敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 127 回  *** 第31番・その2 ***
*****  坂上是則ー亭子院の歌人 *****

目    次
<宇多朝の歌人> <大堰川御幸>
<亭子院歌合せ> <蹴鞠>

百人一首・第31番 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪


<宇多朝の歌人>

  坂上是則は9世紀後半から10世紀前半(930年前後)まで、主として、宇多上皇と醍醐天皇期に
活動した下級官人で、延長二年(924)従五位下加賀介(四等官制の第二等官、現代的に呼称する
ならば、石川県副知事でしょうか。)が、彼の最終官位官職であったのです。
 彼の名前は官職によって知られたのではなく、勅撰和歌集である「古今和歌集時代の代表歌人」という
点での人物で、三十六歌仙の一人であるため、亭子院歌合せを始めとする当時の宮廷和歌世界がその主
たる活躍の舞台になっています。その代表的な事績は、后宮歌合(寛平五年・893)、大井川行幸
供奉(延喜七年・907)(第36回(その3)藤原公任の項で言及)、さらには、亭子院歌合せ
(延喜十三年・913)などが勅撰和歌集や「坂上是則私家集」に留められています。

佐竹本「三十六歌仙切」坂上是則
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<大井川御幸>

 丹波の国を流れ下ってきた保津川は、保津峡谷を経て、嵐山麓の大井川に達します。都の人々に
とってこの風光明媚の大井川堰の地は、九世紀末頃からすなわち宇多天皇朝前後から遊覧の地として
親しまれたところで、宇多天皇の後継者嵯峨天皇は嵯峨院を築かれました。

大井川と渡月橋
 さらに宮廷文化の華を大きく開かせるべく大井川辺は十世紀中期には竜頭げき首の舟を用いた
詩・歌・管弦三船祭(既述の第36回(その3)藤原公任の項参照)の地として発展してゆきました。
丁度そのかかりに当たるのが、坂上是則らの宮廷歌人による大井川行幸の歌詠み華やかなる時期に
あたります。

 私家集「是則集」(45首収録)には数首「大井川行幸に」詠まれています。

 「もみぢ葉のちりてながるる大井がはせぜのしらなみかけとどめなん」(秋・17番歌)

 もみぢ葉で埋め尽くされた白波の波打ちをもみぢの絨毯のように見立てて、嵐山の麓に立て掛けて
屏風のようにして見ましょうという趣向でしょう。

 「この河のいりえのまつは老いにけりふるきみゆきのことやとはまし」(雑・42番歌)

大井川左岸から嵐山と虚空蔵法輪寺を望む
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<亭子院歌合せ>

 この歌合わせは延喜十三年(913)3月13日宇多法皇(日本歴史上、皇位の初例)主催の四十番
八十首を番うもので、参会者は法皇以下の皇族、主な歌人にして、後の百人一首歌人は、凡河内躬恒・
藤原興風・紀貫之・伊勢、それに坂上是則など、当時の錚々たるメンバーでした。
 この歌合わせは、後世天徳内裏歌合わせなどで最盛期を迎えた宮廷歌合わせの先例となり、和歌世界
にも大きな足跡を残したことになります。

 亭子院は平安京左京七条すなわち東市の西側にあった宇多法皇離宮です。延喜三年(903)、法皇
女御で藤原基経女・温子が東七条宮として遷御されたところです。
  現在の京都市内では、東本願寺と西本願寺の間、丁度「燕庵庭園」の在る一帯でしょう。

(左)植松公園(右)植松公園の南側・燕庵庭園東正面

(左)植松公園の北側植柳小学校校庭(右)植松公園に西方向西本願寺山門を遠望
 「是則集」には、「ていじの院の歌あわせ」として、5首ほどの歌が残されています。私家集の歌
以外にも多くの歌が「ていじの院」で詠まれたことでしょう。

 歌合わせでの是則の戦績は、一負け・三引き分けとなっています。相手は、伊勢と一戦、躬恒と三戦で
伊勢との引き分け、躬恒に負けた勝負を下記に挙げましょう。

 左 伊勢
 1 あをやぎのえだにかかれるはるさめはいともてぬけるたまかとぞみる
 右 是則
 2 あさみどりそめてみだれるあをやぎのいとをばはるのかぜやよるらむ
 これもかれもよしとて、ぢ(持)

 左 勝 躬恒
 5 きつつのみなくうぐひすのふるさとはちりにしむめのはなにざりける
 右 是則
 6 みちよへてなるてふももはことしよりはなさくはるにあひぞしにける
 としとよむべきことをよといへりとて、まく(負)

 もも・くり三年、かき八年、の言い伝えは、遙か昔からのものであるらしく、是則も
 「みとせへて なるてふももは ことしより はなさくはるに あひぞしにける」
と詠むべきであったというのです。
 しかし、是則にしてみれば、そう詠めば単なる言い古された決まり事を歌にするだけだから面白く
ない、と一ひねりして、「三千代」と壮大なときの流れのなかの桃の花と唐詩風に大らかな大言壮語の
和歌にしたかったのではないでしょうか。
 
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勝川春草筆版画・坂上是則像 目次に戻る

<蹴鞠>

 蹴鞠については、第124回参議雅経ー白峰神宮のけまりの神様で引用しましたように、
「西宮記」という古文書に延喜五年(905)坂上是則等は、鞠を206回も蹴り上げ続けたと
記されています。
 坂上是則なる人物が、何故蹴鞠の運動神経が発達していたのでしょうか。彼の先祖は、唐人
(もろこしびと)とされ、古くは、是則より四代前約120年ほど遡る時期、征夷大将軍坂上田村麻呂
(758〜811)(桓武朝・延暦十六年・797任命される)が大活躍しています。武道に優れて
いた田村麻呂の遺伝子に加えて文芸の道の才能も受け継いだのでしょうか。彼の子息の望城は、
確かに文芸の道は、父是則の才を受け継ぎ、「梨壺の五人」の一人として後撰集の編者に成り得た
歌人でありましたが、蹴鞠の名手とは伝わっていません。天は、是則には二物を与えましたが、
望城には二物を与えなかったことになります。 

(左)現在の京都御所内蹴鞠の場(右)紫宸殿の正面

(左)現在の京都御所内風景(その1)(右)(その2)
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平成15年8月20日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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