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実方は長徳元年(995)正月の除目に突然左近中将職から陸奥守を拝命して同年9月27日に 赴任することになりました。この異例の除目に、後年いろいろな憶測の逸話が生まれ、前述の藤原行成 との諍いの話しとなったわけです。一条天皇より「歌枕見て参れ」と左遷された実方当人は、どの様な 言動を残しているのでしょうか。 実方集には、348首中23首ほどの多くの陸奥赴任関係歌を残していますが、行成との関係を匂わ せる様な歌はありません。行成日記「権記」に実方赴任儀式が記され、一条天皇から御言葉をかけられ、 かつ正四位下への昇進も与えられた陸奥守兼任の辞令でした。 ただ一つはっきりしていることは、彼は勇躍受領の身分に成り下がって、また自ら望んで遠国に 赴任したわけではないことです。別れ際に都で交わった四人の人々との歌のやり取りでも解ります。 ーみちのくににいでたつに、頼光の朝臣きてあふぎおとしたる、やるとて 「めのまへにまづもわするるあふぎかなわかれはえこそうしろめたけれ」(192番歌) ーかへし 「身のならむかたもしられぬわかれにはましてあふぎのゆくへまでには」(193番歌) ーみちのくにへくだるに、きんたふ(公任)の衛門のかみ、したくらたてまつり給ふとて 「あづまぢのこのしたくらくなりゆかばみやこの月をこひざらめやは」(210番歌) ーかへし 「ことづてむみやこのかたへゆく人にこのしたくらにいとどまどふと」(211番歌) ーたかいへ(隆家)の中納言 「わかれぢはいつもなげきのつきせぬにいとどわびしきあきの夕ぐれ」(212番歌) ーかへし、九月つごもりなるべし 「しら雲のたなびくかたはくゆれどもわかれのそらにまどふころかな」(213番歌) ー宣えう殿のおほむかたより、たびのころもに 「見ぬほどのかたみにそふるこころあるをあくなとぞおもふはこがたのいそ」(214番歌) ー御返し、おほむかたへもたたぬに、かくものせさせ給へるになむとて 「心にもあらぬわかれをはこがたのいそぐをかつはうらみつるかな」(215番歌) かくて実方の朝臣は陸奥にあること、約三年。鄙の地に在任時の心境や如何に。 ー式部大夫まさひら(匡衡)が、みちのくににおこせたる 「みやこにはたれをかきみをおもふらんみやこにはみなきみをこふめり」(219番歌) ー返し 「わすられぬ人のうちにはわすれぬをこふらむ人のうちにまつやは」(220番歌) ーみちのくににて、ほととぎすのきこえざりければ、五月ばかりに人にきこえし 「みやこにはききふりぬらむほととぎすせきのこなたのみこそつらけれ」(343番歌) ーかへし 「ほととぎすなこそのせきのなかりせばきみがねざめにまづぞきかまし」(344番歌) 四年の陸奥守任期満了することなく大凡40歳前後と推察される年齢で長徳四年(998)11月 13日任地で没しました。何かと話題に富んだ人物で、逸話を多く生み出しましたが、その死因に ついても次のような名取郡笠島郷での不慮の事故を伝えています。 陸奥守実方は、出羽国千歳山「阿古耶の松」(文末の参考メモ参照方)を訪ねての帰路、名取郡 笠島郷の道祖神前を馬上で通過しようとすると、土地の人から下馬再拝すべしと諫められながら 「下品の女神にや、下馬に及ばず」。と、馬が暴れて実方朝臣は落馬し、それがもとで亡くなったと 源平盛衰記が挿話として残してます。 名取郡笠島は仙台市の南部に隣接する地域で、現在は名取市域(名取市愛島塩手字北野)になって います。


墳墓左手の顕彰歌碑は、明治41年(1908)5月愛島村有志が盛大な実方朝臣没後910年祭を 行った際のもので、かの藤原行成との諍いのもとになった歌を万葉仮名で刻んでいます。 「桜狩り雨は降りきぬおなじくはぬるともはなのかげにかくれむ」

実方朝臣が笠島郡に死して、188年後の文治二年(1186)歌人西行法師は、その墳墓を訪れ 枯れすすきの野の実方中将に思いを馳せました。 ーみちの国にまかりたりけるに、野中につねよりもと、おぼしき塚のみえけるを、人にとひければ、 中将の御はかと申すはこれがことなりと申しければ、中将とは誰が事ぞと又問ひければ、実方の 御事なりと申しける、いとかなしかりけり。さらぬだに物哀れにおぼえけるに霜枯れの薄ほのぼの 見え渡りて、後にかたらむも、詞なきようにおぼえて、 「朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて枯れ野のすすきかたみにぞ見る」(山家集・羇旅歌)

西行からさらに500年後の元禄二年(1689)5月、俳人松尾芭蕉が「奥の細道」の旅路で 実方の墓を訪ねようとして、果たせませんでした。梅雨のぬかるみの路上で、「笠島の実方中将の墓は いずこなりや」と植松の地より遙かに中将の墓に思いを寄せて、次の一句を残して松島に向かって います。 ー笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくの程ならんと人に問へば、これより遙か右に見ゆる 山ぎはの里を箕輪・笠島といひ、道祖神の社、かたみの薄今にありと教ふ。このごろの五月雨に 道いと悪しく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、箕輪・笠島も五月雨の折に ふれたりと、 笠島はいづこ五月のぬかり道 中将の墳墓右前には、西行法師の歌碑があるのに対して、参道入口には芭蕉の句碑が建てられて います。 実方顕彰歌碑を明治末期に建立した地元の人々は、昭和17年(1942)には、945年墓前祭を 行っています。 さらに平成の世の中になって名取市では、一層実方中将への追慕の念が高まって「藤原実方朝臣墓前献詠会」 が催されるようになっています。目次に戻る
ー陸奥国にまかり下りて後、郭公の声をききて、 「年を経てみ山隠れの郭公聞く人もなく音をのみぞなく」(拾遺集・巻16・雑春・1073) 任国にて客死した実方は、都恋しさの気持ちもさることながら、一条天皇の勅命に復命するために 雀となって京に舞い戻ったとされています。 さて、何処に舞い戻ったか、実方縁りの地を京中に探しますと「更雀寺」になるとされています。 この寺は、もと四条大宮駅近くの大宮通と錦小路の交差する街の一角西大宮町にあったのですが、 洛北の鞍馬街道沿いの静市市原町に昭和52年に移転したものです。

現在の地は東に比叡山を山間から眺めることが出来る深泥ヶ池の真北に位置しています。 更雀寺、俗称「雀寺」は、陸奥国名取郡笠島の道祖神の前で落馬落命した実方が帰洛の思いから 雀になって当寺住職の夢の中に出てきたことから、雀塚を建立して供養したことに由来していると 伝えられてきました。 実方の五輪供養石塔と雀塚も共に市中からこの洛北の地へ移住してきて安置されています。

「歌枕見て参れ」と陸奥への遷を命じた一条天皇は、龍安寺の裏山にある御陵から京の一中を 御覧になっています。中京区四条大宮も真下に望めます。あの世へ逝って帰洛が果たせなかった 実方も大宮の地へ戻れたわけで、近年はさらに一条天皇のおそば近くにすこし洛北に近づきました。 ここから復命の名乗りを上げますと、一条天皇に聞き届けていただけるのではないでしょうか。 京中にもう一個所実方に関係した場所は、連載の(その1)の部分で言及しましたように上賀茂神社 境内の橋本社で、御手洗川に架かる橋の袂に小さな祠を構えていて、歌の道の神様として信仰がある のだそうです。 因みに同じ神社内の摂社として巖本社は同じく歌の神様としての在原業平を祀るものだとして、吉田 兼好の「徒然草」(67段)に「賀茂の巖本、橋本は業平・実方である。」と記しているのです。

更雀寺が京の町中より洛北の地に移ってきたように、近年洛北の地も少しずつ開発され人の気配が 感じられるようになってきたようです。その典型的な施設は深泥ヶ池に東隣の宝ヶ池地区で、国立 京都国際会館や京都宝ヶ池プリンスホテルであり、京都産業大學や京都精華大学などの学校群も 鞍馬街道沿いの東西の丘陵地に建設されていますし、宝ヶ池の北方岩倉地区では一般の住宅地開発に よる団地の出現も見られます。沿線である叡山電鉄が単に観光のために鞍馬や叡山へ人を運ぶのでは なく、生活の足として利用されるようになるのもまもなくのことと思います。 併せて実方の帰還を歓迎してあげる人々が更雀寺に足を向けるようになるかもしれません。目次に戻る
陸奥守として実方が見聞に行った領内の「阿古耶の松」とは、出羽の国現在の山形県山形市東部の 千歳山(標高471m)に伝わっている阿古耶姫の伝説の松です。 阿古耶姫は信夫の国司である藤原豊光(または豊充、鎌足の曾孫)の娘で、千歳山の古松の精と 契りを結んだが、その古松は名取川に架ける橋材として伐採されてしまったので、姫は嘆き悲しみ 出家して山の頂上に弔いの松を植えたのが後の「阿古耶の松」になったとの言い伝えです。 当山の萬松寺は白鳳時代に阿古耶姫によって開山されたと伝えられ、阿古耶姫木像や墓塔あるいは 実方中将板碑などが残されています。

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