敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 122 回  *** 第77番・その2 ***
*****  崇徳院ー保元の乱の果て *****

目    次
<武士の抬頭> <保元の乱の関係者> <「やゑのしほぢ」を讃岐へ>
<白峰寺> <讃岐国府> <讃岐国分寺>

百人一首・第77番 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ


<武士の抬頭>

 日本歴史に於いて保元・平治の乱は、武士の抬頭を促すことになったとされています。この時代背景
に蠢いていた武士とは、一体如何なる源流を有していたのでしょうか。
 歴史の本に依りますと、武士の抬頭に関連する先行事件として次のようなことが考察されています。
     
年代歴史的事変関係武士団
934〜941承平・天慶の乱平将門の乱:平貞盛平定
藤原純友の乱:源経基平定
(1019)(刀伊入寇)(女真族九州北部来襲)
(太宰権帥藤原隆家撃退)
1023〜1031平忠常の乱房総で反乱:源頼信平定
1051〜1087前九年・後三年の役安倍頼時・貞任の乱:
源頼義・清原武則平定
清原氏族の乱:
源義家平定
 藤原氏族専制による摂関政治の展開と共に、1086年から白河法皇による院政が開始され、
律令制軍事体系が崩壊し始め、国司が土着化し、在地領主の武士化が進み、武装集団が形成され、
専業化していったというのが歴史の流れです。

 11世紀には、桓武平氏、清和源氏の大きな武士団系列が顕在化し、地方から中央朝廷へ進出し
始めることが律令体制を一層混迷した政体に変態させ、複雑な集団毎の抗争関係を生み出してゆきます。
保元・平治の乱は、発生すべくして起こったと見るべきでしょうか。武士団形成期間200年間に
天皇家、摂関家、有力武士団の各々に次のような対立関係が顕在化してしまいました。
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<保元の乱の関係者>

 皇室、摂関家、源氏、平家各々の保元の乱関係者は、次の表の通りですが、この乱の中心的人物は、
崇徳院その人です。

光琳かるたの崇徳院
皇 室((父)鳥羽法皇)ー(弟)後白河天皇(兄)崇徳上皇ー(子)重仁親王
摂関家(兄)藤原忠通(父)藤原忠実ー(弟)藤原頼長
源 氏(兄)源義朝(父)源為義ー(弟)源為朝
平 氏((父)平忠盛)ー(子)平清盛((父)平忠盛)の弟(伯父)平忠正
  鳥羽法皇の院政期、皇室を取り巻く周辺の有力家系それぞれに複雑な利害の絡まった親子兄弟関係の
真っ直中にあったことが分かります。崇徳上皇が事を挙げなかったとしても、いずれ摂関家または
武士階層群より事変が誘発されたことでしょう。
 現に保元の乱はそれだけに留まらず、平治の乱へと関連して行き、さらにはそれが尾を引いて源平
合戦へ、源氏が北条氏に執って代わり、以後国を二分する南北朝から戦国時代への長期抗争時代へと
拡大していったことからも推測されるのです。
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<「やゑのしほぢ」を讃岐へ>

 近衛天皇が嗣子なきまま、久寿二年(1155)7月崩御後、崇徳上皇は皇子の重仁親王に皇位が
回ってくることを期待したのですが、鳥羽法皇妃美福門院(近衛天皇の母)推挙の弟・後白河天皇に
回されたため、保元元年(1156)鳥羽院の死により崇徳院の不満が爆発し、保元の乱へと転回して
ゆきました。

 高松殿に集合した源義朝・平清盛を主力とする後白河天皇方は、白河殿へ集まっている源為義・為朝
平忠正を主力とする崇徳上皇側へ夜討ちをかけ、数時間で勝負を決してしまいます。
 平家物語では、巻第一鱸のところに平清盛がこととて、次のように言及されています。

 「・・・保元元年七月に宇治の左府(藤原頼長のこと)代をみだり給ひし時、安藝守とて御方にて
  勲功ありしかば、播磨守にうつて同三年太宰大弐になる。・・・」

平治の乱関係地
 崇徳上皇は、保元元年(1156)7月23日「あっけなく、拘束されて、讃岐配流」の身に暗転
してしまいます。「今鏡」巻二 すべらぎの中(やゑのしほぢ)には次のように述べられています。

 「・・・さるほどに鳥羽の院御心地おもらせ給ひて、(保元元年)七月二日失せさせ給ひぬれば
  帝(後白河天皇)の御世にて定まりぬるを、院のおはしましし折よりきこゆることどもありて
  御垣の内厳しく固められけるに、嵯峨の帝の御時、兄の院(平城天皇)と争はせ給ひけるやう
  なることいできて、新院(崇徳上皇)御櫛おろさせ給ひて、御弟(覚姓法親王)の仁和寺の宮
  におはしましければ、しばしは左様にきこへしほどに、「やゑのしほぢ」を分けて遠くおはし
  まして・・・」
 「・・・あさましきひなのあたりに、九年ばかりおはしまして、憂き世のあまりにや、御病も
  年に添えておもらせ給ひければ、都へ帰らせ給ふこともなくて、秋(長寛二年)八月二十六日
  に彼の国にて失せさせ給ひにけりとなん。・・・」
 「・・・「やゑのしほぢ」をかきわけて、はるばるとおはしましけん、いとかなしく、・・・」

 讃岐に留まること9年、長寛二年(1164)8月26日、悶々たる気持ちを都の方面に抱きながら
無念の生涯を閉じたわけです。没後13年経った治承元年(1177)「讃岐院」の追号を受け
ましたがあの世でも不満が納まるはずがありません。またしても現世に残されて関係者は、彼の
怨霊封じをしなければならなくなりました。
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<白峰寺>

  崇徳院の配流地である讃岐国に於ける縁りの地点は、現在坂出市内になる白峰宮(西庄町天皇)、
白峰寺(青海町)、崇徳天皇陵(青海町)などです。
 白峰宮は、城山北麓に鎮座していて、崇徳天皇社または、明の宮と呼ばれています。
 長寛二年(1164)配流地で崩御後、八十場の野沢井冷水に浸された遺体は、京からの沙汰を
待ったとのこと。白峰山で荼毘に付された後、野沢井辺りで毎夜神光があったので、明けの宮として
小祠を建立したのが旧県社の始まりとこと。

 崇徳天皇陵近くに位置する白峰寺は、真言宗御室派の綾正山洞林院で白峰山(標高337m)山頂
北側に座し、その北西には、崇徳天皇陵とその守護の法華三昧堂があります。
 貞観二年(860)開創で、母が空海の姪に当たる智証大師円珍(天台宗の高僧)が安置したという
千手観音を本尊として、四国霊場八十八ヶ所第八十一番札所で、ご詠歌は次のようになっています。

 「霜さむく露白妙の寺の内みなをたとうる法の声ごえ」
 
 崇徳上皇は、鼓岡御所で亡くなりましたが、崇徳院近習阿闍利章実が御所を白峰寺へ移建したわけ
です。
 現在の白峰寺へ詣でてみましょう。

 本州四国連絡橋の三橋の内中央に位置し、岡山と坂出を結ぶ瀬戸大橋を列車に乗って渡ると、あっと
いう間に本州から四国へ上陸することができます。崇徳上皇の眠る白峰御陵へは、JR坂出駅から、
東方の五色台麓の高屋まで、バスに乗り、そこから白峰山まで登ることになります。

白峰寺周辺の地理
 五色台に登るに連れて刻一刻と讃岐平野周辺の山は一つ一つそのなだらかなふんわりと平地に盛り
上げられた団子山のような峰峯があちこちに見えてきて、箱庭の雰囲気の景観に仕立てられている印象を
受けます。
 五色台周辺には、西国八十八ヶ所札所のうち、八十番札所国分寺(五色台の南嶺)、八十一番札所
(白峰寺)、八十二番札所(根香寺)の三寺があります。
 お遍路さんも近年は、団体でのバス移動の旅になっているようです。

白峰寺への登山道からの遠景(瀬戸大橋、坂出市街、善通寺方面が望める)
 白峰寺の山門を入った右手は、かって崇徳上皇がこの地に流謫の身を置いた白峰寺客殿です。
 山内の西の嶺に崇徳上皇の御陵があり、御陵が眺められる山内の一画にここを訪れ上皇の霊と語らった
という西行法師の歌碑が建てられています。

(左)白峰寺の山門(右)崇徳上皇の御陵

西行歌碑「よしや君昔の玉の床とてもかからむのちは何にかはせん」
 御陵の方向は、京の都を睨み付けているのではなく、南の白峰山と向かい合っています。
 御陵は海抜360mほどの位置にありますが、山間にひっそりと隠れるように祀られています。
 上皇が亡くなられたときは、都へ帰るにも舟で瀬戸の海を渡らねばなりませんでした。830年後には、
御陵の真下に四国から本州へ橋が架けられましたから歩いては当然、電車に乗って今日へ帰れますよと
呼びかけてあげたい気持ちになります。
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<讃岐国府>

 白峰寺から南西方向の山間の地は、讃岐国府の旧跡地と推定されています。府中町北部本村の
綾川左岸、古代阿野郡甲智郷で、南海道河内駅がありました。綾川の右岸綾坂から東に向かいますと
国分寺町国分の国分寺に連なっています。この一帯が古くから讃岐国の中心地であったことが分かり
ます。JR四国鉄道線の讃岐府中駅西北方向の畑地に中に「讃岐国府跡」の石碑が建っています。

JR讃岐府中駅近くの讃岐国府址
  国府址の地は、現在坂出市府中町で三方が山に囲まれていて北東方向には、白峰寺のある五色台が
望めます。西方の丘の上には崇徳院の居住の地であった鼓岡神社の祠も見えます。

JR讃岐府中駅から鼓岡神社および城山(462m)方向を望む
 かって讃岐国の国府には仁和二年(886)〜寛平二年(890)国司菅原道真が赴任し、善政を
敷いたとの歴史が残っています。「菅家文章」には、国府が漢詩に読み込まれているのです。

  弘法大師の地ー讃岐の国は、今でも国府の周辺はのんびりとした田園風景が残されています。
 瀬戸大橋(讃岐国を通過)によって本州と直結し、まもなく淡路島(阿波国を通過)を経て、
あるいは西の来島海峡(伊予国を通過)を渡る連絡橋によって本州と陸路でつながれる四国というのが
21世紀の姿です。
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<讃岐国分寺>

 JR讃岐府中駅からさらに一駅高松駅に近づきますと国分駅に着きます。駅前の県道33号線を
東に道をとりますと国分寺前に到ります。こんもりした松林が残されている国分寺址は北に白峰山の
南嶺に当たる大平山(479m)・国分台(407m)・蓮光寺山(371m)が屏風のように迫って
きており南面は讃岐富士に代表されるようにチューリップの花を逆さまにしたような形の山々が点在
する国分寺建立場所に相応しい地形を形成しています。

国分寺の山門と参道
 弘法大師空海の誕生地西国八十八ヶ所巡りの第八十番札所として、多くのお遍路さんが通過していく
寺でもあるわけです。天平の昔、各国に建立された国分寺はその多くがその土地の名前として残るか、
後世に代替の寺院が建立されたり、あるいは場所さえ確定できない中にあって、この讃岐の国分寺は、
ほとんど当初の場所のままに寺院が継承されてきた全国でも珍しい例だとされています。
 それだけに讃岐の人々はまたその国柄が信仰心の深い心の持ち主が多いということなのでしょうか。
 さすがに弘法大師さんを生み出すお国柄と言えましょうか。末代までも弘法大師共々国分寺も伝承
されていくことを望むところです。

国分寺裏庭の国分寺石造模型 目次に戻る

平成15年7月2日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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