敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 116 回  *** 第99番・その2 ***
*****  後鳥羽院ー鳥羽殿 *****

目    次
<御歴覧の各所> <鳥羽離宮> <鳥羽・伏見の歴史的位置>

百人一首・第99番 人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は


<御歴覧の各所>

  後鳥羽院(第八十代高倉天皇第四皇子尊成親王)は、治承四年(1180)7月14日生まれで、
先帝安徳天皇が寿永二年(1183)三種の神器と共に西海に没し、祖父後白河法皇の意を得て、

 ◆寿永二年(1183)8月20日 閑院殿にて践祚(第82代天皇に即位)

その在位は、16年間に及びました。この間公的な行幸は次の二件ほどであったようです。

 ◆建久六年(1195)3月12日 東大寺造立供養(母七条院と臨席、源頼朝も同席している)
 ◆建久七年(1196)11月5日 賀茂神社参詣 

 後鳥羽院の特筆すべき人生とは、

 ◆建久九年(1198)1月11日 皇子為仁親王を皇太子として譲位

以降の土御門天皇治世における「後鳥羽上皇」にあるわけです。16年間政務に熱心に取り進めてきた
後、国務という肩の荷を降ろすことが出来た後鳥羽院は、早や翌日の正月十二日から、院御所で蹴鞠を
行い、二十一日には上皇として初めて母七条院の三条邸を訪問しまさに「活き活きとした人間的
後鳥羽院」が動き出しました。御在位の間の天皇の姿は「仮の姿」、上皇が「素顔の姿」なのでしょう。

 後年敷島の道に於いて確執を争うことになる臣下藤原定家の「明月記」正月二十七日条に、次の
ように後鳥羽院の新しい行動に言及しています。

 「・・・太上皇密密女車に乗りおはしまし、最勝光院におはしますと。此の一所にに限らず、近日
  京中ならびに辺地を日夜御歴覧。・・・」

 (注)最勝光院とは、後白河法皇御所で、法住寺殿付属御所の一つ、建春門院御願として三十三間堂
    南東、今熊野神社西方に承安二年(1172)上棟、宇治平等院鳳凰堂形式をならったもの。
    九条兼実が額字、障子色紙形字を記したと「玉葉」に記しているが、嘉禄二年(1226)
    焼亡。

 建久九年1月27日以降の「日夜御歴覧」とは、具体的には次のような所への御幸で、現在の「京都
観光地巡回」の感がします。
  (出典:樋口芳麻呂「王朝歌人10・後鳥羽院」集英社(1985年1月))

  2月 3日 殷富門院御所 (後白河院第一皇女亮子内親王、安徳天皇・後鳥羽院准母)
  2月 6日 法輪寺    (嵐山虚空蔵山町真言宗五智教団寺院、嵯峨虚空蔵、智福山
               (後陽成天皇下賜)、和銅六年(713)元明天皇勅願、
                行基開創、空海弟子道昌再興、貞観十六年(874)諸堂宇建立)
  2月14日 石清水八幡宮
  2月15日 鳥羽殿
  2月26日 賀茂社、最勝寺(岡崎最勝寺町にあった六勝寺の一寺、法勝寺(東)尊勝寺(西)
                円勝寺(南)に囲まれていた。鳥羽天皇御願、元永元年(1118)
                金堂・薬師堂供養、保安三年(1122)その他堂宇潅頂
                正和三年(1314)焼失。)
  2月27日 鳥羽殿 
  3月15日 日吉社
  4月24日 七条院
  5月14日 鳥羽殿
  7月28日 宇治平等院
  8月16日 熊野     (第一回御幸にあたり、その後合計27回に及ぶ。熊野詣でとしては、
                後白河院の29度に匹敵する。)
                              (熊野詣では、行尊の項参照)
 10月15日 西山開田院
 10月20日 日吉社
 10月28日 鳥羽殿 

 建永元年(1206)8月15日鳥羽殿御幸時のお歌例

 「いにしへもこころのままにみし月のあとをたずぬる秋の池水」(続後撰集巻20・賀歌)

 御歴覧の中で現存する寺院は、法輪寺、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社、宇治平等院、熊野などですが、
後鳥羽院がお好みで何度も出かけられた「鳥羽殿」は、既に歴史の彼方へ去ってしまいました。
 (鳥羽殿については、次節に言及します。)
    
 さらには都の中では、祇園、吉田、北野、平野、今熊野、さらに都近郊に足を伸ばして、松尾、住吉、
稲荷などの諸社へも出かけ、法勝寺、成勝寺、行願寺、釈迦堂、清水寺、醍醐三宝院、などの諸寺へ、
また奈良、高野への参詣も盛んに御幸されたとのこと。

 (注)六勝寺と白河法皇の院政
    法勝寺や成勝寺は、十一世紀の終わりから白河法皇を始めとして、すこしづつ造営を重ねて
    いった白川の地の六大寺院群で、次のようになっていました。
    「法勝寺」白河上皇(1072〜86)氏長者藤原師実の土地寄進。(現京都市動物園)
    「尊勝寺」堀河天皇(1086〜1107)(現京都会館・勧業館)  
    「最勝寺」鳥羽天皇(1107〜1123)(現平安神宮南岡崎公園)
    「円勝寺」待賢門院璋子(1101〜1145)(現京都市立美術館)
    「成勝寺」崇徳天皇(1123〜1141)(現国立近代美術館)
    「延勝寺」近衛天皇(1141〜1165)(疎水西側の寺院地区)

(左)岡崎地区の六勝寺周辺推定位置(出典:「図説京都府の歴史」河出書房新社(1994年7月))
(右)六勝寺の想像図(出典:TOKYOシーサイドフェスタ96「甦る平安京」(株)東京テレポートセンター)

(左)成勝寺址石碑(右)円勝寺址石碑

(左)最勝寺南門築地址説明板(右)その築地基礎部
 続いて上皇二年目の正治元年(1199)には、さらに行動が活発になり、その範囲は次のように
当時の天皇家が関係する御所全てを網羅するように修理あるいは新造したりの日課となっています。
 大内裏での関係殿屋としては、次のような諸殿です。

 二条殿、京極殿、春日殿、五辻殿、最勝四天王院、岡崎殿、押小路殿
 三条坊門殿、西七条殿、冷泉万里小路殿、七条院御所、神泉苑など

 都の周辺としては、次のような所です。

 鳥羽殿、水無瀬殿、高陽殿、宇治殿

 とにかく後鳥羽院の中に二十年間溜まっていた精神面での行動性の扉が一挙に開かれた感があります。
思う存分に自ら尋ねたいと思っていた所へ気の向くまま、足を運んだというところです。
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<鳥羽離宮>

  十一世紀になると道長で頂点を極めた藤原貴族の繁栄もかげりが見え始め、代わって天皇勢力が
勢いを増して行きました。
 白河天皇は、僅か八歳の皇太子(堀河天皇)に譲位され、自ら上皇の位置について、いわゆる
「院政」を始めました。院政の中心が、内裏の東鴨川の左岸一帯の白河と、朱雀大路の延長上の
南部鳥羽の地であったのです。

鳥羽殿の位置と現在の安楽寿院山門、および「院政」記念碑
 応徳三年(1086)七月頃から鳥羽の地に白河天皇による離宮の造営が開始されました。
 このきっかけになったのは、受領級の藤原季綱がその所領を天皇に寄進したことに依るのです。
  鳥羽殿は白河・鳥羽・後白河法皇三代に渡る院政の中心になったところです。元の境内に当たる
現在の安楽寿院の周辺には、白河天皇陵、鳥羽天皇陵、近衛天皇陵があります。

白河天皇陵、鳥羽天皇陵、近衛天皇陵
 鳥羽の地域は、鴨川と桂川が合流する池沼の地で都の居住地域としては、適していなくても
離宮造営には、風光明媚な土地柄であったのでしょう。早くから貴族の別業が多く営まれていました。
そこへ、白河法皇が「鳥羽殿」を造営したわけです。

鳥羽離宮殿舎 <鳥羽離宮の歴史>
鴨川と桂川の合流点に位置し、
鳥羽一帯は水郷の地であった。
平安初期宮廷人の狩猟や遊楽の適地で、
9世紀末から10世紀初め、
藤原時平は別業「城南水閣」を営む。
11世紀に藤原季綱が山荘を営む。
その地を白河天皇に献上。
<御所とその御堂名>
南殿(証金剛院)(1086)鳥羽殿のはじめ。
北殿(勝光明院)(1088)
泉殿(成菩薩院)(1092)
東殿(安楽寿院)鳥羽上皇御所造営。
田中殿(金剛心院)造営時期不明。
名神高速道路建設工事に伴う発掘調査
昭和35年〜昭和60年(120次)
御所御堂庭園などを確認している。


金剛心院・釈迦堂・寝殿跡、それらの二重廊下、園池址の発掘現場上空写真
(出典:「国史大事典」吉川弘文館)



鳥羽殿の想定絵図

(左)安楽寿院の御所と御堂の想定図(右)北殿と勝光明院の想定図

現在の鳥羽上空写真(中央左:鳥羽離宮公園の秋の山・城南宮・安楽寿院)
(出典:「図説京都府の歴史」河出書房(1994年7月))
 鳥羽殿の面影は、いまや僅かに鳥羽離宮公園内の秋の山あるいは、周辺の天皇御陵その他で、
偲ぶだけの世界になってしまいました。
 鳥羽の現在の世界は、周辺を名神高速道のインターチェンジと国道一号線さらには、その東側を
近鉄電車が走る騒然たる京都南部地域になっているのです。辛うじて石碑群が嘗ての面影をなんとか
維持しているという状態です。白河法皇、後白河方法、共に日本歴史の中にあって最大の権力を
維持した天皇であり、時代を代表する人物であったわけですが、御三方の永眠の地がこのように
喧しいところになり果てていることに対して、どのような感慨をあの世で持たれているのでしょうか。
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<鳥羽の歴史的位置>

 鳥羽の地域が日本歴史上に登場する機会は、大きく分けて2回見られます。
 その最初は、白河天皇や鳥羽天皇の院政時代に於ける上皇の御所としての鳥羽殿です。
 お二人の上皇は頻度繁く、鳥羽殿へ臨幸して流鏑馬や競馬を天覧されたとのこと。

 後白河法皇は、俄に勢力を伸ばしてきた平氏一門平清盛によって鳥羽殿の押し込められるという
事態もありました。
 平家物語・巻三「法皇被流」では、
 「・・・院御所法住寺殿には軍兵四面を打ち囲む。・・・宗盛卿「・・・世を静めん程、
  鳥羽殿へ、御幸成り参らせんと、父入道申し候。」
 続いて「城南離宮」では、
 「・・・法皇は城南の離宮にして、冬も半ば過ごさせ給へば、野山の嵐の音のみ烈しくて、
  寒庭の月の光ぞさやけき。・・・」

 後鳥羽上皇の時代には、歌会・舞楽の宴・城南寺競馬などいろいろな催し物をなされ、さらには、
「城南寺の流鏑馬」を名目に鎌倉幕府打倒の企てを執られ、承久三年(1221)の「北条義時追討
院宣」に持っていったとされています。

  鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 与謝蕪村

 後鳥羽院の追討院宣は、5月に発せられましたが、蕪村の俳句は、その面影を連想させるに足る
名句と言えましょう。

 承久の変によって後鳥羽院が破れ、鳥羽殿に移されました。更にここから隠岐へ配流の途につかれた
わけです。それからの鳥羽殿へは、後鳥羽院のお孫さんに当たる後嵯峨院あるいは、その後を継いだ
後深草天皇も鳥羽離宮に御幸になることが多かったようですが、もはや離宮としての面影は急速に
凋落していったようです。
 特に中世の戦乱の世の中にあっては、兵火にあって廃滅の一途を辿ったのです。

 その鳥羽離宮が再度注目されるのは、19世紀半ばの明治維新前夜です。
 孝明天皇は、諸外国の圧力がかかり始める騒然たる世情の中、攘夷祈願のために石清水八幡宮行幸時、
城南宮を参詣され、鳥羽殿の周辺が、再び注目され始めました。そして日本歴史の舞台に再登場するのは、
近代日本幕開け明治維新前夜となった戊辰戦争の始まり「鳥羽伏見の戦い」の戦場でした。

 慶応四年(1868)正月三日、伏見でにらみ合っていた薩摩藩と會津藩の間で戦闘が開始され
ました。薩摩藩・長州藩を中心とした「倒幕軍」と會津藩・桑名藩を中心とした幕軍の間での鳥羽・
伏見に展開した戦いは、その3日後に大坂城に陣取っていた徳川慶喜が江戸城へ逃げ帰ることにより、
続いての「慶喜追討令」により、あっけなく、幕軍の敗戦となりました。
 これに口火を切った戊辰戦争は、一年半後の明治二年(1869)5月五稜郭の戦いまで続きました。
新日本に生まれ変わる正に「産みの苦しみ」を日本民族は味わったのです。

 かっての鳥羽離宮は、東殿の一部である安楽寿院、城南宮、三天皇陵、それに離宮の築山であった
秋の山(鳥羽南殿域)を中心とした「鳥羽離宮址公園」を残すのみとなり、秋の山の丘上に明治45年
有志によって建立された「鳥羽伏見戦跡碑」が建っています。

 後鳥羽院の華やかな宮廷を思い起こさせるものとして、城南宮では、毎年4月29日、11月3日に
本殿横の庭園内遣り水辺りで「曲水の宴」が雅やかに行われています。

  (出典:京都新聞・平成15年4月30日付け)
 (注)城南宮の「曲水の宴」関連ホームページを紹介しておきます。
    http://www.asahi-net.or.jp/~nt6k-sghr/k_scene/jonangu/jonangu.htm

 現在では、この宴は九州太宰府その他の各地で行われているようです。

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平成15年5月21日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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