敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 117 回 *** 第99番・その3 ***
***** 後鳥羽院ー和歌と諸芸の道 *****
目 次
<諸芸百般>
<新古今和歌集>
<参考メモ・有職故実>
百人一首・第99番 人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
<諸芸百般>
第116回に見ましたように後鳥羽院は、各御所巡回する御幸で外出する日以外の日は、
院御所にて、遊楽の道を尽くされ、その道の人々をもり立てる役目を果たされたことになります。
もっとも得意とする敷島の道は当然として、文芸の道でも作文会、連歌会にまで範囲を広げ、さらには
手足と体を動かす管弦(琵琶、笛、箏など)から、今様、白拍子、猿楽となり、気晴らしの雑見物と
しかいいようがない競馬、闘鶏、犬追物(後述の参考メモ・有職故実参照)、笠懸(同左)、相撲の
世界まで、見る対象を拡大しています。挙げ句の果ては、自らも楽しんだと思われる狩猟、蹴鞠、水練
にも及びます。
蹴鞠については天皇在位時代よりお好みであったようで、建久七年(1196)11月1日蹴鞠を
行い、建久八年(1197)1月25,26日に蹴鞠の名手藤原雅経(百人一首第94番歌人)を
鎌倉から呼び返してまで蹴鞠会を催しているほどです。
諸芸の道はこれに留まらず、有職故実(後述参考メモ)はもちろんのこと、刀剣鑑定、鍛刀、はてさて
囲碁の石打ちまで手を伸ばしておられます。
「増鏡」に引用されている後鳥羽院の有職故実に関わった逸話を一、二添えておきます。
(出典:古典日本文学全集13/岡一夫訳「大鏡」「増鏡」筑摩書房(昭和41年4月刊))
「・・・水無瀬の離宮にばかりおいでに成られれて、事や笛の音につけ、花の折、紅葉の時に
つけて、いろいろな遊楽をばかりあらんかぎりなされて、至極ご満足のご様子でお過ごし
なさる。・・・」
「・・・御碁をお打ちになさるついでに、若き殿上人達をお呼び寄せになって、あれこれと
各自の好みに従っていろいろな競技をおさせになる。・・・」
興が昂じて賭の物を出そうということになり、周りの人に何かと準備させたところ、小さい
唐櫃にはいった銭が準備され、お使いの殿上人は余りに下賤な物に恐縮したところ、後鳥羽院は、
「昔から殿上の賭弓というのは、銭を賭物にした。」だから、銭の準備で、妥当であると故実を
基に判断を下した、ということです。
「・・・何事にも造詣深く、お心も華奢で物事に精通していらした。夏じぶん、水無瀬の離宮の
地に望んでいる釣殿にでさせられて、氷水をお取り寄せになり、・・・」
源氏物語常夏の巻の一節(下注)に言及したところ、それを傍らで伺っていた御随身のひとりが池の
汀にある笹を少し敷いてその上に白米を水に洗ったのを載せて奉ったところ、後鳥羽院は、また
早速源氏物語帚木の巻のとある一節(下注)に次のように言い及んだのです。
「これは、源氏物語の帚木の巻の「拾はば消えなむと見ゆる玉笹の上の霰」と言う句を踏まえた
つもりか。いや、これも味をやったな!」
それほどの古典の故事に通じ、才気煥発であられたわけです。
(常夏の巻より)炎暑の日に源氏は東の釣殿へ出て涼んでいた。・・・桂川の鮎、加茂川の石臥
などと言うような魚を見る前で調理させて賞味するのであった・・・氷の水、水飯などを
若い人は皆大騒ぎして食べた。・・・」
(出典:与謝野晶子訳「全訳源氏物語・中巻」角川文庫852より)
(帚木の巻より)「・・・御心のままに、折らば落ちぬべき萩の露、「拾はば消えなむ」と
見ゆる、玉笹の上の霰などの、艶に、あえかなるすきずきしさのみこそ、おかしく
おぼさるらめ。・・・」(出典:山岸徳平校注「源氏物語(一)」岩波文庫30−015−1より)
この部分は、源氏物語の巻二に当たる帚木の巻全文の丁度三分の一ぐらい進んだ所に当たり
ます。しかしそれにしても、後鳥羽院は、良くこんな細かい源氏物語の一場面まで、覚えて
いて、現実の生活の目の前の場面でサッと連想して、引用してくる事でしょうか。これは、
源氏物語を全文完全に頭にたたき込んでおかないと出来ない芸当です。源氏物語を何回も
愛読して、自分の記憶に畳み込んでいるのでしょう。
当時の人にとっては、小説と言っても現在のように溢れかえり、且つ簡単に手に入る物で
なかっただけに大変な努力をして、読書したわけです。だからこそ、貴重な物語を大切にして
何度も何度も読んで楽しんだのかもしれません。
それに引き替え、現在の小説世界は、何と恵まれた文学世界である一方、あまりにもその対象
文学量が多いためにかえって何の感動も記憶も所有できていないことに茫然とします。
後鳥羽院は、正に「文字通りの書芸百般の風流人」で、後世の「数奇」と「かぶき」を併せ持った
御仁といえましょう。後鳥羽院が現世に居られたら、パソコンにこってエレキギターを演奏して、
カラオケを歌い、ディスコに出かけ、ジェット機を操縦して、自動車レースに出たかと思うと、
冬山登山に出かけ、Jリーグサッカーの名誉会長などを務め、チェロを嗜む身で夜はコンサートに
耳を傾け、ワインの利き酒をして、ダンスに興じるといった行動に出たのではないでしょうか。
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<新古今和歌集>
「・・・また天皇はありとある学芸の道に通じておいでになるので、自然朝野に学兵に秀でた
士女が多く簇出し、古の聖代に恥じない、盛んなる御代であった。就中和歌のに卓越して
いらした。御製数多く人口に膾炙している中にも、
奥山のおどろ(荊棘)の下を踏み分けて道ある世とぞ人に知らせむ
とございますのは、政事を大切に思し召された御様が、はっきりうかがえて、たいへん尊く
思われることであります。・・・」
(出典:古典日本文学全集13/岡一夫訳「大鏡」「増鏡」筑摩書房(昭和41年4月刊))
歌人としての後鳥羽院が私家集約1770首および中古和歌世界の総決算たる「新古今和歌集」を
編纂するにいたる駆け始めは、上皇としての三年目に当たる正治二年(1200)中頃21才の時と
見られています。それから隠岐に没する延応元年(1239)(60才)まで、40年間手を下した
諸芸の道でも最後まで人生の伴としたのは「敷島の道」であったのです。
後鳥羽院は、新古今和歌集撰集を下命し、自らも精選することによって、自らの和歌道の総仕上げと
すべく、全力を投入した感があります。
新古今和歌集の要点を岩波文庫本(佐佐木信綱校訂版)解説より抜粋しておきます。
下命年月 後鳥羽上皇勅命 土御門天皇建仁元年(1201)十一月三日
完了竟宴 元久二年(1205)三月二十七日 (編修期間三年五ヶ月)
撰 者 源 道具 藤原有家 藤原定家 藤原家隆 藤原雅経 寂蓮法師(八ヶ月)
撰出方針 八代集の締めくくりとして後世に問うべき一大歌集を目指した。
(1)万葉集からは、古今集以下七代集ですでに選ばれたものを除き歌集その他から採る。
(2)後鳥羽上皇始め五人の選者の歌を含め、当時の歌人の歌を多く採った。
(3)後京極摂政良経が統括者として選歌の助言や注意を与えるとともに、
後鳥羽院も修正を命じた。そのたびに切り接ぎ作業をした。
構 成 巻数 二十巻
部立 春、夏、秋、冬、賀、哀傷、離別、覊旅、恋、雑、神祇、釈教
歌数 1979首(八代集中最多)
仮名序 藤原良経
漢文序 藤原親経(摂政良経の命による)
新古今和歌集に後鳥羽院が如何に熱心に和歌心を傾けたかはご自身の数度に渡る修正作業経過を
見ても分かります。
第一次撰 元久二年(1205)3月27日
第二次本 承元三年(1209)6月19日 書写
第三次本 承元四年(1210)4月25日 披露
第四次本 健保四年(1216)12月26日家長識語を付す。
隠 岐本 承久三年(1221)以降
新古今集が初めて2000首近い全貌を見せた元久二年(1205)は、八代集の初代古今和歌集の
完成延喜五年(905)から奇しくも丁度300年の節目と言うことになります。
佐佐木信綱氏の言を借りますと、
「和歌の歴史を過観するに、光輝かしい黄金時代は、前に万葉集時代、後に新古今集時代である。
古今集時代は、この見地よりすれば、万葉・新古今両時代の連鎖である。」
と言うことになるわけです。
後鳥羽院は、新古今和歌集に自らの歌を34首選定されましたが、その中から、「後鳥羽院新古今
和歌歌枕世界」を拾い上げてみましょう。
2番 「ほのぼのと春こそ空に来にけらし 天の香具山 かすみたなびく」
18番 「鶯の鳴けども未だ降る雪に杉の葉しろき あふさかの関」
36番 「見渡せば山本霞む 水無瀬川 夕べは秋となにおもひけむ」
133番 「みよし野の 高嶺の桜散りにけり嵐もしろき春のあけぼの」
526番 「鈴鹿川 ふかき木の葉に日かずへて山田の原の時雨をぞきく」
636番 「橋姫のかたしき衣さむしろに待つ夜むなしき 宇治の あけぼの」
1908番 「熊野川 くだす早瀬のみなれ棹さすがみなれぬ浪のかよひ路」
これら7首の歌枕付和歌の中から133,526,636番歌は、次のような背景を持った曰く付の
3首です。すなわち新古今集が一応の完成を見てから、2年8ヶ月後、承元元年(1207、院28才)
後鳥羽院は、最勝四天王院名所障子和歌を5月に著名な諸歌人に下命し、11月に完成しています。
これらの和歌は「春日野」から「塩竈」にいたる46ヶ所の名所を詠んだもので、担当した歌人と
しては、院自身を始めとして、慈円大僧正他10名の歌人の詠みとなっているのです。
(注)前回116回(その1)歌枕参照。
これら46首の和歌からさらに13首が撰出され、新古今集に切り入れられました。後鳥羽院の
上記3首がそれらの歌の一部に当たるというわけです。
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<参考メモ・有職故実>
鎌倉時代から室町時代にかけて武士の必須武芸として「馬上の三物」として、「流鏑馬」「笠懸」
「犬追物」が三物(みつもの)とされました。
「流鏑馬」「笠懸」 武士の馬上射技鍛錬の一種で、射手の笠を的として懸けもの。
「流鏑馬」が式次第も厳重に儀式化されているのに対して、
「笠懸」は、総体に略儀で、余興の意図で遠距離の的を射る競技のこと。
「犬追物」 騎馬で走狗を追い物射する武芸。寿永元年(1182)以来まず、牛追物が
興行として認められ、「犬追物」は、貞応元年(1222)以来盛んに行わ
れるようになり、室町時代には、大規模な催し物になったとのこと。

(左)笠懸(右)犬追物(出典:いずれも「国史大事典」吉川弘文館より抜粋)
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平成15年5月26日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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