敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 147 回  *** 第20番・その1 ***
*****  元良親王ー「みをつくし」づくし *****

目    次
<「みを」「つ」「くし」> <大阪市章> <此花の「みをつくし」> <みをつくしの役目>

百人一首・第20番 わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ


<「みを」「つ」「くし」>

 この百人一首歌では、「難波」にある「みをつくし」なる歌語は、大変重要な恋歌のイメージ造りに
貢献しています。
 この歌の出典は後撰集(巻第十三・恋五・961)ですが、拾遺集にも採られている人気の歌です。
後撰集の中での詞書きは、「事出できて後に、京極御息所(藤原褒子)につかわしける」となって
います。つまり男女の逢う瀬があらぬ方向に行きかけて混迷状態に陥りそうになっているので、何とか
事態を打開する方向を模索して、窮地から脱出したい一念での詠みになっています。現実に元良親王が
行き詰まったとはおもえませんが。
 つまり恋路の行方に案内が欲しいわけです。そこで出てきたのが「舟を導くために水路に立てる杭」
としての「みをつくし」が必要なわけです。まさに「身を尽くし」て「みをつくし」に全てを賭けたい
ところでしょう。

光琳カルタの元良親王
 後撰集の中でこの歌の前後にある歌にも注目すべきでしょう。当該和歌の一番手前の歌はつぎの
ような「恋の船」が詠み込まれ、迷走する「恋の船」の先導にはどうしても「みをつくし」が必要
なのです。

 ー御櫛匣殿の別当に遣わしける
 「身のならむことをもしらず漕ぐ船は波の心もつつまざりけり」清蔭朝臣(960)

 さらにそれから二番と三番手前の歌も「恋の船」に関係した「天の川」が詠い込まれています。

 「おほかたは瀬とだにかけじ天の川深き心を淵とたのまん」(958・小野道風)
 「淵とてもたのみやはする天の川年に一度渡るてふ瀬を」(959・よみ人知らず)

 元良親王の歌の後には、百人一首歌63番藤原道雅の歌を彷彿とさせる次の歌が続いています。

 ーしのびて御櫛匣殿の別当にあひかたらふとききて、父の左大臣のせいし侍りければ
 「いかにしてかく思ふてふことをだに人づてならで君にかたらむ」(962・敦忠朝臣)

 この歌の恋の状態は、元良親王の「恋の船」の迷走状態以上に思わぬ方向に動いていることが解り
ます。961番と962番歌において作者の心理的状態は、ほとんど同じですから、これらの歌の
上句と下句を交互に入れ替えても歌になるのです。

 「わびぬればいまはたおなじことなればひとづてならできみにかたらむ」
 「いかにしてかくおもふてふことゆゑにみをつくしてもあはんとぞおもふ」

 千年以上も前の私たちの恋の道の先輩達は、心の内をこのような、何とたった十七歌語に詰め
込んで人に伝えることが出来たのです。現代人にはとても真似が出来ません。現代人は、それだけ
感情が浅い、無感動な、無表情な感性の持ち主にまで退化してしまったのでしょうか。

 元良親王の歌の派生歌として、後世でいろいろの人が読み継いでいます。八代集の中での典型的な
「なには」なる「みをつくし」づくし歌は10首ほどありますが、一例を引用しますと次のように
なります。

 「難波潟なににもあらずみをつくしふかきこころのしるしばかりぞ」
                   (後撰集・巻十五・雑一・1103・大江玉淵朝臣女)
 「さみだれになにはほりえのみをつくしみえぬやみづのまさるなるらん」
                   (詞花集・巻二・夏・67・源忠季)
 「なにはひといかなるえにかくちはてむあふことなみに身をつくしつつ」
                   (新古今集・巻第十一・恋一・1077・摂政太政大臣)
 
 新古今集の摂政太政大臣(藤原良経)の歌は、誠に細工が込み入っています。相当あれこれと歌語を
選んだらしい努力の跡が見えます。
 すなわち、「なには」ー「難波」「何は」、「え」ー「縁」「江」、「くち」−「朽ち」「口」
「なみ」−「波」「無」み、そして「みを」ー「澪」「身を」などです。とにかく凝りに凝っています。
肩が凝りそうです。

 そして、千載集には、もう一首の「みをつくし百人一首歌」(88番歌)である皇嘉門院別当の歌が
あるのです。これは次回の連載で取り上げます。
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<大阪市章>

  
 元良親王によって百人一首歌に詠い込まれた「みをつくし」(澪標)の「澪」とは、「水尾」あるいは
「水緒」と表記され、河口付近を通る水路であり、湾内船の航路を意味します。
 河川が海浜に流入する三角州などの遠浅の所で、干潟の表面が河川流に掘り込まれて河川の延長と
して浅い水路が出来ている状態で、一般にその水路は、屈曲し、分枝している場合が多いのです。
柔らかい砂泥で構成されていて、満潮時には水面下に没するため、川の流れや海の波でその形態は
変化を受けやすいのです。

 典型的な場所は、古代の大阪湾、さらには、東京湾や伊勢湾などの湾の奥部で見られた現象です。
 したがって「澪」(みお)「つ」(の)「くし」(串)とは「澪」の所在を示して船を導くために
水路に沿って立っている杭(航路標識)で、小型船の交通の便に利用されるのです。
 因みに、「澪引く」とは水路に沿って船を進めること、「澪引き」とは、「水先案内」すなわち
いまでいう「パイロット」です。嘗ては大阪湾内にも立てられていました。

(左)「浪花百景」天保山に描かれたみをつくし(右)大阪湾内木津川口に明治10年頃まで
立てられていた澪標の例(出典「新修大阪市史・第5巻第二章」211頁)
 澪標の形態は大昔から現在の大阪市の市章のような物ではなかったようです。
 参考資料(柚木学「近世の大阪とみおつくし」「大阪春秋」第61号21頁)によりますと、

 「澪標の原形である水尾木の形式は、古くから一貫して棒杭形式であったが、十八世紀後期に
  なって、×型の標識がつけ加えられ、十九世紀前期からは、それに横木を追加することによって
  今日の澪標形式のものに定着した」

と考察されています。したがってもともと澪標は、難波独特の風物ではなく港の要所には、類似の物が
各地にあったと考えられます。十九世紀以降は、「難波」を代表するような景物になったのですが、
元良親王の頃は、形はともかく難波の港に相応しい目立った港湾建造物であったのでしょう。

(左)寛政十年頃の澪標の図絵(右)天保二年頃の澪標の図絵
(引用資料:「大阪春秋」第61号21頁)  
 「大阪市史」によりますと、「澪標」が大阪市の市章に選定されたのは、明治27年4月で、丁度
大阪市が市政を布いた明治22年から5年目のことでした。最終的に決定するまでに紆余曲折があり
一般懸賞募集までして審議にほぼ一年を要しているようです。
 しかし、いまになってみますと、歴史的にも由緒深い、まさに「難波なるみをつくし」の大阪市に
相応しい「徽章」(市章)ということが出来ましょう。審議案も添付しておきます。

(左)大阪市章の図案例(明治26年頃)(右)大阪市公文写し(大阪市会史より)
 市章制定の詳細な経緯資料などは、大阪市公文書館に保管されています。館内には、大阪市に関する
歴史的資料を閲覧でき、「みをつくし」のレプリカも展示しています。

(左)大阪市公文書館(中)および(右)「みをつくし」のレプリカ
  澪標は船の水路の目印であると共に、現代の大阪の人々にとっては、「生活の水路の目印」でも
あるのです。澪標が人々の命の「みをつくし」として、これからも果たす役割は大きくなるばかり
でしょう。
 すなわち、その昔、「みをつくし」は船舶を誘導したように、現代の「澪標」は、海上の船に代わる
陸上の「船」というべき自動車に引き継がれていて、道路を流れる大阪市営バスを先導しています。
 このように「みをつくし」は現代人の生活に密接して、生活環境を先導したり、誘導したりする
役目も持っています。

市電一号車(明治36年)の切符の「みおつくし」のマーク
大阪市営バスのフロントに取り付けられた市章
 大阪市役所にも「みをつくし」の誘導がありました。現在の大阪市役所は、先代の建造物と比べ
ますと、外観上は簡単な箱形になってあまり特徴のない物ですが、各階のベランダの手すり格子は
「みをつくし」の模様を受け継いでいるように見えます。

(左)先代大阪市庁舎模型(大阪市公文書館内展示品)
(右)先代の大阪市役所屋上の「みおつくしのかね」

(左)現大阪市役所正面玄関
(右)正面のベランダ手すりの格子模様(みおつくしの模式)
 先代の大阪市役所の屋上に、青少年の非行への警鐘として大阪市婦人団体協議会が鐘を据付けました。
毎日午後10時になると庁舎の屋上から時刻を告げると共に、青少年を先導し誘導する役目、すなわち
「早く家に帰りなさい!」と呼びかけたのです。
 「みおつくしの鐘が鳴りました。良い子は早く家に帰りましょう。」
 又、毎年1月15日成人の日には、成人に達した人々が共に鐘をつき、良き社会人、大阪人の成人と
なれるように祈念の式典を行っていたのです。
 これからも大阪は、いろいろな面で「みをつくし」に先導されていくことでしょう。
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<此花の「みをつくし」>

 その昔は見渡す限り難波潟の葦原であったと思われる旧淀川河口の安治川口。・・・そこは現在の
大阪市此花区に相当し、区内には「みをつくし」の名残を見つけることが出来ます。

 此花区は昔の大阪の港を伝承している地区です。この区域は北は新淀川に沿っており、南は旧淀川
河口にあたる安治川になっていますので、産業立地として好適地だったわけです。
 今でこそ、USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)などの遊興施設を有する所になっています
が、嘗ては明治以降産業勃興の代表的工業都市大阪のシンボル的な重工業地域で、造船・鉄鋼・化学・
電気およびそれらへのエネルギー供給源としての発電所・都市ガス供給センターなどのみの工業地帯で
あったのです。
 此花区伝法の町に「みをつくし」を訪ねてみます。

(左)大阪市此花区伝法地区の地理(右)此花市役所前庭の「区名由来碑」
 JR環状線西九条駅から阪神電車西大阪線(西九条ー尼崎間)に乗り換え、新淀川鉄橋手前の
伝法駅で下りますと、周辺が「伝法地区」です。此花区でも古くからの歴史のある地帯で、此花区の
ホームページによりますと、庚申堂(伝法5丁目)、西念寺(伝法5丁目)、正蓮寺(伝法6丁目)、
鴉之宮(伝法2丁目)、などに加えて、「澪標住吉神社」(伝法3丁目)が鎮座しています。

 伝法村は中世末頃、伝法川と正蓮寺川が分流する中津川河口の湊として、淀川や難波江を中心とした
交通の要衝で「伝法口」と称されたのです。
 地名の由来は、やはり佛教に関係しているようで、一説に鳥羽上皇が高野山に伝法院を建立するに
その用材の船荷場であったというものです。
 残念ながら、貞享年間(1684)安治川開削と共に、港湾機能は、安治川沿岸に移り、往時の
賑わいは消えていったようです。

 なお近代に於ける建造物としては、鴻池組本店・本宅あるいは、伝法水門などが、歴史的史跡として
此花区の歴史を伝えているのです。

鴻池本店と本宅およびその正面

西念寺
 澪標住吉神社は、伝法駅から東へ徒歩5分ほどのところにあり、「鴻池組本店址」の道路を挟んだ
反対側にあります。鴻池の発祥もこの神社に関係するのかもしれません。
 社殿に依りますと、延暦23年(804)遣唐使の航海安全を祈願して、祭壇を造り、一行の帰路を
迎えるため「澪標」を立てたのが始まりという、大変古い由緒の場所です。土地の守護神であり、かつ
海上交通安全の神であるのです。

(左)澪標住吉神社の参道(右)参道脇の力石

(左)本殿(右)澪標のレプリカ
 因みに鴉之宮の由緒も古く、建保3年(1215)海運に従事していた人々が港の繁栄を願い、
土地の鎮守神として伝母頭(もりす)神社を創建したのが始まりで、豊臣秀吉が出兵の際、三本足の
鴉が先導して海路平安であったところから、「鴉之宮」となったそうです。
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<みをつくしの役目>

  
 難波の地には、「みをつくし」はなくてはならないものです。水の都としての昔より、平成現代に
至るまで、大阪の地は「みをつくし」と共に発展してきました。今も又「みをつくし」を掲げて未来を
見つめています。
 明治の末期(明治29〜42年)に掘削された「新淀川」の川の流れが変わったため、淀川の風景も
かなり変貌を遂げました。現代の大川が旧淀川であるわけですが、その接点である毛馬の水門当たりの
風景を偲んでみましょう。
 
 阪急電車千里線の柴島(くにじま)駅は、大阪市の柴島浄水場の前になります。その柴島浄水場の
南端より新淀川に架かっている橋が九世紀初頭(812年)架けられたという長柄橋の名前を継いで
いる現代の長柄橋(昭和10年架橋)です。北詰の橋の袂には、古今集で詠まれた長柄橋の歌二首が
刻まれた石碑があります。

 「世の中に経りぬるものは津の国の長柄の橋と我となりけり」
              (古今集・巻第十七・雑上・890・読み人知らず)
 「難波なる長柄の橋もつくるなり今はわが身をなににたとへむ」
              (古今集・巻十九・雑躰・1051・伊勢)


(左)現在の長柄橋上より大阪駅方面を望む(右)淀川右岸より新大阪駅方面の葦原河川敷を望む
 長柄橋の上から川上を見ますと、淀川大堰の大きな水門が数基数えられ、その南端に毛馬の水門が
設けられています。琵琶湖から流れてきた淀川の水がここで堰き止められて、大阪市民の生活の水と
して確保されているのです。

(左)淀川大堰:淀川本流の水流調節と海水流入調整する。(昭和58年3月完成)
(右)毛馬閘門:大川(旧淀川)水位調整する。(昭和29年完成、旧洗堰は明治43年建設)
 毛馬の水門と反対側の川下の方を見ますと、淀川右岸には、大阪駅近くの高層ビル群が見え、中之島
を中心としたいわゆる北の繁華街です。

大川に架かる淀屋橋上から大阪湾方面の高層ビル群を望む
右手前のビルから、朝日新聞社、三井不動産ビル、関西電力本店、大同生命ビルなど
 淀川の河川敷にある蘆の原は公園や遊歩道が造成されていて、現代では、ほとんど葦を見ることが
出来ません。旧淀川沿いでは、この「なにわの町」近くを流れる区域より
もっと川上の高槻や枚方あるいは山崎・淀辺りの方が蘆が群生しています。
 長柄橋の左岸川下にもすこし、蘆の原が残っていますが、一面の蘆という風景はなく、雑草も混成
している河原になっています。川沿いの地域が開発されて、人の立ち入りが多くなるにつれて、蘆の
原も減っていくことでしょう。

 淀川水域の人々の生活環境が変わるにつれて、淀川そのものも変貌していくのです。平成の時代から、
百年ほど前の淀川は水上交通の要路として人々や荷物が行き交っていたわけですが、道路が発達し、
鉄道網が整備され、自動車輸送業が進展する毎に淀川の交通路としての役目は薄れてゆきました。
 現在では、水上交通路の役目に代わって水源としての役目が最重要課題になりました。淀川は大阪
市民はじめ、大阪府民の生活の水源として、大阪地域が市街化するほどに人々の命を握る役目を担って
います。それに加えて、河川の汚染の問題は淀川水域の人々の生態系を如何に悪化させないように
保っていくか、ということに関わった大変難しい問題です。
 千年前の人々にも当時なりの生活水に対する難問はあったと推測しますが、人が密集して生活する
社会ほど事態は困難さを増してゆきます。これからの大阪の人々もますます水の問題を抜きにしては
生きていけないのです。
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平成16年1月15日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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