敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 104 回  *** 第12番・その2 ***
*****  僧正遍昭ー深草の里  *****

目    次
<深草少将> <嘉祥寺> <参考メモ>

百人一首・第12番 あまつ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ


<深草少将>

 「深草の帝」といわれた仁明天皇の御陵は藤森神社北東方向の名神高速道路脇にあります。
 御陵も高速道路と民家に囲まれて、どこか居ずらそうな環境に変わっています。高速道路は
拡幅工事を、民家は宅地開発を行いさらに環境が変化しています。

深草の里周辺と仁明天皇御陵
 この深草の地は、遍昭自身六歌仙の一人として、在俗時「深草少将」と呼ばれて小野小町とも
歌のやり取りをやったことに由来する名前の地であり、一方小町の縁りの地は、深草の稲荷山向こうの
山科随心院などが近くになるところです。(<参考メモ>参照)

  仁明天皇陵から名神高速道路をくぐって北側に出ますと、JR奈良線の線路脇に出ます。ここには、
後深草天皇深草北陵として、伏見天皇以下11天皇1親王の十二陵があります。

 (注)十二帝とは、次の天皇及び親王方です。
    後深草天皇(第89代)(1246〜59)  伏見天皇(第92代)(1287〜98)
    御光厳天皇(北朝4代)(1352〜71)  後円融天皇(北朝5代)(1371〜82)
    後小松天皇(第100代)(1382〜1412)称光天皇(第101代)(1412〜28)
    後土御門天皇(第103代)(1464〜1500)後柏原天皇(第104代)(1500〜1526)
    後奈良天皇(第105代)(1526〜1557)正親町天皇(第106代)(1557〜1586)
    後陽成天皇(第107代)(1586〜1611)栄仁親王   

    亀山天皇以下の大覚寺統に南朝に対する持明院統の北朝方の天皇で、13世紀中葉から
    17世紀前半までの約400年に渡る時代の御陵群ということになります。その時代は、
    仁明天皇(第54代)(833〜850)から数えて約400年後から800年後になります。

 この付近は、昔から寺院も多かったと見えて、十二帝陵の東側には真宗院、嘉祥寺、さらに北側には、
瑞光寺、宝塔寺、石峰寺と並んでいて、稲荷大社まで寺院が連なっていることになります。

 因みに後深草陵の北東方向の山裾には、立命館大学があり、JR稲荷駅の東地区には、龍谷大学、
警察学校、伏見工業高校などの学園地区になっており、昔学問が寺院を中心に普及した名残でしょうか。
稲荷山西麓の寺院地区「深草の里」は、学校に関係深いところになっています。益々学問の地としての
環境を強めていくのでしょうか。

JR奈良線稲荷駅南深草十二陵
目次に戻る

<嘉祥寺>

 十二帝陵の北東側に隣接して、境内を構えている嘉祥寺は仁明天皇との関係が深いのです。

嘉祥寺門前の庭園
  仁明天皇(810〜850)は、嘉祥三年(850)3月21日、清涼殿にて崩御になり、
良岑宗貞(816〜890)は葬儀関係者の一人(縁葬諸司)として3月25日に深草陵に
葬送し、その3日後比叡山で出家しました。まだ35歳の若さであったのです。

 私家集「遍昭集」には、次のような詞書きと歌で、臣下宗貞の痛恨の挙動が記されています。

 ー・・・つかまつりし深草の帝、 かくれおはしまして、かはらむよをみむも
  たへがたく かなし、くら人のとうの中将などいひて よるひるなれつかまつりて
  なごりなからんよにまじらはじとて、にはかにいへの人にも しらせで ひえに
  のぼりて かしらおろしはべりて おもひはべりしも、さすがにおやなどのことは
  心にやかかりはべりけん

 「たらちねはかかれとてしもむばたまのわがくろかみをなでずやありけむ」(11番歌)
 「さらしなに(いまさらに)我はかへらじなき(たき)みつつよべどきかずととはばこたへよ」
                                                                      (12番歌)

 ー深草の山にをさめたてまつるを、おもひまゐらせけむほど おもひやるべし

 「うつせみはからをみつつもなぐさめつけぶりだにたてふかくさのやま」(13番歌)

 一方古今和歌集には、同じ臣下の文屋康秀とともに次のような歌を詠んでいます。

 ー深草帝(ふかくさのみかど)の御国忌(おほむこき)の日よめる 文屋康秀

 「草深き霞の谷に影隠し照る日の暮れし今日にやはあらぬ」(巻第十六・哀傷歌・846)

 ー深草帝の御時に、蔵人頭にて夜昼なれつかうまつりけるを、諒闇になりにければ、さらに
  世にも混じらずして比叡の山にのぼりて、頭おろしてけり。そのまたの年、みな人御服
  (おほむぶく)脱ぎて、あるは冠賜はりなど、喜びけるを聞きてよめる  僧正遍照

 「みな人は花の衣になりぬなり苔の袂よかわきだにせよ」(巻第十六・哀傷歌・847)
                           (遍昭集・第16番歌)

 臣下であった宗貞にさえ、信任厚い心の仁明天皇でしたから、皇太子であった文徳天皇は、なおさら
父を思う心が強くその一年後嘉祥四年(851)2月に父の菩提を弔うために真雅僧都を開山として、
建立したのが嘉祥寺の興りとされています。
 創建当時は壮大な寺院であったそうですから、仁明陵からこの深草北陵まで、約400〜500mが
寺域であったものが平安時代の後期には衰微して、仁和寺別院になったとのこと。

 それから1500年後の現在、同寺院は、仁明天皇深草陵から離れた野辺に細々とその名を次いで
いて、「深草聖天」として信仰されています。

 仁明天皇は良岑宗貞より年齢が5〜6歳年上で、ほぼ同じ世代に天皇と臣下として生き、信頼関係を
育みましたが、仁明天皇の子息で、兄の文徳天皇より弟の光孝天皇とは、天皇より「同塵之契」と
感謝されるほど、深い君臣の関係を結んだとされています。

 光孝天皇も、僧正遍昭も仁明天皇から受けた恩義を大切にする人であるところに共通点があり、心
相通じるところがあったのでしょう。
 幸いにして、両名とも百人一首の歌人になり、不朽の歌人としての仲間入りをしています。
 兄文徳天皇、弟光孝天皇は、共に宇多野に、そして遍昭は、子供の二人の皇子より仁明天皇の近くの
北花山の地に埋葬されています。

 「深草の少将」として、大和物語(第168段および第173段)に一二の話しに出てくるように、
僧正遍昭は、仁明天皇深草陵に近い深草の地に永眠した方がより幸せであったかも知れません。

<参考メモ>

(その1)仁明天皇(深草帝)(弘仁元年・810〜嘉祥三年・850)
     在位833〜850
     嵯峨天皇第一皇子 母橘清友女嘉智子
     弘仁十四年(823)4月  伯父淳和天皇の皇太子に立つ (14歳)
     天長十年 (833)2月  淳和天皇譲位を受け即位   (24歳)
     承和九年 (842)7月  承和の変 伴健岑ら謀反、恒貞親王廃皇太子
     嘉祥三年 (850)3月  病により出家 二ヶ月後清涼殿にて崩御(41歳)
     陵地 深草陵(京都市深草東伊達町)

(その2)藤原順子(809〜871)仁明天皇女御 五条后
     藤原冬嗣女 母藤原真作女尚侍美都子
     皇太子正良親王(仁明天皇)室入り
     天長四年 (827)8月  皇子道康親王(文徳天皇)を産む(19歳)
     承和九年 (842)8月  道康親王立太子(承和の変)
     嘉祥元年 (848)    安祥寺建立(下注参照)
     嘉祥三年 (850)4月  文徳天皇即位 皇太夫人として東五条院へ
     斉衡元年 (854)4月  皇太后
     貞観三年 (861)2月  出家
     貞観十三年(871)9月  崩御(63歳)後山階陵埋葬(「三代実録」太皇太后崩御記)
                      (下注参照)
     (注1)安祥寺
         安祥寺寺名を継いでいる寺は、京都市山科区御陵(みささぎ)の北地区で、
         天智天皇山科陵山一つ東側の谷間で、琵琶湖疎水が湾曲して蹴上に西流して
         いる麓あり、洛東高校と護国寺に挟まれています。
         なお「安祥寺上寺跡」は、安祥寺町の北の国有林の山間にあり、山道からの
         道しるべの石碑のみが残っています。

安祥寺への参道と上寺跡への道しるべ
     (注2)後山階陵
         安祥寺上寺跡への道中の渓谷脇(京都市山科区御陵沢ノ川町)にある円墳です。
         淡い黄色と紅色の紅葉に囲まれた静かな御陵地になっています。
                  小野小町の欄も参照願います。

仁明天皇女御藤原順子後山階陵の紅葉
     (注3)東五條第跡
         仁明天皇女御順子は、天長四年(827)後の文徳天皇を産んだところとされて
         います。順子は、太皇太后となり、五条の后と呼ばれました。
         この邸宅は、もと左大臣藤原冬嗣が住まいしたもので、その後順子に伝えられ
         ました。
         この邸宅跡は、現在の京都市の繁華街四条烏丸交差点の東側にある大和銀行
         京都ビルに相当し、石碑に代わる説明銘板が掲げられています。
         (既に在原業平ー高倉御池のところで引用しています。)

東五條第跡の説明板
         さらに順子から、摂政太政大臣良房、関白太政大臣基経、関白太政大臣
         忠平へと引き継がれ、忠平は、生涯の大部分をこの邸宅で過ごしたそうです。
         忠平の妹で醍醐天皇中宮穏子は、この邸宅を里第として、康子内親王(920)と
         朱雀天皇(923)を産んでいます。文才のあった穏子の女房には才媛が多く
         集まり平安朝の文学発信地となったのです。          (以   上)
目次に戻る

平成15年1月9日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。

本文のフロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。
専門学校情報が満載♪ そろそろ結婚適齢期??? 専門学校情報が満載♪
[PR] | 高崎浦安大井町新越谷SEO対策消費者金融車 買取テンプレート沖縄旅行免許合宿二輪引越しプレゼント留学レーシックマッサージFXホームページ制作デイトレードテキスト広告
【運営会社「パラダイムシフト」サービス】 無料ホームページ - 携帯ホームページ - 無料ホームページ作成 - レンタルサーバー - ブログ
- タイムセル - 口コミ - 格安国際電話 - サイトパトロール - 誹謗中傷 - 宿泊料金比較 - 口コミ - デルタ航空