敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 128 回  *** 第86番・その1 ***
*****  西行法師ー吉野と桜の人生 *****

目    次
<吉野籠り> <西行庵>
<吉野に刻まれた歴史> <吉野山と桜> <日本人の桜>

百人一首・第86番 嘆けとて月やはものを思わするかこち顔なる我が涙かな


 第125回参議雅経と第126回坂上是則は、両名とも蹴鞠の名人であり、百人一首歌の関わった
共通の縁りの地として、吉野山を訪れてきましたが、引き続いて、吉野山で忘れることが出来ない
百人一首歌人は、西行法師でしょう。「吉野山の西行か」「西行の吉野山か」と言い続けられて
来ました関係から再び西行法師に関する吉野山へ戻ってみたいと思います。
 「西行と吉野山」に取り分け強い結びつきのキーワードは、吉野山の桜ということになるでしょう。
「西行と桜」と言い換えた観点から吉野山を見直した方がいいかもしれません。

<吉野籠り>

 西行法師終焉の地弘川寺以上に法師に縁りの深い土地で昔を留めている所は、吉野山ということに
なりましょう。吉野山に行くには、近畿日本鉄道という鉄路に沿って吉野行脚すれば吉野山に籠もれ
ます。

吉野山周辺の地理
 現在吉野熊野国立公園の一画になっており、国の環境保護下におかれるようになりました。麓までは
電車で辿り着けても、そこからは国立公園域になります。出来れば徒歩にて、吉野山に入りたいもの
です。持統天皇朝の桃源郷であった吉野宮滝は吉野山の東麓にあたります。正しく吉野は1300年の
歴史の風土の中にあるのです。
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<西行庵>

 西行庵は、上千本から更に奥山にある水分神社を過ぎて、青根ヶ峯の麓にある金峯神社の傍らにある
すなわち、奥の千本の地域の真っ直中にあるのです。

吉野山の西行庵
 今でも細い山道を谷間の方に下りて行くと西行庵に当たります。正しく吉野の奥山に埋没していると
いう仙郷になっています。西行庵の説明板には次の4首の和歌が掲げられています。
西行庵説明 「とくとくと落つる岩間のこけ清水汲みほすまでもなきすみかかな」
 「吉野山去年の枝折りの道変えてまだ見ぬ方の花をたづねむ」
 「吉野山花の盛りはかぎりなし青葉の奥もなほさかりにて」
 「吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはずなりにき」
 金峯神社の裏山に登ると吉野山が一目で望める展望台があります。はるかに金剛山や葛城山、
さらには高取山や竜門岳を越えて明日香と大和平野へ思いを馳せることが出来ます。

吉野金峯神社の展望台から遠望した吉野山全景
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<吉野に刻まれた歴史>

 吉野山には万葉の時代から平成現代まで1300年の歴史が込められた所々に時々の遺跡を留めて
います。
 吉野の地域には、古く吉野川に沿って人々が住みついていたことが国栖(くす)地区に残る穴居生活
後が確認されており、宮滝遺跡では、石器縄文土器弥生土器も発掘されていることか等も分かります。
 吉野離宮は応神天皇以来450年間の遺跡であり、礎石、敷石,遺構が昭和32年の史跡指定になって
います。当時は、「よしの」ではなく、「えしぬ」「よしぬ」と称されていたようです。
宗教的な面で注目されだしたのは、七世紀に役行者が吉野川南岸に修験道場を蔵王堂として築き 金峯山寺への参詣で賑わい始めました。その信仰は、奈良平安時代になって更に盛んとなり天皇や 貴族の参詣も見られるようになります。
 文治元年(1185)には、源義経の主従悲話をも織り込んで、南北朝の南朝本拠となります。
  この時期の遺構は後醍醐天皇陵、行宮跡、当時の忠臣楠木正行縁りの如意輪寺などです。
 出陣に先立ち、正行は山門の扉に矢尻で次の和歌を辞世としました。

 「帰らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」 

(左)楠木正行縁りの如意輪寺山門(右)後醍醐天皇御陵
 14世紀に於ける南北朝と後醍醐天皇の哀史は、永く伝えられていくことでしょう。
 吉野の山道には、所々に吉野を詠んだ西行や後醍醐天皇他の歌人の和歌が案内碑のように立てられて
います。

 「あさくとも心深めてみ吉野のはなの鏡の山の井の水」(未詳)
 「春はなほ吉野の奥へ入りにけり散るめる花ぞ根にはかへれる」(西行)
 「今はわれ吉野の山の花をこそ宿のものとも見るべかりけれ」(俊成)
 
 16世紀になって豊臣秀吉の花見の宴を経て、昭和の時代には、大和上市の町近くに吉野神宮が
造営されています。吉野山において最も新しい建造物になるのです。吉野の玄関口の守り神という
ことでしょうか。
 毎年春約30万人の桜の見物客は、吉野神宮を始めとする各種の遺跡に刻まれた吉野の歴史を偲び
つつ、花を見物して吉野山を巡回することになるのです。

吉野神宮参詣道と鳥居
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<吉野山と桜>

  吉野の歴史的位置付けは、役行者を開祖とする修験道の聖地であり、その象徴は蔵王堂であることは
前述の吉野の歴史の所で言及しました。
 大峰山連峰を中心とした修験道信仰は、奈良時代から朝廷を中心に一般宗教信仰者のの「山入り」が
盛んになっていったのです。天智天皇期に役行者が大峰山修行時に感得した金剛蔵王権現を桜の木に
刻み本尊としたことが「吉野山と桜」の縁の始まりとされ、以降吉野の地では桜は蔵王権現の神木と
なり、権現信仰に結びついてゆき、「桜を祀る」がごとき桜の保護、寄進、献木などの動きが出てきて、
金峯山寺参詣の人々が盛んに神木桜を寄進する習わしになりました。

 その著しい例は、天正七年(1579)末吉甚兵衛は一万本の桜を寄進(末吉家文書)したり、文禄
三年(1594)吉野山花見の豊臣秀吉も、同じく一万本寄進したと記されています。
 今にいたって桜の木は、十数万本と数え、その白山桜系の品種は、約50種の「美吉野の桜」に
なっているのです。
地域名地    区標高(m)開花時期
下の千本吉野神宮、吉野駅周辺250四月上旬
中の千本如意輪寺付近450四月中旬
上の千本水分神社付近570四月下旬
奥の千本西行庵付近900五月上旬
(注)私家集「山家集」にみる「吉野」「桜」の和歌集
   「山家集」の中には、「吉野」「吉野山」「美吉野」「桜」「花」などを詠み込んだ歌が
   多数見られます。山家集の主題と考えられるほどです。
   ちなみに一首の中に「吉野山」「桜」を詠み込み、かつ「吉野山」を初句に据えた和歌だけでも
   次のように6首も挙げることが出来るのです。

   「吉野山桜が枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな」
   「吉野山高嶺の桜咲き初めばかからんものか花の薄雲」
   「吉野山ひとむらみゆる白雲は咲き遅れたる桜なるべし」
   「吉野山谷へたなびく白雲は峯の桜の散るにやあるらむ」
   「吉野山桜にまがふ白雲の散りなむのちははれずもあらなむ」
   「吉野山こずゑの空の霞むにて桜の枝も春知りぬらむ」
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<日本人の桜>

 吉野山の桜は、その里人が桜を愛でたが故に桜木が増えていったのではなく、信仰の対象としての
桜を尊んだが故の蔵王権現のなせる業であったわけです。
 桜を愛でる日本人は西行法師に始まったことではありません。既に吉野山の桜が紀友則らによって
古今和歌集に次のように詠まれてきました。

 「みよしのの山辺にさける桜花雪かとのみぞあやまたれける」(巻1。春上。60.友則)
 「こえぬまは吉野の山の桜花人づてののみ聞きわたるかな」(巻12.恋二。588.貫之)

 奈良時代より栽植され、古今集以前の頃合いから桜を愛でつづけた「日本人の桜」は千年以上経った
現在では、日本の国の国花的象徴になり、各地の名所の桜として春を楽しませてくれます。

(注)一言に桜といってもその種類は、ヤマザクラ、シヤマザクラなど10品種以上あり、花弁数から
   見ても5枚から多い品種では、200〜400枚になるものもあるのです。
   国指定の天然記念物樹としての桜の名木は、全国に40件ほどあり、いずれも何百年という
   樹齢を誇って壮大な桜の美しさを見せてくれます。ちなみに最北端の名木は、岩手県盛岡市内に
   2ヶ所あり、最南端では、沖縄県石垣市内にあります。

 西行法師を理解する手だてになるかもしれないと考えられる課題は、「なぜ大和農耕民族は桜を
愛するのか」ということでしょう。桜の木と稲作の関係は古くから民族学の観点から指摘されている
点です。一例を下記に引用しておきます。

  「桜の語源」について
    一説に古事記の「木花開耶姫」(このはな さくや ひめ)の「さくや」が「さくら」に
    転訛したというもの。
    あるいは、「さ」穀霊の古語。「くら」神霊が鎮座するところ。あわせて「さくら」とは、
    穀霊の集まるところということで、桜の開花が農作業の目安になったというもの。

    農耕民族の目には、桜の開花が稲つくりの神様の到来の見えたのでしょう。桜に稲の実りの
    神様を見ていたのかもしれません。

(注)「日本人の桜」関係参考資料例
  (その1)小川和佑「桜と日本人」新潮選書(1993)
  (その2)安藤潔「桜と日本人ノート」文芸社(1995)
  
 多くの日本人は、本居宣長の次の歌に代表される桜への深い志向を持っているという共通認識が
あるのです。

 「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」

 本連載の最後を飾って、桜にいろいろの感慨を込めた日本人の好例として、「吉山たかし」さん「桜花断章」という随筆文をリンクさせていただきます。(「桜花断章」部分をクリックして下さい。)
 「花を看る日本人の心」にいろいろな感情が興っている事が分かります。
 千年前の日本人が桜の花に対面して抱いた思いは一様ではありませんが、千年後の日本人も同じく、
いろいろな感情を桜の花に抱くことでしょう。これは大和民族特有の感情で、西欧の他民族には
持ち合わせない民族的美的感覚でしょう。
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平成15年9月3日(平成16年10月18日追記)・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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