第100回文屋康秀と第102回文屋朝康は父子になり、重代歌人です。百人一首の中で親子組の 重代歌人群は、次のように合計18組36名もの多くの歌人になっています。すなわち百人の内3名に 1名は、血縁関係の集団であることになります。
| 親子関係 | 組数 | 組合せ例(百人一首歌番号) |
|---|---|---|
| 父ー息子 | 13 | 康秀(22)−朝康(37) 遍昭(12)ー素性(21) 陽成天皇(13)ー元良親王(20) |
| 母ー娘 | 2 | 和泉式部(56)−小式部内侍(60) 紫式部(57)−大弐三位(58) |
| 父ー娘 | 3 | 天智天皇(1)−持統天皇(2) 清原元輔(42)−清少納言(62) |
康秀ー朝康父子に関連して、今回は僧正遍昭と素性法師父子の重代歌人を採りあげてみます。 小野小町は文屋康秀や僧正遍昭(良岑宗貞)と係わりましたが、良岑宗貞は仁明天皇に出仕しました。 仁明天皇の皇后藤原順子に出仕したのが小野小町でしたから、宮仕えの世界に於いても良岑宗貞と 小野小町はいわば同じ宮廷の官人仲間であったことになりましょう。 因みに第104回に言及しますが、小野小町と皇后藤原順子は、同じ京都山科の里が縁りの地に なっています。 さて僧正遍昭・良岑宗貞とは、元慶寺に永眠するまでの人生はどのようになっていたのでしょうか。 僧正遍昭は桓武天皇の皇子良し岑安世の子息宗貞として生まれ、おじさん(嵯峨天皇)の子で甥に 当たる仁明天皇に仕え、帝の崩御後、出家して、元慶寺座主になった人です。

元慶寺は京都市山科区北花山地区に残っています。 JR山科駅から南下し、竹鼻の交差点を西に旧街道をとります。北花山バス停手前の脇道を北へ 上がると民家の中に元慶寺山門が見えます。

境内の北側は、JR琵琶湖線が走っており、南にはバスで5分も行くと、国道13号線や東海道 新幹線に当たりますから、日本の東西幹線がひしめき合って走っている真っ直中にあります。 (参考)「花山」での僧正遍昭の和歌 元慶寺の所在地「花山」を言及した僧正遍昭の和歌を手繰ってみましょう。 古今和歌集では、次のような歌があります。 ー志賀より帰りける女どもの、「花山」に入りて、藤の花のもとに立ち寄りて 帰りけるに、詠みて贈りけるー 僧正遍昭 「よそに見て帰らむ人に藤の花這ひまつわれよ枝は折るとも」 (古今集・巻二・春歌下・119) 京の都から見れば、比叡の東麓琵琶湖側にある志賀寺(崇福寺)に参詣した 「女ども」が、山科花山にある花山寺(元慶寺)には藤の花を見に立ち寄っただけで 帰京していったので、「ぼやきの遍昭」となったわけです。ぼやきもかなりしつこくて、 藤の蔓が「這いまつ」わっても、帰って行く人々を「引き留めよ」というわけです。 私家集の「遍昭集」には、次のような「花山」を言及した歌もあります。 ー春、「花山」に亭子法王御かうありて、とくかへらせたまひなむとせしときにー 「まてといはばいともかしこしはなやまにしばしとなかむとりのねもがな」 ーおなじやまに人のも(う)できて、ゆふかたかへりなむとせしに、よみはべりし、ー (古今和歌集の詞書き) 人の花山にまうで来て、夕さりつかた帰りなむといひける時によめる 「ゆふぐれのまがきはやまと見えななむよるはこえじとやどりとるべく」 何れの歌もせっかく京から「花山」の寺に来てくれたのだから、簡単に帰したくない なるべく長居して貰いたいと希う心がついついこのような詠みになってでるのでしょう。 人恋しい心持ちは人一倍多いと思われる僧正遍昭ならではの歌と言うことなのでしょう。 唐風の山門を入ってすぐ左手に「遍照僧正御墓」と刻まれた石碑があり、その奥まったところに 良岑宗貞と元慶寺の由来を記した石碑が建立されています。 本堂は誠にこじんまりした堂宇で周りの新築の民家に見劣りし、圧倒されそうになっています。 境内には、本堂の大きさに似合った紅葉の木が数本石畳参道の両脇に植えられていて、秋の紅葉の 時節には風情を添えているわけです。遍昭が座主になった頃の寺に規模は唐風の山門から推察するに かなり広大なものであったと、往時が偲ばれます。 それを推測させるのが遍昭の墳墓の位置です。
遍昭墳墓は一応元慶寺境内に石碑がありますが、実際の墳墓は寺からさらに南西方向に約10分ほど 歩いたところにありますから、往時の寺院の境内は、現在の本堂辺りから墳墓辺りまでの広大な地域で あったと考えたいところです。 墳墓へは元慶寺を出て、北花山の交差点を約5分ほど南下したところで、道路の左手の民家に囲まれ たところにただ一画鬱蒼とした大樹数本が小丘を為しています。

天皇の御陵並みに風格を持っており、僧正没後(寛平二年・890)約1100年の時に、小丘が 森に変じたものです。

元慶寺および墳墓は、北花山の東麓を望みますと音羽山(593m)、千頭丘 (604m)や醍醐山などの山並みさらに山科盆地が横たわっています。遍昭の墳墓から南西の方向に、 稲荷山(233m)があり、その山向こうには、伏見稲荷のある深草の地になり、彼の出仕した主で ある仁明天皇御陵が彼方にあります。 二人の永住の地は4kmと離れていません。彼岸に於いても、仁明天皇に伺候しているわけでしょう。 末永く主従関係を育まれますように。目次に戻る
(参考メモ) (その1)僧正遍昭の歌い振り 僧正遍昭の歌には、百人一首歌「天津風雲の通ひ路吹き閉じよ乙女の姿しばしとどめん」 のように、命令口調の歌語が所々に見られるのですが、これはかれの歌詠みの特徴と言う よりは、癖かも知れません。二三例を挙げますと次の通りです。 「花の色は霞みにこめて見せずとも香をだに盗め春の山風」 (古今集・巻二・春下・91) 「名に愛でて折れるばかりぞ女郎花我落ちにきとひとにかたるな」 (古今集・巻二・春下・226) 「いろをめでをれるばかりぞをみなへし我おちにきと人にかたるな」 (遍昭集・24) (その2)元慶寺と花山天皇 僧正遍昭(816〜886?)が貞観年間に山科花山に元慶寺を創設し、座主となり 花山僧正と称されましたが、この寺院が、遍昭のほぼ百年後第65代花山天皇(968〜 1008)にとって大変な出来事の舞台になってしまいました。 花山天皇は、父冷泉天皇、母藤原伊尹女懐子の第一皇子でした。永観二年(984) 即位、伊尹の子中納言義懐、左中弁惟成らを重用した政治を行うが、藤原兼家やその子息 道兼、藤原道隆、道綱らの策略により在位一年十ヶ月で出家に追い込まれます。兼家の 外孫にあたる懐仁親王(一条天皇)に皇位が移行します。 寛和元年(985)7月、花山天皇寵愛の弘徽殿女御が妊娠八ヶ月で死去。哀しみを 出家で煽ったのが藤原道兼で、一周忌直前の寛和二年6月22日、18歳の花山天皇は、 道兼にだまされて内裏から誘導され、夜密かに車で山科元慶寺に向かい、厳久僧によって 剃髪しています。 もともと政事以上に藝の世界に長けた天皇であったので、一時は「はかられた」と 思ったでしょうが、その後の人生を思うと却って謀略や策謀に渦巻く政界から身を退き、 好む風流世界に遊泳できた事を幸いとすべきかもしれません。 花山天皇が出家の道を歩まなかったら、西国三十三札所もご詠歌も後世の日本人は享受 出来なかったことになりますから。
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