敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 105 回 *** 第21番 ***
***** 素性法師ー布留の里 *****
目 次
<父遍昭の縁り>
<石上寺・良因院>
<いまこんと父子>
<天理市石上神宮>
百人一首・第21番 今来むといひしばかりに長月の有明の月をまちいでつるかな
<父遍昭の縁り>
素性法師の父良岑宗貞・僧正遍昭の縁りの地、すなわち素性法師が成人するまで関係した所を、
私家集「遍昭集」で当たりますと、次のような地名が関係していると思われます。
(その1)布留の中山
ー山とのふるのなかやまをまかるとて
「いそのかみふるの山べの桜ばなうゑけむときをしるひとぞなき」(遍昭集・4)
(その2)遍昭が母の家
ーそう正までなりてのちのことにや、仁和の帝(光孝天皇)のみこにおはししとき、ふるのたき
御覧ぜんとておはしましけるみちに、へんぜうがははのいへのはべりけるにやどりたまへるに、
にはをあきののにつくりて、いとをかし、おほんものがたりのついでによみてたまへりし
「さとはあれて人はふりぬるやどなれやにはもまがきもあきののらなる」(遍昭集・20)
(その3)苔の衣
僧正遍昭と小野小町の艶な話題は、私家集「遍昭集」や後撰集では、長い詞書きの物語に
なっていて、次のように記されています。
ーいその神といふ寺(下注)にまうでて日の暮れにければ、夜のあけてまかりかへらむ
とてとどまりて、この寺に遍昭侍りと人の告げ侍りければ、ものいひ心みむとて、
いひ侍りける 小町
「岩の上にたびねをすればいとさむし苔の衣を我にかさなん」
(後撰集・巻17・雑三・1196 )
返し 遍昭
「世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたりねん」
(後撰集・巻17・雑三・1197)
(注)「大和物語」(第168段)では、「清水もうで」になっています。
遍昭が出家する前、仁明帝に出仕していたとき、小町も仁明帝の女御藤原順子に仕えていた
同じ宮廷内の廷臣仲間として、気心が知れていたので、このような気易いなれ合いの歌の
交換が出来たのでしょう。
この遍昭の異性に対する軽妙な歌心は、この歌だけではなく、殆どの彼の和歌に暗に、
あるいはあからさまに、「密かな心映え」として含まれているのです。
その例は、先に「僧正遍昭ーをみなへし」の所で見たとおりです。
目次に戻る
<石上寺・良因院>
前述の遍昭・小町の石上寺と素性法師の関係は、資料(吉川弘文館「国史大辞典」)に、次のように
言及されています。
「・・・遍照の子素性法師は石上寺の良因院に住したことが「扶桑略記」昌泰元年(898)
十月条や「良峯氏系図」にみえ、「古今和歌集」には素性が「ならのいそのかみ寺」でよんだ
歌がでいている。・・・」
(注)古今集・巻第三・夏・144番歌
ー奈良の石上寺にて時鳥の鳴くをよめる
「石の上ふるき都の時鳥声ばかりこそ昔なりけれ」
「・・・「古今集註」(毘沙門堂本)は、石上寺を僧正遍照の建立で大和国山辺郡布留社
(奈良県天理市の石上神宮)の北二町程のところにあったとする。・・・」
石上神宮の麓が遍昭・素性父子法師の関係深い布留町になっています。

石上神宮周辺
石上神宮を北に上がったところで、天理教本部の東側に当たる交差点近くに厳島神社があります。
厳島神社の案内板に依りますと、「室町朝に小野小町が訪れた石上寺と遍昭が居た良因寺があり、
良因寺の方は、厳島神社境内を中心に一帯約四千坪を有していた」とされています。遍昭・素性縁りの
良因寺は、石上神宮とは布留川を挟んで隣接していたのではないでしょうか。
境内には、小野小町と遍昭の問答歌の歌碑も建てられています。

厳島神社
素性法師(良岑玄利)は、父遍昭法師により、早くから兄の由性とともに出家させられ、都の
雲林院に住まいしていました。その証拠に雲林院での父子の歌が幾首か残っています。
(注)古今集・巻第5・秋下・292番歌
ー雲林院の木の陰にたたずみて詠みける 僧正遍昭
「わび人のわきてたちよる木の下は頼むかげなくもみぢ散りけり」
古今集・巻第2・春下・95番歌
ー雲林院親王の元に、花見に北山のほとりにまかれりける時によめる 素性
「いざ今日は春の山辺にまじりなむ暮れなばなげの花の陰かは」
子の良岑玄利は寛平八年(897)宇多天皇雲林院行幸の日に権律師に昇格しました。
なお、雲林院については、良暹法師の項を参照願います。
さて、父遍昭が良因寺に没して後、子供の素性法師は、父縁りの良因寺に移住してきたものでしょう。
奈良に引っ越したものの、和歌や漢詩を通して、都の宮廷人との交遊が絶えず、宇多上皇の吉野
宮滝御幸の折りも、喜々としておそばを走り回った(良因朝臣と名乗って供奉し菅原道真などと共に
和歌を献上したことなど)と伝えられています。
甚だ都の煌びやかさが身辺に漂う法師のようであったわけです。その風貌と性格を想像させる歌
として、次のような古今集の歌が挙げられましょう。
ー花盛りに京を見やりてよめる
「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」(古今集・巻1・春上・55)
ー二条后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形を描けりけるを題によめる
「もみぢ葉の流れてとまるみなとには紅深き波や立つらむ」(古今集・巻第5・秋下・293)
目次に戻る
<いまこんと父子>
素性法師の百人一首歌は、題目に挙げたとおり、
「今来むと言ひしばかりに九月の有明の月を待ちいでつるかな」(巻14・691)
でしたが、これと殆ど同じ歌い振りを父の遍昭も行っているのです。
「今来むと言ひて別れし朝より思ひくらしの音をのみぞなく」(巻15・771)
もっともお父さんは分かれた朝からひねもす、思い詰めているのに対して、息子さんの方は、
今か今かと一晩中待っているというわけで、一日を昼番と夜番に分けて歌を組んでいるのです。
一方夕方から待つことについては、息子さんの方が、親父さんのように一晩中待たねばならぬのは
嫌だとばかりに、次のように逢わないと言っています。
「今宵来む人には逢はじたなばたの久しきほどに待ちもこそすれ」(巻4・181)
この「いまこんと父子」の組み合わせは、いろいろに百人一首の中で展開しています。
「糸で玉を縒る」ことについて、つぎのようにいろいろに詠んでいます。
父の歌 「浅緑糸よりかけて白露を玉にも貫ける春の柳か」(巻1・春上・27)
子の歌 「惜しと思ふ心は糸によられなむ散る花ごとに貫て留めむ」(巻2・春下・114)
親子が並んで撰歌されている例
父の歌 「花の色は霞みに籠めて見せずとも香をだに盗め春の山風」(巻2・春下・91)
子の歌 「花の木も今は堀り植じ春立てば移ろふ色に人ならひけり」(巻2・春下・92)
既に先に引用した父の歌(巻5・秋下・292)と子の歌(巻5・秋下・293)があり、究極は、
子の素性が、親父を代表して、次のように父子の歌を詠んでいます。
ー北山に僧正遍昭と茸狩りにまかれりけるによめる
「もみぢ葉は袖にこきいれてもていでなむ秋はかぎりと見むひとのため」(巻5・秋下・309)
後撰和歌集巻第二・春中には、また父子並んで次のような歌が撰歌されています。
ー大和の布留の山をまかるとて 僧正遍昭
「いその神布留の山辺の桜花植けむ時をしるひとぞなき」(49番歌)
ー花山にて、道俗酒たうべける時に 素性法師
「山守はいはばいはなん高砂の尾上の桜折りてかざさん」(50番歌)
目次に戻る
<天理市石上神宮>
<天理教の町>
奈良県天理市は奈良県でも南東部の奥まったところに位置しています。JR桜井線あるいは近鉄
天理線で辿り着けます。
天理市には宗教教団「天理教」の本部があり、地域全体が天理教に関連した地域社会のために教団の
名前をそのまま市名に流用した特異な自治体です。名古屋の豊田市が自動車会社の一民間企業名を
流用したのと同じ事情です。
現在日本国内には宗教団体として名前を掲げている集団は、数百はあろうかと推測します。
日本民族の中の宗教としては、原始宗教や神道から始まって仏教を国家的事業として導入し、さらに
近世にはキリスト教を受け入れ、現代ではいろいろな新興宗教集団が出てきました。
天理教は、神道の一派で1838年(天保九年)一女性が創唱した天理王命を祀る宗教で150年
以上の宗教活動歴を有しています。
現在天理市には本部とその周辺に全国から参拝に来る信徒集団の宿舎(おやさと)が何十棟と建て
られていて賑わいを呈しています。

天理教本部の正門と信徒集団の参拝
<石上神宮>
天理市の東側の山際には桜井市から奈良市に通ずる古代日本の街道「山辺の道」があり、その道の
脇には伊勢神宮に匹敵する古い歴史を有する石上神宮があります。
天理教の町になる前は大和国山辺郡石上布留村で、石上神宮が鎮守の森であったと思われます。
万葉集でも「石上(ふるの枕詞)布留」が巻三から巻十二にかけて短歌10首、長歌1首が詠まれて
います。代表歌を2首挙げておきましょう。
「石上布留の神杉神さぶる恋をもわれは更にするかも」(巻11・2417番歌)
「石上布留の高橋高高に妹がまつらむ夜ぞふけにける」(巻12・2997番歌)
石上神宮はその由緒書きに依りますと御祭神は、神武天皇御東征時の天剣(平国剣)、鎮魂の主体
布留御魂、素佐鳴尊の天羽々斬剣で、第10代崇神天皇の御代石上布留の高庭に祀られたとされています。

石上神宮本殿
昔から神殿が無く、拝殿の後方を禁足地としてご神体は埋斎されていたのを、明治7年この禁足地を
発掘して、勾玉、管玉、古鏡などを確認し、本殿を築いたとされている特徴のある神宮になっています。
石上神宮は高庭の地にあり、天理市が遠望でき、天理教の壮大な教団建物群が並んでいるのが
町並みの中に見渡せます。
<天理教の理想世界>
僧正遍昭や素性法師の生存した時代である9世紀後半から数えて1100年後、良因寺や石上神宮の
里は、新興宗教天理教の故郷に変貌を遂げました。良因寺や石上神宮との境を東端とする天理教の
集団施設は、天理市の中心街を完全に形成し、正しく、宗教一色の町に仕上がっています。
僧正遍昭も素性法師も、まして石上神宮も千年後には、新興宗教集団の隣組になろうとは思っても
みなかったことでしょう。
天理教自身この地に、集団を形成するとは予想し得なかったかも知れません。現在教団は学校と
しては、高等学校、大学校を有し、さらには総合大病院施設まで整備し、「陽気暮らし」の理想世界
建設の活動を続けているのです。
日本歴史の発祥の地域に、この種の宗教集団が発生するというのも土地の歴史の古さによるのかも
しれません。
現在大都市の中や周辺には大小さまざまな宗教活動の集団があるようで、政治活動にのめり込んで
いる群衆があるかと思えば、人から暴力によって金銭を巻き上げ、集団殺人用の猛毒ガス密造に走って
いるものなど、社会の敵になっているのです。何のための宗教か、新興宗教の評価は落ちる一方です。
新しい宗教団体であるが故に良く人に理解されず、人々に受け入れてもらえないのが実状では
ないでしょうか。
素性法師のように出家して、俗世界に生きている人間が一番すっきりしているのかも知れません。
目次に戻る
平成15年1月3日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
本文のフロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。