敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 136 回  *** 第7番・その2 ***
*****  安倍仲麿ー故郷の幻月 *****

目    次
<みかさやま論> <歌碑としての帰朝> <平城京の仲麻呂>

百人一首・第7番 天の原ふりさけ見れば春日なるみかさの山に出し月かも 


<みかさやま論>

 紀貫之らが編纂した古今和歌集の詞書きに依りますと、阿部仲麻呂の歌は、「唐土(もろこし)」の
「明州といふ所の海辺にて」「月を見てよみける」と記述されています。
 実際にみかさやま(三笠山または御蓋山)を見て詠んだ歌でない、すなわち「故郷の幻月」であるの
ですが、想定された「みかさやま」は、どの山かということで、長らく、文学者や好学者の間で色々と
論議が交わされてきているようです。

春日連山の中の「御蓋山」荒池畔より

事典名編者・出版社・出版年月「みかさやま」解説文万葉集引用歌
萬葉集事典佐佐木信綱
平凡社
1956年6月
(昭和31年)
今の奈良市春日山の
一峰の御蓋山。
山腹に春日大社を祀る。
三笠山12首
御笠山4首
(1)みかさのやま
御笠乃山:3-372,8-1554
三笠乃山:3-373,6-980,7-1295,
10-1887,12-3066,3209
三笠山:6-987,10-2212
御笠山:7-1102
三笠乃山:10-1861,11-2675
(2)みかさやま
御笠山:2-232
三笠山:2-234,8-1553
(参考)春日山は19首あるが、
日の出の詠は1首(7-1373)のみ。
萬葉集事典伊藤博他
有精堂出版
1975年10月
(昭和50年)
奈良市東方の御笠山。
みかさやまも同じ。
萬葉集辞典尾崎暢殃他
武蔵野書院
1997年5月
(平成5年)
奈良市東肩、春日の地に
ある春日山のこと。
若草山と高円山の間に
ある山。
 これらの解説によりますと、「みかさやま」の位置決めに春日山と春日大社が引用されています。
 三資料ともに「みかさやま」は、春日山(標高498m)の一部、春日山そのもの、あるいは春日山
西峰の御蓋山(標高293m)であると、一致していませんが、春日大社が関わっている点、あるいは、
月の昇る方向としては春日大社から見て東方にある山という点では同じです。

 「みかさやま」(御蓋山)がよく見える場所は奈良公園で、鷺池から浮御堂越しに見る風景が優れて
います。飛火野公園内からは、若草山と御蓋山が並んで眺められますが、春日大社境内に入ってしまい
ますと、あまりにも麓に近づきすぎたために御蓋山を仰ぎにくくなります。

(左)鷺池の浮御堂越しに見た御蓋山、(右)飛火野から見た御蓋山(右)と三笠山(左)
  春日大社は「御蓋山」を中心とする自然神信仰の社で山頂に浮雲宮・本宮神社が祀られています。
 同社の成立は神護景雲二年(768)藤原氏が四神を勧請した藤原氏縁り社寺でとされていますから、
仲麻呂が唐土(もろこし)の地に客死する二年前になります。
 
 御蓋山の麓にあって、その位置がこの1230年変わっていないものは東大寺と春日大社では
ないでしょうか。

(左)春日大社参道の大鳥居(右)南大門から見た東大寺
  春日大社は平成7年(1995)11月、第59次の遷宮が行われました。20年に一度の遷宮です
から、59次X20年=1200年となります。次の50回の遷宮の間にどのような時代変遷があるの
でしょうか。千年に耐えて変わることのない大社であることを望むところです。「いにしへの都」は
2300年の悠久の都に成るべく、持てる文化財の伝承を計りたいところです。

荒池畔から望んだ御蓋山周辺の風景
 二、三の「みかさやま」検証資料を引用してみましょう。

(その1)「三笠の月、春日の月」
     (和田嘉寿男「萬葉・その後」塙書房・昭和55年5月・249頁)

 著者は、「みかさやま」を現在の「御蓋山」と仮定して、御蓋山からの月の出を見られる地点の特定
探査をしています。

御蓋山の山頂が春日山の稜線と重なる地点の特定(和田論文より引用)
  かって仲麻呂が唐土に旅立つ前に何度も眺めたであろう故郷の「春日なる三笠の山に出でし」月とは、
単純に現在の春日神社御神体であろう「御蓋山」のみを意味するのではなく、大きな範囲で判断して
春日大社を含む春日山、御蓋山全体を故郷(古里)の代名詞としているのではないかという想定です。
 結論として歌の対象となる場所がごく限られてくる事になるため、次のように「みかさやま」を
推論されています。

 すなわち、仲麻呂にとって月が「御蓋山」から出ようが、「春日山」から出ようが、それが問題で
なく、古里に昇ってきた月に照らされた故郷の情景が重要なわけです。古里を思う気持ちはすなわち
「春日の神への敬虔な心」持ちによるものなのです。
 因みに、「みかさやま」は、「東大寺創建頃、山金里と称され、阿倍氏の社が創設されていたことが
知られる」(東大寺要録)と言及されています。(「日本歴史地理体系」奈良県・御蓋山の項より)

 さらには、春日大社は遣唐使節の航海安全祈願社にもなっていました。
 仲麻呂が唐へ出発したときの第8回遣唐使が盖山(かさやま)の南に神祇を祀っております
(続日本紀)から、仲麻呂にとっても忘れられない故郷を結びつける情景であったことは確かです。
 因みにこの使節の大使多治比県守は国の内外に大活躍した人物で、716〜717年遣唐使となった
かとおもうと、その7年後養老四年(720)蝦夷征伐も行っているのです。大伴旅人同様、優れた
国を護る一人であったのです。

 また前回の仲麻呂伝記小説で、仲麻呂の漢詩を和歌に翻案したとされる大使藤原清河の第10回
遣唐使節も天平勝宝四年(752)の出発に際して、藤原太后(光明子)が春日神祭日に祈願の歌を
奉納し、清河も

 「春日野に斎く三諸の梅の花栄えて在り得て還りくるまで」(万葉集 巻19−4241)

と詠んでいますから、代作したとされる清河の頭の中にも中国明州からの船出の時に思うことは、この
出発の時の「春日神への敬虔な心」であったでしょう。それが「春日なるみかさのやま」に昇る月と
なったわけです。

(その2)「仲麻呂の命運」(関連ホームページ)
                            (http://plaza14.mbn.or.jp/~jfuruta/nakamaro/jnakamar.html)

  仲麻呂の歌は奈良の三笠山を詠んだのではなく、九州の三笠の山(志賀島の三笠山と現在宝満山
(標高827m)と呼ばれている三笠山)ではないかという大胆な仮説です。
 しかもこの歌は、仲麻呂が在唐30数年、帰国の時に唐土の明州で詠んだ歌ではなく、九州を出帆
するときに「壱岐の島の天の原の海上」で詠まれたというのです。

九州・博多周辺の「みかさやま」関連地図
(その3)三代集にみる「みかさやま」と「月」

 古今和歌集には百人一首歌の仲麻呂の歌にのみ「みかさやま」と「月」が詠まれています。
 その他の三代集すなわち後撰集、拾遺集では6首が詠まれているものの、いずれも仲麻呂が詠んだ
「春日神への敬虔な心」は影を潜め、「笠」の意味を流用する歌詞に変貌してしまっていますし、
後撰集の1106番歌は、天子を警護する近衛府長官の代名詞にまで化けてしまっています。

 「空しらぬ雨にも濡るるわが身かなみ笠の山をよそにききつつ」(もとの女)(715番)
 「挿して来と思ひしものをみ笠やまかひなく雨の漏りにけるかな」(読人不知)(1029番)
 「漏るめのみあまたみゆればみ笠やましるしるいかが挿してゆくべき」(読人不知)(1030番)
 「旧里のみかさの山はとほけれど声は昔のうとからぬかな」(堤中納言兼輔)  (1106番)
 「声たかくみかさのやまをよばふなるあめのしたこそたのしかるらし」(仲算法師)(274番)
 「さくら花みかさの山のかげしあれば雪とふれどもぬれじとぞおもふ」(読人不知)(1056番)

 せめて藤原良経の仲麻呂歌本歌取りの次の歌で雅やかな世界を受け継いでみましょう。

 「三笠山昔の月を思ひ出でてふりさけみれば峰の白雪」(秋篠月清集)

 三笠山に降り注ぐ月の光は、峰に降った白雪のごとくあざやかで、昔仲麻呂が心に描いたかっての
月は、このようなものであったろうかと詠嘆しているのでしょう。
 「みかさやま」「むかしのつき」「おもひで」「ふりさけみれば」など、いずれもにくいばかりに、
阿倍仲麻呂の歌言葉を引き出してきています。良経の学のあるところ、頭の使い所を遺憾なく発揮して
いましょう。
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<歌碑としての帰朝>

 唐王朝の旧都長安の興慶宮公園の漢詩歌碑に対応して日本国内には、4基ほど仲麻呂歌碑が建立され
ているようです。漢詩文では奈良県御所市内に、和歌文では奈良県奈良市内に二個所、さらに山梨県内
にも1基あります。以下に奈良市内の二基を添付しておきます。

 一基は平城京・朱雀大路前で最近再現された朱雀門の前の朱雀公園に据えられており、東隣の唐風
「奈良市シルクロード博記念館」がかすかに長安の仲麻呂の人生を思わせてくれます。



平城京旧朱雀門前の仲麻呂歌碑と再現された朱雀門の風景
 思えば平城京74年の時期は、ほぼ阿部仲麻呂の唐土に於ける生涯に重なっているのです。
 歌碑としてのみ帰朝できた仲麻呂の心境や如何に。1300年後の後世の人々の思いは、逆に長安
興慶宮へ飛翔する一時です。
 なお現在では朱雀門周辺には大きな建造物が乱立していて、東方春日山や御蓋山を望むことができ
ませんが、平城京新設時は遠望できたことと思います。ちなみに、再現朱雀門の北側には、大内裏の
大極殿も再建中です。なにもかも、再現していくのはどうかと思いますが、史跡旧地に立って自分の
空想で、かっての栄華の後を構築する楽しみも残して於いてほしいものです。

旧平城京内裏跡に再現中の大極殿
  平城京跡から奈良市街を遠望すると若草山や東大寺大仏殿、春日大社や御蓋山などがスカイラインを
成しています。北側から東大寺の大仏殿と若草山(三笠山)が、その南に春日大社と春日山、御蓋山が
並んでいます。

平城京大内裏・大極殿跡から、奈良市街と三笠山連山を望む
 朱雀門前からさらに一条南に下り、現在最も旧地に残存していると思われる三条通から東方を眺め
ますと、真正面に興福寺、南円堂、五重塔さらに御蓋山および春日山、そしてその左右の南北方向に
連なる春日連峰をとらまえることができます。

三条通・猿沢池畔あるいは荒池畔から眺めた御蓋山や春日連山の風景
  もう一基は、平城京の西の京、唐招提寺の東隣、秋篠川岸にある公園内に設置されています。西の京
まで西方に移動して春日連山を望みますと、御蓋山はかすかに春日山麓に包み込まれてやまの形も明確
ではありません。
 ここから眺める風景は明らかに春日連山の山際から昇ってくる月の出であり、決して御蓋山からの
月の出ではありません。しかし昇ってきた月の光に照らされた「春日野里」情景は、もはや御蓋山の
山麓に限定されたものではなく、「天の原」「春日」と呼ばれる都の東部全体の「平城京という古里」
そのものです。

奈良市西の京にある阿部仲麻呂記念碑 目次に戻る

<平城京の仲麻呂>

 仲麻呂は安倍の里で698年生まれ、都が藤原京(694)から平城京(710)へ遷都されると
共に、官吏であった父船守について、新都へ移ったと思われます。平城京では四条三坊の町に、現在の
JR奈良駅南西方向に阿倍家が在ったとされています。そこから春日神社の東方を望むと御蓋山が
望まれた事でしょう。

平城京に於ける阿部仲麻呂邸の想定
 阿倍仲麻呂が平城京の家から少年時代からの7年間に眺めた御蓋山に登る月も1300年後の現在
奈良公園を照らす月も全く変わるところはないのです。変わったのは御蓋山が見続けてきた平城京
(710〜784)のわずか74年の旧都の変遷の方です。
 仲麻呂は藤原京の東地区安倍の里で698年(一説に701年)生まれ、9〜12年後に平城京へ
うつり、7年後に異国へ旅立ったわけですから、両京にはほんのわずかしか思い出を残していないこと
になります。一方在唐歴は、54年に及び幼年期・少年期のざっと4倍の年月を過ごしたことになり
ます。

 もし、仲麻呂が藤原清河とともに帰国できたとしたら、どうであったでしょうか。750〜770年
頃は仲麻呂は、仲麻呂でも藤原氏が恵美押勝の名を賜り、太政大臣にまで登り詰めた末、反乱を起こ
したり、僧侶弓削道鏡が法王の位を授かり、朝廷を恣にした時期に当たり、律令体制の乱れが目立ち
始め、次の桓武天皇による再建の時代を待つ時期であったわけで、阿倍仲麻呂の唐での経験が活かせた
かどうかやや不安な物を感じます。
 唐の地に功成り名を遂げた生涯で終わった方が幸いであったかもしれません。
 この点は1300年経った現時点でも答えが出ません。答えられるのは、天国の仲麻呂自身しか
居らないことになりましょうか。日本史における未解決の永遠の課題にしておきましょう。
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平成15年10月31日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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