敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 109 回  *** 第66番・その4 ***
*****  前大僧正行尊ー熊野と大峰 *****

目    次
<熊野古道> <大峰山> <大峰奥駆けの実践>
<参考メモ・西行の大峰修行> <参考メモ・役行者>

百人一首・第66番 もろともにあはれとおもへ山桜花よりほかに知る人もなし


<熊野古道>

 行尊の私家集「行尊大僧正集」には、「熊野」なる地名を詞書きに入れた和歌は7首、「那智」を
入れた和歌は3首ありました。
 「撰集抄」には、「平等院僧正行尊が大峰山中笙の窟に三年間籠もって修行した際に詠んだ歌」と
して、次のものが挙げられています。(宮家準「修験道辞典」東京堂出版(平成3年2月15日))

 「草の庵なに露けしと想ひけんもらぬ岩屋もかみはぬれけり」

 見馴れた草庵の修行よりさらに厳しい岩屋の修行は、非常に辛いもので、涙もこぼれんばかりで
あったのでしょうか。
 いずれにしても、行尊は頻繁に「熊野古道」で修行したのではないかと想像されます。

 「熊野古道」とは、延喜七年(907)宇多法皇御幸に始まる大自然信仰の熊野詣での参道で、
京から八十里以上、往復約一ヶ月を要しました。
 「熊野古道」には、紀伊路方面から紀伊半島海岸沿いに回る「大辺路」、田辺から本宮へ向かう
「中辺路」、高野山から南下して熊野に至る「小辺路」、紀伊半島の東海岸沿いに伊勢神宮からの
「伊勢路」、さらには吉野から大峰山脈の西側を十津川沿いに南下する「十津川街道」、東側を
北山川沿いの南下する「北山街道」などがありました。

各方面からの「熊野詣」道程と中辺路の九十九王子 
 京の下鳥羽を出発地として、まず淀川を船で難波に下り、そこから紀伊路をとって南紀の田辺南部
上冨田に達して、そこからさらに冨田川(かっての岩田川)に沿って「中辺路」をとり、
熊野へ分け入る参詣道中には、九十九王子神社があって、道標となり、参詣者の心を慰めてくれたのです。
 熊野信仰は、平安時代後期から盛んになり、行尊が供奉した保安四年(1123)鳥羽上皇の御幸
あたりから後白河上皇、後鳥羽上皇などの御幸時期に最盛期を迎え、貴族や武士だけに留まらず、
「蟻の熊野詣」といわれるほどに庶民までその信仰が拡がって行きました。
 
 たとえば、かの和泉式部も熊野詣を行っており、中辺路(本宮町)には、和泉式部供養塔まで建て
られているのです。さらに「風雅集」には、次の歌が採られています。

 「もとよりも塵にまじはる神なれば月の障りもなにかくるしき」(巻19・神祇)
 これは和泉式部熊野へまうでたりけるにさはりありて奉幣かなはざりけるに
 「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月の障りとなるがかなしき」
 とよみて寝たりける夜の夢につげさせたまひけるとなむ。
          (引用資料:加藤隆久「熊野三山信仰事典」戎光祥出版(1998年12月))

 9世紀終わり頃の宇多法皇から数えますと、花山法皇1回、白河上皇9回、鳥羽上皇21回、
崇徳上皇1回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回、後嵯峨上皇2回、亀山上皇1回と13世紀後半
にかけて、頻繁に法皇や上皇方が「熊野へ、熊野へ」と修行の旅にたちました。

 目指す「熊野三山」である「熊野本宮大社」「那智大社」「速玉大社」へは、大門王子、十丈王子、
近露王子、継桜王子などの険しい山道を経て、神の浄域の入口である発心門王子に辿り着きます。 

熊野古道模式図(産経新聞平成11年1月1日付け)
 ここで詠んだ藤原定家の歌

 「いりがたき御法の門はけふ過ぎぬ今より六の道にかへすな」

 水呑王子から伏拝王子に至るとはや本宮の社地になります。社殿を前にして、参拝者は一様に地に
伏して神に祈ったという聖地です。

熊野古道の風景

熊野本宮大社と速玉大社
 熊野詣での仕上げは「大雲取越」、「小雲取越」あるいは「大辺路」を通って「那智大社」に
参詣することです。
 苦行滅罪の修行旅「熊野詣」の難行を完遂した法悦の境地に達するのは、高さ133mの日本一の
那智大滝を見た時で、神の存在を間近に感じ、いやが上にも修行完業の思いを厚くするのです。

那智大滝と那智大社 目次に戻る

<大峰山>

 大峰山に於ける修験道は「大峰奥駆け」と称して、厳しい山岳修行の最たるものとして伝統があり
ます。そもそも行尊などが青壮年期に苦行し、それに憧れた西行も励んだ「修験道」なるものは、
山岳信仰に基づいた古代神道や渡来した初期の仏教である天台宗・真言宗の仏教教義を実践する
修行として、伝承されてきたものです。

 祖師は、役小角とされています。(後述の参考メモ群を参照願います。)
 行者がある期間山には行って修行することを「峰入り」といわれ、その代表的な修験道場が大峰山と
いうことになります。

 「峰入り」は、鎌倉時代には5行程あり、室町時代では熊野から吉野(修験宗聖護院本派の順峰)と
吉野から熊野(三宝院当山派の逆峰)が定例化され、江戸時代になると各派年間四季毎に4行程を
こなす行事になったようです。

大峰修行の北奥駆けと南奥駆け
  さらに加えて江戸時代中頃から修験者だけでなく、一般在俗者も「峰入り」するように修行が普及して
いったのです。
 行尊が峰入りしていた頃は、役小角によって開創された当修行の初期の様式、たとえば「役行者
御影供の峰」と称された五月下旬入峰して、六月六日出峰する一ヶ月の峰入り修行などが想定されます。
 行尊は、壮年期、かなり厳しい修行に励んだということですから、晦日山伏峰入り(12月晦日ー
4月8日)、花供峰(4月8日ー5月9日)、諸国山伏峰入り(6月7日ー9月9日)、笙岩屋冬籠
(9月9日ー3月3日)(出典:「金峰山創草記」による)などのすべてをこなしていたかもしれ
ません。

 「こころこそみをばすてしかまぼろしのすがたもひとにわすられにけり」(行尊大僧正集・15)
 「われが身はこのはとともにちりはてぬみねのあらしぞゆくへしるらん」(行尊大僧正集・95)

 行尊が心身を打ち込んだこの山岳修行の目的は、一体何なのでしょうか。
 それこそ開創の役小角の目指した精神的境地を探索する必要があるわけですが、現在でも一部の
行者および熱心な在俗者によって伝承されているところをみますと、宗教的に何らかの得るところ、
いわゆる「御利益」があるのでしょう。

 前述の熊野詣が在俗者達にとっての「苦行滅罪の旅」であったように、大峰修験道は本職の僧侶に
よる同じく「苦行滅罪の旅」であるのでしょうか。
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<大峰奥駆けの実践>

 大峰修行は、現在京都市聖護院、醍醐寺三宝院、奈良県吉野町東南院などに伝承されているそう
ですが、和歌山県那智勝浦町青岸渡寺主催の「熊野修験秋峰入り」について、新聞記者の目での
実体験記(「にっぽん考」朝日新聞2002年(平成14年)9月15日付け)をみましょう。

 青岸渡寺副住職が一般公募の山伏行者を引導する行事も15年目を迎えています。
 この修行は「大峰奥駆け」のうち、「北奥駆け」といわれる「釈迦ヶ岳のふもとから吉野山の
蔵王堂まで約90kmを3日で歩く」ものです。ちなみに釈迦ヶ岳から南下して那智山までは
「南奥駆け」といわれています。

「北奥駆け行路」と参加者の行列
 参加者 約70名 (女性10人以上、青森県や長崎県からも参加)
 服 装 山伏装束の経験者と登山スタイルの新参者
 行 程 第1日 釈迦ヶ岳登山口集合 毎日30km 10時間修行 泊まり弥山小屋
     第2日 弥山から山上ヶ岳 泊まり山上ヶ岳宿坊
     第3日 山上ヶ岳から吉野蔵王堂 散会

 「山又山。次々と立ちはだかる峰を目指して、登っては下り、下っては登る。」
 「急坂で息が切れそうになると、六根清浄の声がかかる。呼応して、懺悔、懺悔と
  唱和しているうちになんとか登りつめる。」
 「山頂や目印になる巨木や巨岩のある場所は、靡きと呼ばれ、そこでは必ず
  法螺貝を鳴らし、般若心経などを唱える。」
 「鎖で身体を確保しなければならない岩場が何カ所もある。断崖、絶壁。危険度の
  高さを知ればここが修行の場として神聖視されたことが良く理解できる。」

 新聞記者らしく雑多な参加者の意見を聴取しています。
  (1)法螺貝まで買い込んで参加した愛知県の会社員。
  (2)精神的充足感を実感するため参加している和歌山のメーカー研究員。
  (3)山の霊気を全身で実感できるという東京都の女性。
  (4)山入りすることに値打ちありとする地元中辺路町の作家など。
     この作家は、新聞(産経新聞平成11年6月22日夕刊)
     (作家宇江敏勝氏「大峰奥駆けの森」)にも寄稿しています。
     併せて5年間の奥駆け体験を単行本にして出版しています。
     (「熊野修験の森ー大峰山脈奥駆け記」岩波書店(1999年4月))

 「大峰奥駆け」体験に対する新聞記者の結論は、次の通りです。
 「自然と人間の関係に行き詰まりを感じた人々が、本能的に自然回帰への道を選び始めたことの
  あらわれかもしれない。」

 一方作家の評言は、次の通りです。
 「大自然の中で、肉体をきびしくさいなみ、ときには瞑想することによって、身につけた
  過去の塵埃をはらい落とすとともに、森から生命力を得て、新しく生き直す、というものだ。」

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<参考メモ・西行の大峰修行>

 「大峰奥駆け」体験記で宇江氏は、「大峰奥駆け行の栄光ある伝統」を次のように言及しています。

 「役行者の峰入りは伝説だとしても西行法師(平安鎌倉)、靜仁親王(鎌倉)、
  円空上人(江戸)、実利上人(明治)など時代を超えて有名無名の多くの行者が
  入っている。」
 「なかでも西行は、靡きの名を詞書きとして詠んだ十六首が「山家集」に
  おさめられており、・・・」

 西行は高野山の生活の延長として大峰修行を行ったものでしょう。16首の和歌を見ましょう。

(その1)「大峰の深仙(下北山村)と申す所にて、月をみて」3首
     行尊は、大峰の桜を見て百人一首歌を詠みましたが、西行は「月詠みの法師」と
     言われるように月を詠んでいます。

(その2)「をばすての峰」(大峰山中)、「小池宿」(下北山村)、「篠宿」(天川村)、
     「倍伊地宿」(下北山村・十津川村)、「東屋」(十津川村)、「古屋宿」(十津川村)
      7首 いずれも月を詠んでいます。

(その3)「平等院の名書かれたる卒塔婆に、紅葉の散りかかりけるを見て、「花よりほかの」
     とありけむ、ひとぞかしと、あはれに覚えて詠める」

    「あはれとて花見し峰に名をとめて紅葉ぞ今日はともにふりける」

     行尊大僧正の百人一首歌のことを思い出して、一首詠んだわけです。

(その4)「千種嶽」(下北山村)、「蟻の門渡り」(大峰山中)、「稚児泊」(上北山村)、
     「三重滝」(大峰山中)、「転法輪嶽」(大峰山中) 5首
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<参考メモ・役行者>

 修験道開祖「役行者」(役小角)は、聖徳太子、行基、最澄、空海とともに日本宗教史上、大きな
足跡を残した人物です。彼は主として畿内各地で活動し、彼の開創の霊山や寺社は多数残されています。
 2000年(平成12年)は役行者「神変大菩薩」1300年大遠忌を迎え、大阪市立美術館では、
「役行者と修験道の世界」の展覧会が催されました。

 役行者の絵画や彫刻が今回の展覧会の主催者である修験道三本山、醍醐寺・聖護院・金峰山寺の
遺宝として、修験道の聖地である大峰山寺に秘宝として残されており、東北地方から九州まで各地に
国宝級の美術品として、伝承されてきました。それら350点を一堂に会して、公開したものです。
 併せて、期間中に毎週、修験道に関する講演が開催されました。

 次のような見学記事(産経新聞「役行者と修験道の世界」展(平成11年11月21日付け)

 「・・・会場ではとにかく異様な造形に驚かされる。とりわけ迫力があるのが彫刻群。
  ・・・役行者像はいずれも長い頭巾を被って高下駄をはき、二匹の鬼を引き連れている。
  役行者が金峰山寺に感得したとされる修験道の本尊蔵王権現像などは「優美さ」を
  特徴とする一般の仏像とは、異質の何かを感じさせる。それこそ大自然と一体化する
  ことによって得られる霊力なのだろう・・・・」

 その他の特別出品として、藤原道長が金峰山寺に納めた経筒や役行者をご神体とした祇園祭の
山鉾「役行者山」などです。

 修験道が、日本人の中で、見直し始められたことになり、もともと修験道が目指す「苦行滅罪の旅」を
体験することによって大自然の中へ帰って行く道を探索する事になるのでしょう。
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平成15年1月31日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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