敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 119 回 *** 第100番・その1 ***
***** 順徳院ー父子再会の大原 *****
目 次
<父子の絆>
<大原陵>
<中古の世界・水無瀬と大原>
百人一首・第100番 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
<父子の絆>


父・後鳥羽院(左)と子・順徳院(右)(出典:秋田書店「歴史と旅」(昭和61年6月号))
順徳院の父帝後鳥羽院は125代に渡る皇歴の中においても希有の多芸で多才のお方であられた
わけですが、余りにも才が際だちすぎた観があります。それが和歌の世界であれば人との藝競いに
なるといってもせいぜい廷臣の藤原定家との芸術論で終始するところでしたが、こと政事になり、
社会体制の問題になりますと、その分野での専門家である幕府とぶつからざるを得なかったわけです。
戦闘事に生涯をかけた人物ならたとえ戦に敗れても諦めもつきましょう。しかし、後鳥羽院のように
極端に言いますと、余芸的に足を踏み入れただけの武術の世界では、あまりにその準備内容と期間が
不足していました。このため親子三人は、隠岐に、土佐に(後、淡路島に)、佐渡に引き離されたまま、
生きて二度と会うことなく、あの世での再会となってしまいました。
特に順徳院以上に土御門院の場合は、自分の予期せぬ運命に引きづられたわけですから、誠に悲惨な
後半生になってしまったわけです。
順徳院の御気性は、父帝の思想を理解して、早くから倒幕行動を共にしていたようです。
和歌の道に於いても、順徳院は、父帝の御才能を受け継がれています。
新古今和歌集時代までの歌学集大成とされる「八雲御抄」の御著書、藤原定家を判者にされた
「百番自歌合」、これによって定家も順徳院の和歌世界に於ける実力は十分認識されていたと思われ
ますし、後日、定家の意を汲んで、百人一首に父帝と共に、順徳院も続後撰集に採られた健保四年詠の
「百敷きや・・・」の歌で百人一首を締めくくるに相応しい歌人として入られたわけです。
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<大原陵>
洛北大原の里は、京都観光の名所の一つ所となっています。
出町柳からバスで30分、高野川に沿って国道367号線を北上しますと、大原の里に着きます。
バス停から呂川沿いに観光客相手の土産物店が軒を並べて、賑わいを見せています。
高野川の西山には、平家物語縁りの寂光院が、東山麓には三千院を始めとする数寺院(実光院、
勝林院、宝泉院、来迎院など)に囲まれて、後鳥羽院と順徳院の大原陵があります。


(上左)大原小学校・中学校、(上右)三千院前、(下左)熊谷直実縁りの庵藪跡、(下右)勝林院門前
三千院前を通り、律川を渡りますと、西方に向かって左手に後鳥羽院、右手に順徳院の御陵が並んで
います。静寂の地であるべき御陵や寺院の地域も年中訪れる観光客のために賑わいを見せる所に変わって
います。両帝がこの地に永眠されて800年、こんなに多くの人々がひっきりなしに御陵の回り集まって
こようとは、葬られた両院自身思っても見なかったことではないでしょうか。


(上)後鳥羽院の御陵(下)順徳院の御陵
三千院は、伝教大師が比叡山の東堂に始まり、元永年間(1118)堀河天皇の皇子最雲法親王が
入山してから門跡寺院となり、応仁の乱後大原の地に移転してきたとされていますが、山内の往生
極楽院は恵心僧都源信が寛和二年(986)創建された歴史を有しているのです。
嘗て奈良橿原の神武天皇畝傍陵には、国民が挙って参拝した歴史はありますが、社会体制からの
意図的な行事でした。
今大原陵の前を通る人々は、自発的な目的で訪れているわけです。承久年代が遙か遠くなればなるほど
三千院、寂光院の大原の里は人々でにぎわうことでしょう。
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<中古の世界・水無瀬と大原>
京都洛北の地大原の世界は、何時の時代より、都人の関わりの地になったのでしょうか。
現在里の周辺を見渡しますと、江文峠を挟んで西の山里は静原、鞍馬の地であり、東は仰ぎ見る
ばかりの比叡山北嶺が延々と北方へ連なっています。
環境から見ますと、仏教寺院と修行地としての役割が推察されます。
因みに松尾山鞍馬寺は770年、鑑真の高弟鑑禎が開いた現天台宗寺院で、室町時代までの間に、
東の比叡山に相応して、京都の北の護りとして、皇室の篤い信仰を受けています。
比叡山の修行僧も東麓の坂本の里同様、西麓の八瀬さらに北上して大原の里にも修行地として
注目していたはずです。その例としては康平年間(1056〜1065)に大原に隠棲した
良暹法師に見る如くです。
大原の里は、後鳥羽院や順徳院にとって永遠の内裏世界になりました。さらに遡ること約350年前
9世紀終わり頃、すでに在原業平のお仕えした惟喬親王が大原の里に来られています。
「伊勢物語」における惟喬親王と「増鏡」の後鳥羽院には、共通する世界が水無瀬と大原です。
「むかし、水無瀬にかよひ給ひし惟喬の親王、・・・思ひのほかに、御髪おろし給うてけり。
正月にをがみたてまつらむとて、小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し。・・・」
(「伊勢物語」第83段)
惟喬親王は、自ら思い立って小野・大原の地に出家されたのです。
続いて「平家物語」における源平盛衰期を迎え、建礼門院(平徳子)の寂光院への隠棲となり、
鎌倉に於いて源氏一族による幕府時代となりました。
その20年後「増鏡」に於ける都と鎌倉の主導権争いとなり、後鳥羽院父子の無言の中古世界である
大原への帰還となりました。
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平成15年6月7日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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