敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 142 回 *** 第62番・その4 ***
***** 清少納言ー函谷関 *****
目 次
<漢籍での遠足先>
<函谷鉾と祇園祭>
百人一首・第62番 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
<漢籍での遠足先>
前回の連載文では、清少納言が実地に足を運んだ京の太秦・広隆寺の弥勒菩薩さんを拝観し
ましたが、今回は、参考メモとして、清女の百人一首歌の背景にある中国故事にならい、「もろこし」
函谷関を添付しておきます。
平安時代に女性が中国大陸に出かけられるということはありませんでしたから、文物に頼った
全て頭の中での空想の世界として、「もろこし」という世界を描いていたことでしょう。
実物がない世界での人間の空想力は無限に広がるもので、「函谷関」を例にとっても壮大な光景を
頭に描いていたのではないでしょうか。
かって、明治の日本人でも次のように引用しています。
箱根八里 作詩 鳥居忱(まこと) 作曲 滝廉太郎
箱根の山は 天下の険 函谷関もものならず 万丈の山千仭の谷 前に聳え後に支う
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす 昼なお暗き杉の並木 羊腸の小径は苔なめらか
一夫関にあたるや 万夫も開くなし 天下に旅する剛毅のもののふ 大刀腰に足駄駆け
八里の岩根ふみならす かくこそありしか往時のもののふ
大変な気概を歌にしたものです。大言壮語の中国の世界を更に拡大して、誇大に想像を膨らませた
詩歌の世界です。
さて、清少納言は「枕草子」のなか(第131段 「頭の弁の、職にまゐりて」)で、藤原行成との
会話の中で「函谷関」を次のように言及しました。
(行成)「・・・夜を通して昔物語も聞え明さむとせしを、鶏の声にもよほされてなむ」
(清女)「いと夜深くはべりける鶏の声は、孟嘗君のにや」
(行成)「孟嘗君の鶏は函谷関を開きて、三千の客わずかに去れり、とあれども、
これは逢坂の関なり」
(清女)「夜をこめて鳥の虚音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ心かしこき関守はべり」
(行成)「逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにも開けてまつとか」
この中国故事は漢籍・史記孟嘗君列伝十五にあるものです。
孟嘗君は、紀元前四世紀から三世紀にかけての戦国時代斉国の公族(宰相)で、戦国末期「戦国の
四君」(楚の春申君、趙の平原君、魏の信陵君)のひとりです。隣の秦国昭王に殺されそうになった
とき、手持ちの食客三千人の中のから、狗盗と鶏鳴を得意とする二人の働きで、無事に秦国から
函谷関を抜けて脱出することが出来た由来に依っています。
(故事の詳細)
秦の昭王は隣国斉の孟嘗君を招き出して、臣下の言「孟嘗君は、斉の為にしか働かない」に
従って孟嘗君を殺そうとします。
孟嘗君は、危機回避の為、昭王の愛姫に頼みますと、見返りにすでに昭王に献上してしまった
「白狐の脇の下の毛だけで造った革衣(裘)」を要求します。
そこで、食客の一人「狗盗」を使って昭王から革衣を奪い取り、愛姫に献上します。
愛姫は昭王に頼んで孟嘗君を斉に帰還することを許します。一難去ってまた一難。
急ぎ脱出する「函谷関」は、一番鶏が鳴かないので門は閉ざしている。
昭王の追っ手が迫ってきた。さあどうするか。
そこで、食客の一人「物まねの名人」の登場となるわけです。
中国の歴史物の語りは、なんとも面白い小説の如しです。古来、人々はこのようにして漢籍の世界を
遊び回っていたのでしょう。
この歴史の舞台となった「函谷関」は、洛陽の都のあった中国華北平原・中原から、長安の都の
あった渭水盆地・関中の間の要衝地にある関所で、古来この関を中心に戦闘が繰り広げられました。
「函谷関」には、秦国が東方の護りとして河南省北西部・霊宝県南西2kmの所に築いた「秦関」と
言われる「古関」と前漢国が河南省新安県に築いた「漢関」とも言われる「新関」がありますが、
清少納言の言う「函谷関」は、前者です。

(左)中国大陸中央部(右)函谷関周辺の地理

再現された観光地「函谷関」で、観光用に鶏の声をテープで流し、
時を告げるサービスをしているとのこと。
「古関」は、東西8kmの深い谷で両岸は黄土層の絶壁が切り立ち、樹林は陽光を遮り、昼なお暗く、
渓谷の行進は、函の中を行くような感じがあるので、「函谷関」と命名されたとのこと。
果たして、清少納言はこのような光景を想像していたでしょうか。 文学の世界というのは、現実の
実態を敢えて認識しないほうが、かえって世界が光り輝いているものです。
関を再現しないでも「函谷関」周辺の天然の地形が、すなわち文学の世界です。まして、テープで
鶏鳴を押し付けなくてもいいのでは、と思いますが、世界中何処へ行っても、こと「観光」と
「観光地」には、商業主義の文物が横行するようです。
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<函谷鉾と祇園祭>
京都と函谷関を結びつけるものは一体何か。それは、清少納言の「枕草子」であり、古都の祭
「祇園祭」でしょう。
祇園祭は、京都・八坂神社の夏祭りで、「祇園御霊会」「祇園会」あるいは「祇園」とのみ言われて
いる日本三大祭りの一つです。(大阪・天神祭、東京・神田三社祭など)
869年(貞観十一年)疫病退散祈願で催されて以来、約1100年以上の歴史を有する行事です。
それぞれの鉾町内では、毎年7月1日から31日まで丸々一ヶ月間、諸行事が種々行われる中で、
7月17日の鉾行列がその最大の見せ物になります。

祇園祭の山鉾巡行風景
山鉾の基数は室町時代の最盛期には60基もの巡行が行われたようですが、応仁の乱で衰退し、
20年間ほど中断しています。現在は、鉾と名の付く函谷鉾、長刀鉾などは9基、保昌山(和泉式部と
藤原保昌記念の鉾)、橋弁慶山、役行者山など、歴史的由緒深い名前の「山」鉾が23基、合計32基
で巡行しているそうです。この鉾の巡行順序は、毎年7月2日に「くじ取り式」で公平に決定される
のです。
四条通烏丸西入にある財団法人函谷鉾保存会で保存運営されている「函谷鉾」(かんこくほこを
「かんこぼこ」と言い習わされています。)は、応仁の乱以来の歴史を有する鉾で「籤取らずの鉾」と
して、長刀鉾に続くものです。鉾の構成は、中国故事に習って、鉾頭の三日月と山形が函谷関の
暗闇を表現し、真木の上端近くに孟嘗君が、その下には雌雄の鶏が、屋根裏には今尾景年筆「鶏鴉図」
前掛けのタペストリーとして重要文化財のコブラン織が、さらには伝弘法大師筆「金剛界礼懺文」
(こんごうかいらいさんもん)、山鹿清華筆「群鶏図」水引などが架けられ、祭られています。

(左)函谷鉾の掛け物類(右)函谷鉾稚児人形「喜多丸」(または、嘉多丸)
函谷鉾の構成
重量:12トン、高さ:鉾頭まで24m、屋根まで8m
屋根:長さ3.5m幅4.5m、鉾床面積:4.5〜6畳、車輪:直径2m
綱方(綱引き役)30〜40人、音頭取(お囃子と指揮者)2人(辻回しは4人)、
屋根方(車運行の調整)4人
こうしてみますと、山鉾そのものが美術工芸品の歴史的構造物ということができます。山鉾巡行を
楽しむ庶民も、昔はこういった故事来歴を心得た上で、これらの美術展示品を鑑賞し、祭として
楽しんでいたのでしょう。
因みに、清少納言は祇園祭にどのように体験したかは、枕草子に書き記されていません。
さしずめ書かれているとするならば、
「まつりは、京では、まさに「まつり」(葵祭りのこと)と「ぎおん」(ぎおんまつりのこと)。
さらには、難波での「天神まつり」なり。」
とでも「ものはづくし」を構成していたかもしれません。葵祭りの宮廷行事に対して、庶民の祭である
「祇園祭」の方は、興味があっても、あまり見る機会がなかったのかもしれません。
毎年盛夏の京の町は、「祇園祭」で賑わいを見せます。古都に相応しい情景です。

平成11年夏・7月17日に賑わいを見せる祇園祭宵山
平成15年11月30日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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