敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 110 回  *** 第66番・その5 ***
*****  前大僧正行尊ー近江の寺々 *****

目    次
<園城寺> <崇福寺> <竹生島宝厳寺>

百人一首・第66番 もろともにあはれとおもへ山桜花よりほかに知る人もなし


 行尊の生涯に於いてもっとも関係のあった寺院は、第106回(その1)の略歴で見ましたように、
最初に修行したところであり、後半生「長史」として長らく在職したところであり、かつ永眠の地と
なった「園城寺」ということになるでしょう。

 近江の地は京に隣接しているため、京の人々には往来しやすい東国の入口であったのです。
 行尊は園城寺以外に、「ちくぶしまにこもりて」とか、「しがにまゐりて侍るに」などと近江の地に
足を運んでいます。以下に園城寺、崇福寺(志賀寺)、竹生島宝厳寺を伺ってみましょう。

<園城寺>

 西国三十三所第十四番札所長等山園城寺は天台寺門宗総本山で、別称の「三井寺」で名前が通って
います。

園城寺周辺の地理と境内の鳥瞰図
 何故「三井寺」と呼ばれるのか、それは金堂西側の小さな閼伽井屋(左甚五郎作と伝承された
龍の彫刻あり)には、天智・天武・持統三天皇の産湯に使われた霊泉「閼伽井」があり、「御井の寺」
と呼ばれたためです。

閼伽井屋と龍の彫刻
 また何故「園城寺」と言われるかの由来は、672年大海人皇子(天武天皇)との皇位継承を巡っての
争いである壬申の乱に敗れた大友皇子(天智天皇の子で、後世より弘文天皇と追号された)の皇子
大友与多王が父の霊を弔うため「田園城邑」を寄進して創建された寺に天武天皇が「園城」という
勅額を賜下されたためです。
 5年間の近江大津宮のあとに名残として残ったのが園城寺と言うことになります。

園城寺の金堂と仁王門
 この弘文天皇の弔い寺が天台宗にとって重要な寺に変遷していくのは、創建から約200年後の
貞観年間(859〜877)のことです。
 伝教大師(最澄)死後、第五代天台宗座主智証大師円珍和尚が天台別院として園城寺を中興されてから
東大寺・興福寺・延暦寺とともに「本朝四箇大寺」となりました。

 円珍和尚在世時は、大きな問題がなかったものの、円珍死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が
激化し、円珍門流は山を下って三井寺に寺門宗を分派し、円仁門流は延暦寺で山門宗を伝承する体制に
二分されてしまいました。

 行尊が修行に入門したときは、分派して50年以上経過しており、「長史」として在職した期間は
さらにその50年以上も後のことになります。こうした時代の流れの中にあって、この二派の争いは、
源平争乱、南北朝騒乱を通じて続けられ、三井寺は幾度も法難にあっているのです。
 ちなみに行尊が入寂して30年後に藤原定家が誕生し、武家社会が抬頭してくるのです。

 本来開創の伝教大師が望まれたことでない事態の歴史的流れに、宗教闘争の凄まじさを垣間見る
思いがします。神仏を論ずるものほどその言動の際だった部分が目立ち、醜い諍いと変貌してしまう
のでしょうか。仏教本来の教えは、人が人を叩きのめすことではないはずなのに、悟りの浅さが斯く
なる表づらの争乱となってしまうのでしょうか。
 この状況は、行尊から千年たった現在も、地球上の場所と時間を問わず、常に直面する問題である
事に変わりはないのです。かなしきかな、情け無き哉。
目次に戻る

<崇福寺>

 天智天皇の発願によりその七年(668)建立されたと推定される崇福寺は当初志賀寺と呼ばれ、
天平末年ごろから、崇福寺とも呼ばれたようです。
 たとえば但馬皇女の御歌(万葉集巻第二・相聞・115)の詞書きに「穂積皇子に勅して近江の
志賀の山寺に遣わす時」とあり、

 「おくれいて恋つつあらずは追いしかむ道のくまみにしめ結へわがせ」

と詠まれています。既に7世紀末に志賀寺は大寺院であったことが推測されます。
 大宝年間(701〜)には東大寺・興福寺・薬師寺に比肩されており、天平年間(729〜)には、
官寺に列せられています。

 (注)天武天皇(630?〜686)の皇子穂積皇子(673?〜715)は、異母妹の但馬皇女と
    恋愛関係の仲になりこのような歌を送られたのですが、残念ながら、但馬皇女はなくなり、
    穂積皇子は悲しみの中に埋葬された皇女に次の歌(万葉集巻第二・相聞・203)を叫び
    かけました。
  
    「降る雪はあはにな降りそよなばりのいかいの丘の寒からまくに」

 清少納言は、「枕草子」の「ものはづくし」で、「寺は、・・・石山、粉河、志賀・・・」
と言及していますから、当時の貴族社会の人々が参詣したい寺であったことは確かです。

 崇福寺は何度も災害(921,965,1022年全焼、976年倒壊)に遭いましたが、人々の
崇敬の思いは衰えず、その後寛和二年(986)円融上皇の御幸があり、寛弘二年(1005)には、
藤原道長が参詣しています。

 一方行尊(1055〜1135)は、志賀の山越えで次のように歌を詠んでいます。

 ーしがにまゐりて侍るに、春秋のはなぞのに、ゆきのふりたるをみて、

 「はなぞのと春あきとのみかぎりけん人はゆきまをわけずやありけん」(行尊大僧正集・29)

 行尊が別当を兼務した永久四年(1116)頃、崇福寺は既に園城寺とかなり密な関係にあった
ことになります。
 行尊の長史職就任から約100年後、寛喜二年(1230)勅により、崇福寺は園城寺の中院・
北院の所属となっています。

 京阪電鉄滋賀里駅から西へ志賀の山越え古道を歩き、百穴古墳や大仏(おおぼとけ)という石仏を
過ぎて、道標に従って山坂を登り、山腹の平坦な場所に国指定史跡の崇福寺金堂跡石碑と対面する
ことが出来ます。

崇福寺の周辺と史跡石碑
 隆盛を極めた当時の崇福寺は石碑の建てられている山腹だけでなく、三丘陵に渡って、金堂、小金堂
講堂、三重塔からなる壮大な寺院構築であったことが遺跡発掘調査で確認されています。

崇福寺の推定位置、推定遺跡群、遺跡風景
 天智天皇の発願より1335年。峰々に渡った広大な建造物は全て消滅し、残るは一本の遺跡碑のみ
になりました。志賀山越えを往来した人々の遙か昔の賑わいも想像の世界となってしまいました。
 行尊も踏みしめた滋賀里の峯々に1300年以上に渡る多くの人々の思いが籠められているのです。
      目次に戻る

<竹生島宝厳寺>

 竹生島は琵琶湖東北岸、東浅井郡びわ町早崎の西方約5kmの湖上に浮かぶ周囲約2kmの小島です。
 琵琶湖の中では、近江八幡市沖の沖島に次ぐ島で、島内の最高峰は197mです。周囲はほぼ絶壁に
囲まれ、孤島の感じがしますから、当然昔の人々も「神を斎き祀る島」と見て修験行場になりました。 

沖の島の位置と上空写真
  島内の南東部船着き場から169段の石段を登ると、日本三大弁天の一つ宝厳寺弁天堂があり、その
石段の下には、西国三十三所第三十番札所厳金山宝厳寺観音堂があります。そこから渡り廊下で隣接
する式内社都久夫須麻神社へも参詣できます。
 この斎島は神仏混淆の霊場として多くの人々の崇敬を集めてきました。

 開創は寺伝に依りますと、神亀元年(724)(または天平十年・738)聖武天皇勅願で行基が
草庵を結び四天王像を小堂に構えたことで、その後、天平勝宝元年(749)奈良興福寺僧泰平と
東大寺僧賢円が行基の後を伝承したと伝えています。
 当初は南都諸大寺僧苦行修練聖地として開場されたものの、その後承和八年(841)延暦寺僧法勢が
貞観二年(860)天台宗僧侶真靜が修験場としており、次第に天台宗僧侶の修験行場となっていった
ようです。

 したがって行尊が修験場とした頃より約250年ほど前から比叡山の僧侶と関係が深かくなっていった
ようです。

 ーちくぶしまにこもりて侍りしに、夜ごとに月のあかく侍りしかば

 「おもへどもゆくべきかたもなきしまによごとに月にさそはるるかな」

 修験の座から彼方を見れば四周湖面ばかり。そこに映った月影は誠に見応えのある「湖上の月」で、
修業の身には、月に惹かれて湖上に映る天上に登ってゆく思いがしたことでしょう。

 ご詠歌 「月も日も波間に浮かぶ竹生島船に宝を積むここちして」
目次に戻る

平成15年2月5日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。

本文の フロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。
生命保険の切り替えはココ 専門学校情報が満載♪ 過払い金の回収ならこちら
[PR] | RMT葬式 費用高崎浦安大井町新越谷esta ハワイ中国SEO対策消費者金融車 買取テンプレート沖縄旅行免許合宿二輪引越しプレゼントゴルフ会員権留学レーシックマッサージFXアフィリエイトFXホームページ制作デイトレード海外現地情報ハワイ旅行タイバンコクハワイ レンタカーベスト ハワイ ホテル レーツバリ島Hawaii hotelsHawaii Activitiesbhhrハワイホテルテキスト広告
【運営会社「パラダイムシフト」サービス】 ハワイ現地オプショナルツアーリラックマ) - ビジネスクラス航空券 - 格安航空券(1) - 格安航空券(2) - 海外ホテル - 韓国旅行 - タイムシェア - ホテル 予約
無料ホームページ - 携帯ホームページ - 無料ホームページ作成 - レンタルサーバー - ブログ - ヴィラ - ハワイ コンドミニアム - バリ島 ホテル - プーケット ホテル - タイムセル - 口コミ - 格安国際電話 - ホノルルマラソン - サイトパトロール - 誹謗中傷 - 宿泊料金比較 - 口コミ