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和歌と百人一首の磯城島綜藝堂
敷 島 随 想
連 載 第14回 ***第56番・その6***
和泉式部ー泉河辺の永遠の安らぎ
前回「冥き道」において、和泉式部の運命に関する詠いを数例見ました。
「和泉式部集」に於いて、彼女の「生きているということ」の辛さや「生への
諦観」あるいは、「死後の世界」に関連する歌をもうすこし引用してみましょ
う。
まず、和泉式部は、11世紀平安朝の中流貴族であって、且つ女性にして
はめづらしく、人としての「生きて」「あり」と言う存在感を重量視していま
した。
それを意識した歌は次の通りです。(野村精一・「歌言葉のみちびくもの」・
国文学・第35巻12号)
「いとへども限りありけるみにしあればあるにもあらであるをありとや」
(776)
「たのむべき方もなけれどおなじ世にあるをあるとぞおもひてぞふる」
(782)
「いかにしていかにこのよにありへばかしばしもものをおもはざるべき」
(1117)
次に、「観身論命歌群」(三角洋一・国文学・第35巻12号)として
扱われている無常観を詠んだ歌で且つ仏典文句に関係した歌としては、次のよ
うな物が残されています。
「観ずれば昔の罪を知るからになほ目の前に袖はぬれけり」
(271)
「例よりもうたて物こそかなしけれ我が世の果てになりやしぬらん」
(273)
「ねし床に魂なきからをとめたらば無げのあはれと人もみよかし」
(311)
人を愛することなくただ単に生きて存在し続けていくことの辛さは、
常々彼女が口にしていたことです。
「いかにせんいかにかすべき世の中を背けばかなし住めば住みうし」
(438)
現をまともに見ることができないので、
「現にておもへばいはむかたもなし今宵のことを夢になさばや」
(426)
しかしながら、自分の命はいつの命とも決めかねるので、
「たのめてもはかなくのみぞおもほゆるいつをいつともしらぬ命を」
(770)
ですから、わづらわしさから、ついついこの世から消えてしまいたくなり
ます。
「はかもなき露のほどにも消ちてまし玉となしけんかひもなき身を」
(443)
ところが元々彼女は、人を愛さずにいられない、すなわち人が恋しいので
す。
「ありながらつらきもくるしなきひとをおもひのみやはおもふなりけり」
(551)
「きみをおきていづちゆくらん我だにもうき世の中にしひてこそふれ」
(900)
「亡き人の来るよと聞けど君も無し我が住む里は魂なきのさと」
(943)
そしてしきりとあの世への案内者時鳥(死出の田長)の事を気にしていま
す。
「ほととぎすかたらひおきて死出の山こえばこの世のしる人にせん」
(1081)
「古里の垣根にのみぞわれはなく死出の田長はとぶらひもせず」
(498)
結局のところ御仏に縋るしかないわけです。
「ねがはくはくらきこの世の闇を出でてあかきはちすの身ともならばや」
(455)
このような歌の遍歴の末に、和泉式部も万寿年間(1025年頃)「くら
きこの世の闇を出でて」ようやく「はちすの身」となり、御仏の手のひらの上
に、安住の心を見つけることになりました。
憂き世に残した彼女の目印とも言うべき墓石は、どこにあるのでしょう
か。和泉式部の生誕の地が、全国で7カ所以上あるとされているように、墓石
も各地に見られるようです。(山中裕「和泉式部」吉川弘文堂)
たとえば、熊野路、房州館山・那古寺、諏訪・温泉寺、佐賀県・福泉寺、
宮崎県・法華岳寺、足摺岬・補陀洛院金剛補寺などです。
一方京都にもっとも近い墓碑は京都府木津にある鎌倉時代の五輪塔です。
石碑の説明には、正応2年(長元8年)3月21日卒、法名誠心院殿専意法尼
となっています。
京都・大阪・奈良の三府県の隣接地に開発が進められている京阪奈学研都
市地区の南の道を東に走りますと、奈良街道が、南北に走る木津の町に入りま
す。古い町並みの木津は奈良の都とともに栄えたところで、大仏造営のための
木材の荷揚げ地としての役目を果たして以来、木津川(みかのかわ)とともに
1200年を経てきたところです。

木津川の交通が衰えるとともに、町も勢いをなくしたのでしょう。
都が遷り、鉄道が開通し、ますますかっての栄えた木津の町は、過去の世界
に置いてきぼりにされていくのでしょうか。
奈良街道が、木津川をまたぐ泉大橋の南袂を左岸に沿って川下に堤を
下りますと、JR学研都市線の線路脇に和泉式部の墓をみつけることができま
す。

昭和の初めに建てられた立て札(石碑)も古びた物で、五輪塔の説明をし
ていました。土地の人々の中でも和泉式部の印象は少しづつ薄らいでゆくので
しょうか。町の名所として計画的に整備されていく事を願ってやみません。
平成12年5月3日・磯城島綜藝堂・主筆 謹言
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