敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 129 回  *** 第86番・その2 ***
*****  西行法師ーさすらひ歌僧の風景(その1) *****

目    次
<「西行が行く」・行脚の地> <京の縁りの堂宇や庵>

百人一首・第86番 嘆けとて月やはものを思わするかこち顔なる我が涙かな


<「西行が行く」・行脚の地>

  「さすらひの歌僧」西行法師の行脚先を12〜13世紀の時代の中で考えるとき、驚くほど広範囲に
拡がっていることが、私家集「山家集」や「西行物語」を繙くことによって知らされます。
 現在のように地球上何処へでも自由自在に動き回れて、「旅として楽しむ」時代と違って、当時は、
居住世界以外の所へ移動することは、何らかの目的を持っていなければならず、単なる移動のみの
旅ではありえませんでした。加えて、旅の先々での活動は、出来るだけの知力、体力、資金力が揃って
いないと不可能な行脚の時代であったことを思いますと、改めて、西行法師なる超人を想定せざるを
得ないのです。

 参考図書(有吉保「王朝の歌人8/西行」集英社(1995))により、西行の生涯の足跡を
たどってみますと、次のようになります。
年代さすらひの旅先引用事項
元永元年・1118紀州田仲庄(那賀郡打田町)誕生百人一首歌碑
保延元年・1135鳥羽院に出仕(下北面の武士)
保延四年・1140出家して、鞍馬奥に暮らす。西洛・勝持寺の西行桜
永治元年・1141東山・嵯峨・小倉山などで暮らす。双林寺・二尊院の庵
久安三年・1147陸奥へ旅立ち、奥州平泉で越年。
久安四年・1148平泉・羽前を巡回し、帰京後、高野山庵居。
仁平二年・1152西国へ旅立つ。
久寿元年・1154渚の院訪問。(西住、浄蓮同道)
永暦元年・1160高野山にて美福門院御骨を迎える。
仁安二年・1167天王寺参詣江口の里
仁安三年・1168四国へ旅立つ。(讃岐白峰陵、善通寺庵居。崇徳院の章参照
永安元年・1171住吉神社にて詠歌。
承安二年・1172摂津和田万燈会の詠歌(平清盛招聘)
治承三年・1179高野山にて歌の贈答(元性法印)
治承四年・1180伊勢二見浦の庵居へ移る。
寿永二年・1183伊勢にて源通親を迎える。
文治二年・1186陸奥へ旅立つ。鎌倉にて源頼朝と面談。
古河・平泉にて詠歌。
文治三年・1187帰京し嵯峨に庵居。二尊院の庵居。
文治四年・1188比叡山へ慈円を訪う。
文治五年・1189河内・弘川寺に住む。百人一首歌碑
建久元年・1190弘川寺没。第130回参照
  この略年表に言及されない行脚先として、吉野山(花矢倉、西行庵、苔清水、蔵王堂、如意輪寺など)
あるいは、熊野(古道、王社、大峰山など)(参考資料:槙野尚一「西行を歩く」PHP研究所
(1997年12月))など、旅先としては、無数に上げられ、一所にじっとしていない活動的な
西行法師の姿が伺えます。

 西行没後約800年の現在、西行の歌世界を記念する歌碑が各地に建てられてきました。実際彼が
足跡を記した場所以外に、単なる歌枕としてあるいは西行の文学を求める人々の心が、歌碑を建て
させているようです。
 西行歌碑を探索した参考図書(岡田隆「歌碑が語る西行」三弥井書店(平成12年12月))に依り
ますと、歌碑は全国32府県に拡がっており、北は岩手県から、南は佐賀県まで、遠くは海外のブラジル
に到るまで146基あるそうです。これからも増え続けることでしょう。

 参考として、山家集を研究されている方の「山家集の研究」および「西行ゆかりの地一覧」を
引用しておきます。
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<京の縁りの堂宇や庵>

  「旅の歌人」は自分の足を記したところは全てが庵であったことでしょう。そういう観点から
西行の縁りの地あるいは庵を結んだ所をみますと、全国各地に散らばっていることになりますが、
とりわけ、西行の「さすらひ」人生の中で、最も身近に慣れ親しんで過ごしやすかったと想像される
のは京周辺の庵居で、それは西山では出家した勝持寺(花の寺)であり、嵯峨の二尊院であり、
東山では八坂の双林寺であったことでしょう。 

(1)勝持寺(花の寺)の西行

 西行の人生において、最初の大きな転機になった出来事は、西洛・小塩山大原院勝持寺での出家
でしょう。花の歌人西行法師の故をもってか、勝持寺は「花の寺」と称されています。当寺に参詣
しますと、桜の木よりも紅葉の木の方が目に付きますので「春は桜、秋は紅葉」の「花の寺」と
いうことなのでしょう。西山連峰の山麓には、次の図に記されるように名刹が集まっています。

西山山麓の名刹群
  当寺は、白鳳八年(680)天武天皇の勅により役行者が創建し、延暦十年(791)伝教大師が
桓武天皇の勅を奉じて、堂宇を再建したとのことで、寺の刻んだ年数は1320年以上になります。
 現在では、保延六年(1140)西行法師が当寺で出家し、庵を結んで一株の桜を植えた事が有名で、
「西行桜」となり「花の寺」となったわけです。

 バス路線が最寄りの山麓地点に行くための交通機関で、南春日町バス停留所から更に山に向かって
20分ほど登り詰めますと、京の町々が東南方向に望める台地の上の花の寺にたどり着けます。
 当寺の見所は、本堂阿弥陀堂前の庭にある西行桜であり、不動堂下の瀬和井の泉脇にある出家
剃髪時の石の鏡板でしょう。


(上左)勝持寺山門(上右)本堂の阿弥陀堂(下左)西行桜(下右)西行の鏡石
 寺の四周の環境、寺からの京の眺め、何れを取ってみても、出家した西行の心にぴったり合っていた
のでしょう。「さすらひ歌僧」誕生の地であり、全国行脚の出発地点になったのです。
 「西行桜」は西行手植えの樹から数えて、現存の樹は何代目になるのでしょう。桜の樹も時代時代に
植え替えられて西行の目の代わりの役目を背負って西洛の地の歴史800年を眺め続けてきたこと
でしょう。思わず桜樹が西行その人であるかのような感じを抱かせる不思議な樹木です。

   勝持寺は「西行法師」に関心を持つ日本人は、殆ど必ずと言ってもいいほど訪れる西行縁りの地です。
 「吉山たかし」さんの勝持寺参拝紀行文「桜花断章」を引用させていただきます。人それぞれに西行の縁の地に立ち、
西行に馳せる思いはいろいろです。それほどに西行なる人物は800年以上の時を超越して、日本人に
影響力を有している人物なのでしょう。
 

(2)嵯峨野二尊院の西行
 二尊院(小倉山二尊教院華台寺)には、二尊(釈迦如来像と阿弥陀如来像)が祀られているので、
その名があります。嵯峨天皇が承和年間(834〜848)に円仁(慈覚大師)に勅して創建したと
されます。法然(1131〜1212)が九條兼実の助力で当寺を再建したとされていますから、
西行(1118〜1190)が庵を結んだ頃は、創建当時の偉容はなかったかもしれません。
 法然の弟子の湛空が堂宇を増築し天台・真言・律・浄土四宗の兼学寺院までに到りましたが、残念
ながら応仁の乱で堂宇伽藍が全焼して、寺院としての機能も萎縮してしまったようです。近年は紅葉の
名所(紅葉の馬場)であったり、有名人(三条実美、角倉了以・阪東妻三郎など)の墓所であったり、
富みに有名な名刹にはなっているのですが。


二尊院の総門と案内板
京都嵯峨野二尊院の総門脇に「西行法師庵跡」の石碑が立っています。
「我がものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより」
「小倉山麓の里に木の葉散れば梢に晴るる月を見るかな」(新古今集)
「小倉山麓に秋の色はあれや梢の錦風にたたれて」(山家集)
(3)東山双林寺の西行
 嵯峨野の二尊院に対して東山双林寺近くに西行堂や西行庵さらには西行の墓碑まで残されています。
 場所は祇園丸山公園の南隣で、大雲院や音楽堂の東側になり、本堂一宇のみを残して、東隣の親鸞
上人東大谷廟の壮麗さと比べますと誠に質素な堂宇と言えましょう。

 天台宗金玉山双林寺は、1200年前の仏像(国重要文化財指定の薬師如来像)があることで有名な
寺院で、現在の質素な堂宇からは想像できないほど嘗てはそれだけ隆盛を誇っていたということです。
 開基は、延暦二十四年(805)伝教大師の創建です。大師が唐から帰朝後、宮中で本邦初の護摩
供を奉修し、天台密教経疏500巻や護摩器具を献上しました。以来、当寺は、日本初の護摩祈祷道場
になったのです。
 名前も唐の沙羅双樹林寺に似ていることから、霊鷲山沙羅双樹林寺になったとのこと。
 弘仁十四年(823)、比叡山延暦寺ができて、天台宗の活動の舞台が比叡山に移ると共に当寺は、
その別院になって隆盛を誇りました。12世紀には、皇室との関係も深くなり、寺領も鎌倉期まで
数万坪で、17支院を控えていたと言います。残念ながら、17世紀から19世紀にかけて周辺で、
各宗派の堂宇が造営(慶長期の高台寺、承応期の東大谷廟、明治期の丸山公園など)されるに連れて、
寺領を献上して、現在のような本堂一宇になったわけです。

 西行法師が庵を結んでいた頃が当寺の最盛期で西行が身を寄せただけの寺院としての偉観を誇って
いたわけです。1200年経った現在、西行は本堂と西行堂と石碑一本の双林寺をどのように思って
いることでしょうか。

(上左)宗林寺の地理(上右)西行堂(下左)西行庵(下右)西行墓碑
 西行法師は永治元年(1141)より東山双林寺や長楽寺近辺に止住しましたが、その30年後
平家物語にも有名な鬼界ヶ島に島流しにあった平康頼が赦されて都に戻り、双林寺近くの山荘に入り
ました。さらにそれから150年後、南北朝時代の和歌四天王の一人と称された頓阿が西行を慕って
この双林寺に来ました。
 三人は、今双林寺に三基の石碑となって並んで700年が経ちました。何時の時代も西行を慕う
人々がおり、今も西行庵を訪れる人々が跡を絶たない盛況です。
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平成15年9月7日(平成16年10月18日追記)・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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