敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 112 回 *** 第95番・その2 ***
***** 前大僧正慈円ー我が立つ杣 *****
目 次
<霊地観光>
<延暦寺の構成>
<世界文化遺産>
百人一首・第95番 おほけなくうきよのたみをおほふかなわが立つ杣に墨染めの袖
<霊地観光>
関白藤原忠通の子息で九條兼実の弟として生まれた慈円大僧正は、11歳で比叡山に入山したのは、
1156年で、開創最澄が延暦寺を開山(788)してから370年ほど経過した時期です。
生涯に4度も天台座主に就任したほどの人望のある貴族であり、又歌人であったわけです。
現在比叡山の堂宇は慈円大僧正が座主に就いていた頃とは比較にならない程規模が小さくなって
いるとはいえ、1200年以上の歴史を受け継いでいるのです。

最澄像(左)観音寺蔵の木彫像(右)一乗寺蔵の画像
昔は徒歩で登るしかなかった比叡山も現在では、いろいろな方法でいろいろな方面から山頂を
目指すことが出来ます。
京都側からは、叡山電鉄が西麓まで取り付いていて、そこからケーブルとロープウェイを乗り継ぐ
ことによって山頂の四明ヶ嶽近くまで一気に登り詰めることが出来ます。


一方、東の琵琶湖側からは、京阪電鉄が東麓の坂本に辿り着いて、ケーブルにて延暦寺近くの
無動寺まで運び揚げてくれます。南海電鉄が高野山の麓まで客を運ぶようになっているに同じです。
自動車の場合は、北方の峰伝いにあるいは南方の山中越えの峠から峰伝いに山頂に行き着くことが
出来ます。何れの場合も殆ど徒歩の労無くして、比叡山に参詣することが出来るわけですから、
昔のように半日がかりで、苦労して登り詰めた上での「根本中道へのお参りの有り難さ」は、半分に
満たないでしょう。昔も今も比叡山に登りたい人は同じでもお参りの気持ちの充実感はかなり差が
あるように思います。

京の都の中からの比叡山は、誠に美しい山陵を空に描いています。平安京の人々が眺めた比叡山は、
現在も全く同じ山の形(スカイライン)を描いているのですが、山上の比叡山そのものは、時代と共に
様々な変貌を遂げてきました。寺院の構成も、お勤めしている僧侶はじめ寺院関係者の環境も変わって
きているわけです。
郊外電車、ケーブルカー、ロープウェイ、自動車あるいはバスで団体で参詣に来る比叡山の
「お客さま」は、その殆どが京都見物あるいは奈良の古都見物の一環として、「巡礼」している人々です。
人々の信仰の深さとは、関係無しに平成現代の日本では、伝教大師さまの霊山としての観光知的価値の
方が宗教的価値を上回っているのです。比叡山の寺院周辺もそれに連れて単なる宗教上の聖地だけでは
人々を招き寄せることが出来ないため、宗教以外の人寄せ企画としての「娯楽興業」を取り込んで
います。それは遊園地であったり、人口スキー場であったり、はたまたドライブウェイとレストランで
あったりと、多方面の「この世の遊興」が御大師さまの傍らで渦巻いているのです。
百年前までは兎も角、特にここ50年ほどの間に急に霊山もいわゆる俗化した世界に降りてきたと
言うより、俗世間が比叡山の上まで迫ってきていると言った方がいいでしょうか。
最澄が存命でこの現実を眺めたら、どのような嘆慨を漏らされたことでしょうか。意外に、このような
庶民との近づきを喜んでおられたかもしれません。
前大僧正慈円のときは、庶民の文化レベルがとても現代とは比べものにならないほど無知であった
ため、僧侶の側から、庶民に近づいていかねばならなかったのでしょう。したがって慈円の詠む
「憂き世の民をおほふかな」という気概になるのでしょう。
現代の庶民の霊山巡拝の足である「ロープウェイ」の山頂駅からは、西の方角に京の市街地を一望の
下に捉えることが出来ます。
京都の町も少しづつ山手の方に拡大して、比叡山の西の麓である修学院や岩倉地区の民家もかなり
増え、宅地開発の動きは、北山の緑を山土むき出しの平地に変えつつあります。

比叡山ロープウェイ・山頂駅から見た北山岩倉地区方面
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<延暦寺の構成>

比叡山の概略地図

根本中堂
| 地区名 | 堂宇名 | 概 要 |
| 東塔 | 根本中堂 |
一乗止観院・根本大乗止観院、
788年最澄が自作薬師仏を安置した薬師堂、
末代不滅の法灯を灯す。国宝。 |
| 大講堂 | 824年義真和尚が学問修行道場に建立。 |
| 戒壇院 | 828年最澄の遺志を継ぎ義真和尚が完成。
大乗戒を受ける日本最初又唯一の道場。本尊は釈迦如来。 |
| 阿弥陀堂 | 1937年滅罪回向道場として全国壇信徒の霊位を安置。 |
| 文殊楼 | 866年慈覚大師円仁の創建、文殊菩薩を安置。 |
| 山王院 | 最澄創建、智証大師円珍の常住堂。本尊は千手観音菩薩。 |
| 法華総持院東塔 | 慈覚大師創建の法華総持院を1980年再建。潅頂受戒道場。 |
| 浄土院 | 最澄の廟所、慈覚大師建立。 |
| 西塔 | 釈迦堂 | 転法輪堂、寂光大師円澄が創建。
本尊は最澄作釈迦如来。1595年園城寺金堂を移築。山上に現存する最古の建造物。 |
| 法華堂 | 弁慶の担い堂。825年創建。本尊は普賢菩薩。法華三昧修行道場。 |
| 常行堂 | 893年創建。本尊は阿弥陀如来。常行三昧の修行道場。 |
相輪棠 (そうりんどう) | 青銅製の相輪(約10m)が立つ。820年最澄創建。
法華経、大日経を収蔵。 |
| 瑠璃堂 | 入母屋造り三間四方の小堂。織田信長焼き討ちを免れた
唯一の室町末期唐様建造物。 |
| 横川 | 横川中堂 | 848年慈覚大師開創。
首楞厳院(しゅりょうごんいん) |
| 如法塔 | 根本如法堂、天長年間(824〜34)慈覚大師が写経を納めた多宝塔 |
| 元三大師堂 | 慈慧大師(元三大師)良源の住房、大師信仰の根本道場。 | >
| 恵心院 | 浄土思想の祖恵心僧都源信が住し、念仏三昧行を行った。 |

根本中堂

(左)釈迦堂(右)横川中堂
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<世界文化遺産>
比叡山は平成7年(1995年)世界的な文化活動団体ユネスコ(UNESCO)より世界文化遺産
の認定を受け、登録されました。これで比叡山は、日本人の宗教的遺産より世界的な人類の文化遺産に
価値評価が高くなったわけです。ますますもって、後世へ大切に伝承していく義務が日本民族に課せ
られたと見なければいけません。

(左)根本中堂(右)文殊堂前から根本中堂

(左)大講堂(右)法華総持院
比叡山延暦寺が世界の人々から人類共通の遺産であると認められた一方で、同じ日本の中で、一部の
異常な邪教としか言いようのない殺人宗教集団が暴れ回り、世間を恐怖の世界に引きずり込もうと
しました。同じ日本人でありながら、かくも極端な挙動で特徴付けられる民族とは一体何者なので
しょうか。
それぞれその時代を反映している社会現象といってしまえばそれまででしょうが、叡山に11歳で
入山し、14歳で仏道に帰依し、4度も天台座主に就任し、僧界や民衆の先頭に立って時代を先導した
慈円から見たこれらの異常な末裔の乱れた世の中をどのように嘆いていることでしょう。
因みに慈円は、縁の深い無動寺に葬られました。また彼の百人一首歌の歌碑は根本中堂前の文殊楼に
平成12年有志により建立されました。

「慈鎮和尚塔」(滋賀県大津市比叡山中)

(左)文殊楼(中)慈円歌碑(右)碑文
詳細は、TSUZUKI氏の「百人一首歌碑」をご覧下さい。
(参考メモ)平成時代の宗教法人実態
平成7年地下鉄サリン事件で無差別大量殺人暴挙を行ったオウム真理教以降
宗教法人数は減る傾向にあるとは言いながら、それでも日本宗教法人数は、
183,617(平成9年統計)も登録されているのです。
日本は欧米社会と違って日常生活での宗教的行動がほとんどない一方で、宗教団体と
いう面から見ますと、世界のありとあらゆる宗教活動の溜まり場のようになっている
のかもしれません。
世界の三大宗教である仏教、キリスト教、イスラム教がそれぞれに日本国内で
活動しているようですし、さらに過去15年間では、毎年100前後の法人が
誕生していたようですから、宗教に関心が無く、無宗教民族といわれている状態とは
正反対の状況です。
これと言った確たる宗教が一般民衆に幅広く根付いていないため、かえって
いろいろな宗教活動や団体行動が取りやすいのかも知れません。
仏教という1500年以上の歴史を持った宗教がありながら、仏教は旧弊に包まれた
難しい言動で、かつ形式的な宗教様式のため、一般大衆にはなかなかなじめない
遊離した宗教であり、日本人自身が入り込んでいなくて、身につけていないのが
日本仏教世界です。葬式宗教と揶揄する人もいるようです。
もともと日本人は、その原始宗教である神道などに見られるように、八百万の神を
信仰するもので、非常に単純で、素朴で、質素で、淡泊な志向の宗教世界に
生きて来たのです。信ずる宗教以外を徹底的に排除する闘争心など微塵も
持ち合わせない素直な素性の民俗宗教が日本人の本来の宗教的志向であるのです。
この民族的特性がこと宗教を受け入れるということになると、かえって禍に
なってくるのかも知れません。正邪を分別しない、善悪を併せのむ、とも言い
換えることができますが、そのような鷹揚さでは、本来の目的の宗教は成り立たない
のかも知れません。
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平成15年3月6日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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