敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 118 回 *** 第99番・その4 ***
***** 後鳥羽院ー隠岐の島守 *****
目 次
<隠岐の侘び住い>
<隠岐書翰>
<島守の崩御>
百人一首・第99番 人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
<隠岐の侘び住い>
「増鏡第二・新島守」には、次のように隠岐の後鳥羽院のお姿が述べられています。
(引用文は、岡一男訳「古典日本文学全集13/大鏡 増鏡」筑摩書房(昭和41年6月))
承久三年(1221)5月15日、後鳥羽院は京都守護伊賀光秀を討たせ、北条義時追討の宣旨・
院旨を下したものの、6月15日頃、鎌倉幕府に敗れ、北条泰時と時房の軍勢が京都に乱入、7月6日
鳥羽殿へ粗末な網代車に乗って入御、即御剃髪、7月13日「お船にお召しになって遠い八重の潮路を」
隠岐国に赴かれる。新院(順徳院)も佐渡国へお移りになる。
「承久記」には隠岐に下るとき、懐かしい「水無瀬殿を通らせ給ふとて、ここにて有らばやと思し
召されけるこそ、せめての御事なれ。
たちこむる関とはならで水無瀬川霧なほ晴れぬ行く末の空 」
と詠まれた心の内は、いかばかりの悔しさであったでしょう。この和歌には、320年前太宰府に
「我みずくとなりて流れ行く」菅公の心境が明らかに伺えます。後鳥羽院の御気性からすれば、
それこそ心も身も燃えるような悔悟の念に苛まれた事と思われます。
7月27日出雲国大浜湊着。ここで乗船して随伴の者を都に帰して、8月5日隠岐国阿摩郡苅田郷
配所着。(現在の海士町)

隠岐の島は、島根半島から最短距離で43km離れた日本海の沖にあり、島前・島後の四つの主な
島と180の小島からなる面積346平方kmの群島です。
島の歴史は古く、淡路島同様古事記上巻「隠岐之三小島」あるいは日本書紀神代上に「憶岐洲」と
して、伊邪那岐命、伊邪那美命の国生みの神話に登場するのです。
現在では、島根県隠岐郡で三町(西ノ島町、西郷町、海士町)四村(知夫村、布施村、五箇村、
都万村)からなり、環境としては、大山隠岐国立公園内に位置しています。
後鳥羽院の縁りの所は島前・海士町の「後鳥羽上皇行在所址、御火葬塚」などです。
因みに一国一寺の「隠岐国分寺」は、島後の西郷町にあります。
隠岐国分寺の裏山に当たる大満寺山は標高608mあり、島前の焼火神社のある焼火山は452mも
あります。島前の地形は、明らかに名前が示すようにカルデラ湖の変形でしょう。その名残は、国賀海岸、
摩天崖、赤壁などの観光の景勝地に見られます。


(左)国賀海岸(中)摩天崖(右)赤壁の景観
このような断崖絶壁に囲まれた島こそ、罪人の流罪地に適しているわけです。
今を去る780年前、流人搬送用の小舟でこの断崖絶壁の離島に近づいて島影を望んだ後鳥羽院の
心境や如何に。想像を絶する流刑地に思わず身もすくんだことでしょう。しかし、気丈な後鳥羽院の
お気持ちは、逆に負けてなるものか、という気持ちがむらむらと湧いてきたことでしょう。
我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け
「こころして」の解釈は、てごごろを加えてくれ、と取る説もあるようですが、後鳥羽院のお気持ち
からすれば、外部の環境に対して挑んでいるのでなく、自らの心を引き締めるために詠んでいると、
解釈すべきではないでしょうか。
振り返れば四歳で皇位に就かれ、十五年間御在位後、土御門天皇御在位の十二年間、順徳天皇御在位の
十一年間、前後併せて三十八年間、
「この日本の国主として、万機の政事をお心一つで自由になされ、百官を従えられた」事になります。
倒幕という事件のために「都を立ち離れ、御一族が各々散り散りに諸方に流浪し、磯辺の苫葺きの
賤しい漁民の家と軒を並べて暮らされ、自然に訪れるものと言っては入り江に釣りする海士の小舟
ばかりであって塩焼く煙の靡く方を眺められても、我が故郷の京の方向を示すのであるかとのみ、
物思いに耽って日を送られる。」
まさに小野篁の環境や心境と同じであったことを連想させます。
(第24回・その2 参議篁ー遠流の地・隠岐(巻一)参照)
このような侘びしい島生活に於いて唯一の慰めは、後鳥羽院のもっとも得意とする敷島の道であった
のです。
「・・・はるばると見渡せる海の眺望は雄大で、・・・今更らしく感慨が深い。・・・」
これまでの四十数年の人生に於いて、後鳥羽院はこのような海辺の、それも「近江」や「住吉の海」
のような先が見渡せる大海でなく、果てしない水平線の大海原風景は、正に別世界の感を強くしたこと
でしょう。その風景に挑むかのように「・・・潮風のたいそう烈しく吹いて来る音をお聞きになって
先の「新島守」の歌となり、次の「島守の歌」となっています。
同じ世にまたすみのえの月や見む今日こそよそにおきの島守
「・・・海岸から遠く隠岐の方遙か向こうまで一面に霞んでいる空を、じっと眺めこまれ、過去の事を
残るところ無く、お思いだされるにつけても、どうしょうもないお涙だけが止めどなく流れる。
(春の思い)「羨まし永き日かげの春にあひて塩汲むあまも袖やほすらむ」
(夏の心地)「あやめふく萱が軒端に風すぎてしどろにおつる村雨の露」
(秋の心) 「古里を別れ路に生ふる葛の葉の秋はくれどもかへる世も無し」
御母君七条院からのお便りに(あるいは隠岐に渡る舟に乗る際に((吾妻鏡)))
「垂乳根の消えやらで待つ露のみを風よりさきにふかで訪はまし」
敷島の道で懇ろにした臣下従二位藤原家隆には
「波間無きおきの小島のはまびさし久しくなりぬ都へだてて」
御寵妃修明門院には
「限りあればさても堪へける身の憂さよ民の藁屋に軒を並べて」
このように辛くかつ淋しい流罪の地での人生を十九年。遂に渇望しつつ果たせなかった帰京の願いは、
火葬に付された後の延応元年(1239)となってしまいました。
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<隠岐書翰>
隠岐での詠歌の記録は、次のような700首弱に纏められています。
嘉禄二年(1226)4月22日 自歌合せ (20首)(後鳥羽院御集)
嘉禎二年(1236)7月 遠島歌合せ(10首)
遠島百首 (109首)
詠五百首和歌(500首)
その他、承久後百首、「増鏡」中の歌、「夫木和歌抄」所載(12首)など
これらの和歌に加え歌人として興味のある文筆活動は、「後鳥羽院御口伝」の執筆ではないでしょうか。
この著述は、「初心者のために作歌のこころえや近代歌人の作風についての批評・感想を率直に書き
記したもので、院の歌観を端的にうかがわせる点、注目すべき歌論書」です。
後鳥羽院の「初心者詠歌心得七箇条」を繙きますと次のようになります。
1.「万葉集」「古今和歌集」を読むこと
2.百首は、幾度も詠むこと
3.初歩のうちは読む書物に影響されやすい
4.当世の上手の歌をまねやすい
5.難題、結題(二つ以上の事物をつなぐ)を練習すること
6.歌合わせの歌心得
7.当座の会の歌心得
また、最も興味ある内容は、後鳥羽院が関連した当世の優れた歌人16名の人物評とその和歌世界の
評価を展開している点でしょう。その人物群は、「御口伝」に出てくる順に、次のようになっています。
季経 (藤原季経)六条藤家顕輔男(藤原清輔の異母弟)(1131〜1221)
寂蓮 (寂蓮法師)百人一首87番歌人
定家 (藤原定家)百人一首97番歌人
故中御門摂政(藤原良経)後京極摂政太政大臣百人一首91番歌人
釈阿 (藤原俊成)百人一首83番歌人
経信 (源経信) 百人一首71番歌人
俊頼 (源俊頼) 百人一首75番歌人
西行 (西行法師)百人一首86番歌人
俊恵 (俊恵法師)百人一首85番歌人
清輔 (藤原清輔)百人一首84番歌人
大炊御門前斎院(式子内親王)百人一首89番歌人
吉水大僧正(慈鎮和尚)前大僧正慈円百人一首95番歌人
家隆 (藤原家隆)百人一首98番歌人
雅経 (藤原雅経)百人一首94番歌人
秀能 (藤原秀能)河内守秀宗男(正治元年後鳥羽院の北面となる)(1184〜1240)
丹後 (源頼行女)二条院讃岐の従姉妹に当たる。(異浦の丹後と呼ばれた)
以上「御口伝」に言及されている16名の歌人の内、13名までが定家選定の「百人一首歌人」と
なっていますから、当世の優れた歌人観は、定家の考えとよく似通っていたことがわかります。
此の「御口伝」で最も詳細に且つ長文(全文の約三割近く)にて評価されている人物が藤原定家卿
です。都にて後鳥羽院の歌の世界に引き入れて仲間としえなかった定家に何らかの拘りが生涯延々と
持ち続けていたのではないかと思われるような「執拗な」評言が綴られています。
定家卿に対する人物評は、
「・・・惣じて彼卿が歌のすがた、殊勝のものなれども、人のまねぶべき風情にあらず」
(卓抜な歌人と認めつつ、初心者の範にはなりがたい)
と、誠に複雑に曲折した言及になっています。
「後鳥羽院御口伝」とともに、隠岐の生活で書き残された書き物の中で坊門家に関係した遺書は、
生々しい後鳥羽院のお姿とお気持ちが伝わってくるものです。
水無瀬神宮には、本当に遺書になったと思われる手形付の後鳥羽院の手紙が残されているのです。
これは、暦仁二年(1239年、2月7日に改元して延応元年となる)二月九日付けのもので、
この日付は、崩御の二週間前に当たります。

後鳥羽法皇御置文(水無瀬神宮文書)
内容は、藤原(坊門)信成・親成父子に送った置文(国宝)で、島での流罪生活も十九年に及び
病を得て、先がないと見た後鳥羽院は、両名に対して、水無瀬・井口両庄を領有して自分の後世を
くれぐれも弔うよいに命じ、朱印手形を押しているのです。
そして延応元年二月二十二日、「遠島の新島守」は、多難な人生を閉じたのです。
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<島守の崩御>
「この隠岐の海辺にお住まいあそばしてから、十九年ばかり経ったあとであったろうか、延応元年と
いう二月二十二日、御六十歳でお崩れなさった。」

後鳥羽天皇御火葬塚
御遺灰は、この地に埋葬されている。
少し奥まったところに行宮の源福寺跡あり。
「お住まい近くの山で、慣例の通りの儀式で、御荼毘に付し申し上げる時も、非常に奉仕者が少なく、
心細いおん有様で、・・・お骨を、能茂という・・・北面の武士で、承久の乱後、・・・隠岐まで
御伴してきていたのが、自分の首にお掛け申して、京に上った。」
京の郊外大原の里での父子の再会は後述(第120回 順徳院ー父子再会の大原、参照方)します。
後鳥羽院が島を去ったあと、地元の旧家村上家が御火葬塚その他、後鳥羽院の後世をお守りし、
近年、昭和の時代になってから、「隠岐神社」が建立されました。

村上家門前、村上家は、海士の豪族で後鳥羽上皇に忠勤を励み、
上皇亡き後、現在まで代々お墓守を勤めてきた家柄です。

隠岐神社は、祭神を後鳥羽上皇として、昭和14年700年祭を期して
御火葬塚の隣りに造営された。境内は桜の名所で、4月14日は、例大祭で
賑わう。
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平成15年5月30日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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