敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 100 回  *** 第22番(その1) ***
*****  文屋康秀ー三河のあがたみ  *****

目    次
<三河国府> <三河国分寺> <豊川市> <さそふ水>

百人一首・第22番 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ


 第97回から第99回にわたって探訪した小町縁りの地は、余りにも多くの地域が全国に散在して
いました。その割りには、彼女が生涯で歌を交わした相手を数えますと、五指にもならないよう
です。古今和歌集には在原業平その他があげられていますが、「小町集」で名前が明記されている
人物は、34番歌と35番歌の「僧正遍昭」と、39番歌の「安倍清行」、さらに38番歌の
「文屋康秀」となります。
 以下に文屋康秀と僧正遍昭を追ってみましょう。

<三河国府>

 三河国へ下級官僚(三河掾)として今を去る1130年前の貞観年間(870年頃)赴任したのは、
文屋康秀です。彼は、古今集の序で六歌仙として数えられた平安初期の歌人です。
 官職の方は微官(従八位〜正六位)に終始したようです。治世面の功績より和歌の面で後世に名を
残すことになったわけです。三河掾として任国に下るに際して、小野小町を誘ったことが詞書き付きの
歌で古今集に残されています。

 「・・・文屋のやすひでが三河の掾になりて、「あがたみにはえいでたたじや」と、いいやれる
  ける返事によめる

  わびぬれば身を浮き草の根を絶えて誘ふ水あらばいなんとぞおもふ」
                           (古今集・巻第十八・雑下・938)

 甚だ消極的な意味合いで応答した小町であったのです。康秀の三河国東下りのおさそいに「諸手を
あげて喜んで行く」ほどでもないが、さりとて、「都にじっとしている気もない」という心境であった
様子が窺えます。

 三河(三州)国は、古来、京の都から見れば、東海道の東に位置する国防上要衝の地で、東は、
浜名湖の遠江(遠州)国に、西は尾張(尾州)国に接していて、濃尾平野の中心に位置し、現在の
愛知県の東半分に当たります。地区内には、東から豊橋市、豊川市、豊田市、豊明市など「豊」の字の
付く市が多く、さらに蒲郡市、岡崎市、安城市、知立市、刈谷市などがあり、南の三河湾に面しては、
赤穂浪士で悪名をいただいた吉良上野介義央の国元である吉良町が含まれています。

三河国周辺
 三河平野は昔は米を今は自動車を生産する地でもあるわけです。
 「三河国」の地名が現在に残っているのは、三河湾(渥美半島と知多半島に囲まれた部分)、三河
木綿(岡崎地方に産する木綿)、三州味噌(岡崎地方の味噌)であり、近世では、三河衆(三河出身で
徳川幕府創立に功績のあった武士)でしょう。三河衆の一人である大久保忠教が書いた「三河物語」が
あり、芸能面では、三河万歳などもあります。

 文屋康秀が在勤した三河国の国府は、現在の豊川市内白鳥町にあったと推定されています。
 東海道新幹線豊橋駅から名鉄名古屋本線に乗り換えて、国府(こう)駅で下車します。駅の西南
地区名は国府町ですから、古い国府や国分寺のある地区は、駅の東北の八幡台地となっています。

豊川市内国府町周辺の旧跡地
 三河平野の中心地であっても所々丘陵地の起伏があり、駅の東にある三河総社始め周辺にある神社
(久保神社、白鳥神社など)寺院(威宝院、曹源寺、正福寺、宝雲寺など)は、丘陵地または、その
裾野に建立されたようです。駅周辺は未だ民家が立て込む程ではなく、田舎の雰囲気を残しています。
駅のすぐ南を国道1号線が走っており、少し名古屋寄りには旧東海道筋の昔の環境を保っていると
いわれる「御油松並木道」があります。

舟山古墳
 昔からこの周辺には人が住みついていたらしく国府駅北側には、古代の舟山古墳があり、近世
江戸期には地元の俳人小林才二(米淋下)が建立したという芭蕉50回忌記念碑も西明寺への参詣道の
入口に立っています。

西明寺参道入口(五輪塔の脇に芭蕉句碑あり)
かげろふのわが肩に立つ紙子哉ーはせを翁ー
 国府の旧跡と推定されているのは、国府駅東に位置し大正9年に県社総社となったところで、村社は、
その南にある白鳥神社です。


 平成3年(1991)から9回にわたる発掘調査の結果、国府は三河総社東側曹源寺であったことが
判明しています。東隣の八幡台地には三河国分寺、国分尼寺跡が発掘調査で確認されています。
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<三河国分寺>

 三河総社から国分寺へは、国府から豊川市へ向かっている姫街道を渡ったところにある八幡宮の
東隣に行くことになります。
 聖武天皇の御代天平13年、全国に建立された国分寺は三河国でも、この八幡台地上に600尺
(180m)四方の築地塀に囲まれた区域に造営されたのです。
 現在金堂跡には、曹洞宗寺院が代わって建てられています。ただし現在でも築地塀跡は八幡宮の東側に
一部確認されており、正しく、三河平野に偉容を見せていたことと想像されます。

三河国分寺址(豊川市教育委員会発掘便り35より)

現在の国分寺(左)鐘楼(右)塔跡
 国分寺から少し北東の地には国分尼寺(現在は一部清光寺になっている)も併置されていたのです。
 こちらの伽藍も国分寺に創建を並べるほどの大規模な物であったと推定されており、三河国の中心と
しての役割を果たしていたのでしょう。
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<豊川市>

  国府周辺の当時の繁栄の様子は想像するしかありませんが、国分寺、国分尼寺の建物に代わって、
現在では、三河産業立国の象徴とも言うべき、大企業群の研究施設や工場が国府周辺に進出して
きました。
 三河国の1100年前の中心が国府であったとしますと、1100年後、東方の豊川市へ移動し、
豊川市の市街西地区に一大工業団地(穂ノ原地区)が構成されています。
 かっての三河の穀倉地帯としての稲架の波は、各種産業の工場棟に変わってゆき、作り出される
産物も米を始めとする農産物から、各種電気機器や機械工業関連製品に変わってきました。

 この変貌は過去1100年の内の最近の100年間のことでこれからの1000年後はどのような
模様替えが三河平野に展開されていくのでしょうか。
 ちなみに、現代の豊川市への赴任であれば文屋康秀も小野小町を道連れに誘わなくても十分活躍の
場があるいろいろの自治業務が待っている勤務地になって、喜び勇んで下国してきたかも知れません。

 近世でも特に明治期の豊川市の発展は、明治初年辺りからの豊川稲荷や豊川弁財天の門前町と
しての役目に基づいており、工業団地化の現象は、昭和年代後期の社会の要求に対応してきたことを
考えるとき、これからの豊川市の発展も将来の時代毎の求めるところに応じて様々な三河の地に
立脚した自治集団の形態をとりながら、自治体としての変貌を遂げ、変遷していくことになるでしょう。

 (注)豊川市関係一口メモ  面積:65平方km 人口:11万3000人
    豊川稲荷一口メモ   円福山妙厳寺(神仏混合寺) 門前町旅館約30軒
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<さそふ水>

 「三河下り」の文屋康秀と誘われた小野小町に関連してかの在原業平や平重衡などの東下りが思い
だされます。三河国は知多半島東端で海に注いでいる境川の東一帯ですから、京の都から東国へ行く
には必ず、通過しなければいけない国です。三河国も矢作川(御河みかわ)を境にして、西三河と
東三河に分かれていました。

(その1)持統太上天皇三河御幸
     大宝二年(702)十月、大和から伊賀、伊勢に出て、多気郡的形(円方之湊)から
     船で三河に向かったとされています。
     その目的は、大和朝廷体制の確立にあったという見方もされています。すなわち丁度
     その30年前の壬申の乱に尾張国と共に太上天皇の夫君大海人皇子・天武天皇側を支援した
     三河国への論功行賞を遅ればせながら行うことによって、東国地方の統括を目指したと
     されるのです。それだけ尾張を含めて三河国は畿内朝廷にとっては東国の重要な地方で
     あったのでしょう。万葉集では、 

     「二年壬寅太上天皇の参河国に幸しし時の歌
      
      引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
  
      右一首、長忌寸奥麻呂  (巻第一・57番歌)

      いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚なし小舟

      右一首、高市連黒人   (巻第一・58番歌)」

     この引馬野や安礼の崎は三河国府近くの三河湾に面した湊と推定されてます。


(その2)在原業平東下り
     伊勢物語第9段には、次のように三河国が言及されています。
  
      ・・・みかわのくに、やつはしといふところにいたりぬ。そこをやつはしといひけるは、
      みずゆく河のくもでなれば、はしをやつわたせるによりてなむ、やつはしといひける。
      そのさはのほとりの木のかげにおりゐて、」かれいひくひけり。 
      そのさはに、かきつばた、いとおもしろくさきたり。それをみて、ある人のいはく、
      「かきつばたといふいつもじをくのかみにすゑて、たびの心をよめ」といひければ、
      よめる、

       からごろもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ
 
      とよみければ、みな人、かれいひのうへになみだおとして、ほとびにけり。・・・

     この三河国八橋で男が詠んだ折り句として有名な歌で、旧跡になったところは、名鉄三河線
     知立市と豊田市の間で八橋城趾近郊の八橋駅周辺です。旧鎌倉街道に沿って逢妻川の西側は
     「業平池」があり、五輪橋付近には、「業平塚」が、鎌倉街道碑(根上の松)近くには、
     「在原寺」が、さらには無量寿寺には、折り句題の「かきつばた」が名物になっています。

三河八橋関連地
八橋かきつばた園
(その3)平重衡の海道下り
     「平家物語」(巻第十・海道下)では、伊勢物語の業平東下りを引用して、鎌倉の源頼朝の
     下へ護送されて行く重衡の辛い重罪人の旅路が紹介されています。

     「さる程に、本三位中将をば、・・・・・さらば下さるべしとて、・・・同三月十日、
      梶原平三景時に具せられて、鎌倉へこそ下られけれ。西国より生け捕りにせられ、
      都へ返るだに口惜しきに、今又関の東へ趣かれけん心の中、推量られて哀也。・・・
      ・・・こころをとむとしなけれども、荒て中中優しきは、不破の関屋の板びさし、
      如何になるみの塩干潟、涙に袖はしをれつつ、彼在原のなにがしの、唐ころもきつつ
      なれにしとながめけん、参河国八橋にも成りぬれば、蛛手に物をと哀也。・・・」

     こんな惨めな気持ちで、東国へ下らなければならなかった重衡の心境は文屋康秀が小町を
     誘った旅とは比べ物にならない運命の道行きであったことでしょう。
     その時代毎にいろいろな思いを抱いて、三河国を通過していった人は、一帯何人いる
     でしょうか。鎌倉街道の思いを寄せるとき多くの人の旅行く喧噪が聞こえてきます。


(その4)織田・豊臣・徳川の国開き
     持統太上天皇が三河国を重視していたことは、それから時代が下がること、約850年
     後に於ける尾張や三河国から始まるところの「近世への胎動」から見ても頷けることで
     しょう。
     日本国の中央部分に位置する尾張・美濃の地方から国家統一への動きが開始しました。
     三河の桶狭間の合戦によって、近世への道は、織田信長によって勢い付けられ、その
     「近世社会への時代奔流」は、尾張中村出身の豊臣秀吉に引き継がれ、さらに隣国の
     三河国岡崎出身の徳川家康が締めくくりました。
     併せて、日本の中心は、京の都から東下りして、関東の地に江戸期を拓いたのです。

     大和朝廷の時には、殆ど注目されなかった尾張の東側のと動く諸国は千年後に大和に
     取って代わる中心地になったわけです。
     近世・近代の数百年は、「濃・尾・参」を中心に展開された歴史であったとも言え
     ましょう。これらの動きの基になったのは、その国々の国力のなさしめるところでしょう。
     豊かな穀倉平野の産み出した歴史と言い換えることが出来ます。

 文屋康秀は「三河のあがたみ」と軽く言いながら、一体どのような地域評価をしていたのでしょうか。
まさか彼から数百年後に日本を大きく揺るがす動きの原動力となるところとは思っても見なかった
でしょう。
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平成14年12月10日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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