敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 134 回  *** 第23番・その2 ***
*****  大江千里ー伊予の月影 *****

目    次
<伊予国> <今治市>
<(参考地)道後温泉>

百人一首・第23番 月見ればちぢにものこそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど


<伊予国>

 大江千里・千古兄弟は平城天皇の孫に当たる大江音人の子で、在原行平・業平兄弟は叔父さん方に
当たります。後世には係累に四人も百人一首歌人(赤染め衛門、大江匡房、和泉式部、小式部内侍)を
出しています。皇孫の係累のため官職はさぞかしと思うに反して、余り目立った地位に就けなかった
ようです。したがって前回言及したように、月影に「ちぢの思ひ」を託つことになったのです。

 父音人があまりにも碩学であったために当人は霞んでしまったのかもしれません。ただし和歌への
貢献という点からは大江千里集ともいうべき「句題和歌」を宇多天皇に献上して、その数年後の勅撰
和歌集「古今集」への先鞭を付けた事が注目されましょう。
 千里は同時代人の菅原道真公とともに当代の漢詩文の大家として「白氏文集」などの漢詩句を題材と
して和歌を詠んでいたことは百人一首の歌からも予測されるところでした。

 「句題和歌」巻末補歌の中に「伊予の任に侍りける時」として、次の歌があります。

 「海山のめづらかなるに向ひても都に見ばと思ふ心あり」

 千里が赴任したのは四国・伊予国(愛媛県)であるのに対して、菅原道真は同じ四国でも讃岐国
(香川県)に赴任した経歴を持っています。官歴も漢学者としても、一部に通った点を持っていたよう
です。
 さて、千里の伊予国についてみましょう。彼が歌に詠んだように都の貴族にとっては、9世紀の瀬戸
内海および伊予国の風景は非常に「めづらかなる」異国の雰囲気が一杯であったことと思われます。
 盆地の中の京の都に比して、伊予国は、特に国府があったと思われる越智郡、すなわち現在の今治市
近郊は、南に四国の屋根が立ちはだかっているかと思えば、北方は多くの小島が点在する気候も温暖な
瀬戸の海が望めます。正しく「海山のめづらかなる」伊予国の風景です。

 都とは違う風景であればあるほど、ふるさとの都が恋しくなるのは宮廷人のやむを得ぬ心情でしょう
か。千里も例に漏れず、何かにつけて異国から都を思っていたのでしょう。
 裏を返せば伊予国府赴任の立場は不遇であったために思うは都のことばかりということなのでしょう。
平成現代で言う単身僻地赴任の身の辛さは、今も昔も変わることがありません。四年ほどの短い年月で
あるとはいえ、「めづらかなる海山」の風景では癒されない心の足枷が千里をしてこの歌を詠ませたと
しか思えません。
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<今治市>

 今治市は東方に燧灘に対面する南北に細長い市域を有しています。
 今治港からは大阪、九州、三原、尾道の各方面へ船便が往来しており、瀬戸内海に面した主な港の
一つになっているのです。

今治市と伊予国旧国府周辺

 
(上左)今治港(上右)(下右)今治城(下左)今治市商店街風景
 嘗て伊予国の中心は、今治市の郊外にあったと推定されています。
 JR今治駅から国分寺方面のバスに乗り、蒼社川にかかる郷橋を渡りますと、「郷」の字の地名
(郷本町、郷六ヶ内町、郷新屋敷町など)が多く見られます。付近には古い寺院や神社が終結して
おり、現在でも稲田畦道は幾本もます目正しく東西南北に走っています。

 郷地区の西側「八町」の地が嘗て国府が置かれていたところではないかと、今治市の関係者は見て
いるようです。確かに八町、郷からさらにバスで10分ほど南下しますと、国分寺址に辿り着ける
ことからも分かります。

 現在の国分寺は、後年近くの場所に再建された物で、かっての国分寺は巨大な礎石が数個名残を
留めているだけです。礎石の大きさから推定すると壮大な伽藍であったことが分かります。

  西国八十八札所第五十九番国分寺は、天平十三年(741)聖武天皇によって建立され、天慶二年
(939)藤原純友の乱で全焼しました。その後も幾度か争乱の兵火に遭い荒廃しました。江戸期に
なって寛政元年(1789)再建されました。

(左)国分寺址の石碑と巨大な礎石群(右)現在の国分寺
 大江千里も赴任期間中に何度も足を運んだことでしょう。隣国讃岐国の国分寺は、坂出市と高松市の
中間に位置する丘陵地・五色台の南麓にあり、場所も伽藍も天平の昔とあまり変わらない、国内でも
めづらしい例とされています。
 讃岐国分寺には七重の塔が建立されていましたから、多分、この伊予国分寺にも同程度の規模の塔が
あったものと礎石より推定されます。

 国家仏教としての天平時代の国分寺は形を変えて四国八十八札所巡礼の寺々に、あるいはまた畿内を
中心とした西国三十三札所巡礼の寺々に代表される大衆仏教の形態へと変わるとともに、信仰の行動
そのものは近代や現代の方がより幅広い階層の人々によって一般化されてきたと見るべきでしょう。
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<(参考地)道後温泉>

 大江千里も伊予国府赴任中、何度か訪れたのではないかと思われる所は、「伊予の石湯」といわれる
現在の松山市・道後温泉です。ここは今治市側から山一つ西に位置する隣町となりますから、いわば
国府の奥座敷とでもいうところでしょうか。
 しかし、都を忘れてしまうほどに温泉に興をみせたとは思えない千里の伊予時代であるようです。
漢詩の翻案でなく和歌の一つでも「石湯」について詠んで居ればと思いたくなるところです。

 松山市は、人口45万人の四国一の大都会になっています。今治の国府は廃れて何時の時代からか、
人々の賑わいは、松山の方に移ってきたのでしょう。

(左)道後温泉本館(右)湯築城より松山城を望む
 道後温泉は、万葉集の時代から「石湯」として歌に詠まれています。かの有名な額田王の歌の
詞書きに「・・・御船、伊予の塾田津の石湯の行宮に泊つ。・・・」とあって

 「塾田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(巻1・8)

 あるいは山部赤人は、「・・・伊予の温泉に至りて・・・」として

 「・・・伊予の高嶺の射狭庭(いさにわ)の丘に立たして・・・・」(巻3・322)

(左)伊佐爾波神社への参道(右)湯神社拝殿
 「塾田津」は松山市和気町・堀江町あるいは古三津浜などといわれています。また「射狭庭(いさにわ)
の丘」には、伊佐爾波神社が建てられています。

 松山や今治の町の発展には今治市と本州・尾道市とを瀬戸内海の島々つたいに開通した本四架橋に
よる人や物の流れに大いに関係があり、期待をかけています。
 観光に産業発展に如何に本州と関わりを深めていくことが出来るのでしょうか。現在では、松山
あるいは高知は空の便で大阪や東京との直結を強化していますから、これ以上の発展には、人々を
呼び込む案画が必要かもしれません。  
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平成15年10月2日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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