「摂津歌枕」として難波の地を詠い込んだ歌を引用しておきましょう。

 「なにはえのこなたかなたによるてへばしほのひるまやこひしてふらん」(15番歌)
 「よどがわのよになうらみそしらなみのしらずやしもにおもふこころは」(23番歌)  

摂津国内の諸郡位置(出典:「国史大辞典」吉川弘文館)と待兼山周辺の「旧玉坂村」付近
  「たまさか」の現在の地名は、北摂の池田市・豊中市・箕面市三市の境界地点で、西国街道沿いの
阪急電鉄宝塚線石橋駅東側周辺になります。「たまさか」の地は、丁度西宮方面へ武庫川を越えて
いく道と、南方面へ豊島郡内を南下する道の分岐点に当たり、草野駅付近と推測されます。

 周辺には待兼山の東麓に位置して大阪大学石橋地区学舎(旧制浪速高等学校)があります。


(上左)阪急電車・石橋駅南口付近(上右)「待兼山麓の大阪大学待兼山キャンパス正門」
(下左)「待兼山」南麓の中山池(下右)大学構内から待兼山を望む
 私家集からは、壬生忠見集の歌を引用します。

 ー昔かたらひ侍し人の年比ありてあひはへるつのくにたまさかといふ所にあるに
  すつむしの鳴けるに
 「たまさかにけふあひみれどすずむしはむかしならししこゑぞきこゆる」(忠見集145番歌)

 清少納言も「枕草子」第11段「山は」のものはづけの一地理文化として、「待兼山」と共に
「たまさか山」を併記しているのです。

  待兼山周辺の風景(出典:「摂津名所図絵」)
 しかしながら、一般の解説書では、「摂津の地名らしく、名の興味で挙げたのだろうが、山と
言えるかどうか、疑わしい」としています。(池田亀鑑「全講枕草子」至文堂・昭和42年)
 とはいうものの、当時の人には山の高さなど問題でなく歌枕として使っています。

 「あひみてもまだまつほどのひさしきはたまさかやまに鳴くほととぎす」(拾玉集・3343)
 「逢ふことのたまさか山をへだてずはいまこいしとは歎かざらまし」(田多集・132)

 因みに「たまさか」引用歌は勅撰集で約25首、私家集で約25首ほどあり、特に後拾遺集に
集中的に詠い込まれているようです。
 勅撰集から代表として百人一首歌人伊勢大輔の和歌を見ますと次の歌です。

 「うづゑ(卯杖)つき つままほしきは たまさかに(偶に)
               君がとぶひ(飛火)のわかな(若菜)なりけり」
                               (後拾遺集巻1・春上・33)
  卯杖:卯の日に天皇や中宮に献上した魔よけの杖
  つままほしき:「積みたい」と「摘みたい」
  たまさかに:偶然、ゆくりなく
  とぶひの:「問ふ日」の、と「飛火野」をかけている
  若菜:正月初めの子の日に邪気を除き、健康を念じて食べる野草。
     「春日野の飛ぶ火の野守出でてみよ今いく日ありて若菜摘みてむ」
                              (古今集・春上・18)

元良親王画(出典:「別冊太陽・百人一首」平凡社(昭和47年)より勝川春章版画による)
(後ろ向きで、去ってゆくところが気になります。
たまさか村へ出かけるのでしょうか。)
 去って行く元良親王の後ろ姿に「徒然草」(第132段)の逸話を思い出します。

 「・・・元良親王が元旦の奉賀の声がすこぶるすぐれていたので式場の大極殿から
  鳥羽の作り道まで聞こえたということが、式部卿重明親王の記録にあるということである。」

 大極殿から鳥羽の作り道までの距離がどれほどかわかりませんが、相当離れた距離であることが、
想像されますが、元良親王の声は、「大きくて」「通りがいい」声だった譬えに引かれた話しの
ようです。「こい」の達人は「こえ」の達人でもあったのです。
 勝川春草はその肖像画の中に何百年隔たっても響いてくる元良親王の白氏文集などの朗詠を描き込み
たかったのではないでしょうか。聞こえてきそうな気がします。
目次に戻る

<源氏物語の元良親王>

 源氏物語「みをつくし・澪標」の巻は、その前章および前々章の須磨・明石の巻で不遇の日々を
送った源氏が赦免を受けて都に戻り、宮廷で昇進して人生が好転していく出だしの部分です。
 澪標の章では、朱雀帝の譲位、明石の君が源氏の子を出産すること、久しぶりに花散る里を訪ねる
源氏、住吉大社へ御礼の参詣をする源氏、六条御息所の死などの事態が進展して行くところです。

 この章の題目になっている「みをつくし」に関係して、文中非常に関係深い言及は、住吉神社への
源氏の参詣であり、その道中の難波の風景描写と源氏を避けて浪速へお祓いにいった明石の君など
でしょう。ここに関係してくるのが元良親王の「みをつくし」であり、その百人一首歌ということに
なります。
 
 「・・・・御社立ち給ひて、所々に逍遥をつくし給ふ。難波の御祓、七瀬に、よそほしうつかまつる。
  堀江のわたりを御覧じて、「今はた同じ難波なる」と、御心にもあらで、うち誦し給へる・・・」
       (引用資料:岩波文庫「源氏物語(二)」山岸徳平校注・1965年)

 「・・・・住吉を立ってから源氏の一行は海岸の風光を愛しながら浪速に出た。そこでは、祓いを
  することになっていた。淀川の七瀬に祓いの幣が立てられてある堀江のほとりをながめて、
  「今はた同じ浪速なる」(身をつくしても逢はんとぞ思ふ)と我知らず口に出た。・・・」
       (訳本:与謝野晶子「全訳・源氏物語」上巻・角川文庫・昭和46年)

 源氏の念頭には、元良親王(寛平二年・890〜天慶六年・943)の歌が連想されたのです。
 この歌の出典は後撰和歌集(天暦五年・951)巻十三で、源氏物語執筆の約50年前に編纂された
勅撰和歌集ということになります。紫式部が源氏物語を執筆中の寛弘年間に、次の勅撰和歌集である
拾遺集がなりましたから、後撰集は、当時最新の和歌集ということになります。したがって紫式部は
当時の宮廷文化人として当然後撰集の全ての歌を知っていたでしょうから、物語中で源氏の言葉を
借りて、和歌知識を披露すると共に、元良親王の本歌取りになる歌を、源氏と明石の上に詠ませて
います。

 元良親王の和歌を口ずさむことによって興を催して、明石の上のことを思い、自ら歌を詠みました。

 「・・・・「をかし」と、おぼして、畳紙に、

   みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひける縁は深しな」

  とて、賜へれば、・・・」
  
 源氏からの和歌を受け取った明石の上は、

 「・・・・露ばかりなれど、いとあはれに、かたじけなく思えて、うち泣きぬ。

   数ならで難波のこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ  」

と返しの歌が、「みをつくし」の言葉の受け渡しとして、源氏に戻ってきました。

 「・・・田蓑の島に、禊つかうまつる御祓のものにつけて、たてまつる。日、暮れ方になりゆく。
  夕潮、満ち来て、入り江の鶴も声惜しまぬほどの、あはれなる折からなればにや、人目も
  つつまずあひ見まほしくさへ、おぼさる。・・・」(岩波文庫「源氏物語」)
 
 「田蓑島での祓いの木綿につけてこの返事は源氏の所に来たのである。丁度日暮れになっていた。
  夕方の満潮時で、海辺にいる鶴も鳴き声を立てあって見にしむ気が多くすることから、人目を
  遠慮していずに逢いに行きたいとさえ源氏は思った。」(角川文庫「全訳源氏物語」)

 このように元良親王の「みをつくし」の和歌は、源氏物語・澪標の中心的存在になっています。
 源氏物語には勅撰和歌集中の和歌が言及がされていますが、このように源氏物語の段章の主柱に
祭り上げらている例は大変めづらしいのではないでしょうか。
 元良親王の和歌の内容を有効に活用し、小説の流れをうまく引っ張っている腕前は、さすが
紫式部と言えましょう。元良親王ご自身も次の世代の天才的小説家に自分の和歌が、斯くも効果的に
活用してもらって大満足だと思います。

目次に戻る

平成16年1月18日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。

本文の フロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。
Ads by TOK2