いったいに和歌を詠むということは、人の思っていること、感じたこと、見たことなどを、
何とか人に伝えたい、あるいは、言葉にして残しておきたいということに基づいています。
古今和歌集の仮名序に言うように、「人の心を種として、万の言の葉」となり、「心に思うことを、
見るもの、聞くものについて、言ひ出だせる」ものであるわけです。
また、「たとひ時移り事去り、楽しび哀しびゆきかふとも、この歌の文字」は永遠に残り,
伝えられて行くであろうと思われます。
いずれの時でも、人々の「心に思ふこと」「見るもの」「聞くもの」は、男女のことであり、
美しいもの、憧れるものなどであるわけです。千年前の歌を詠む対象が、それらであったように、
平成現代の短歌でも、歌の対象は全く変わることがありません。
多分千年後の日本においても、和歌は残っており、人々によって世に伝えられていることでしょう。
しかもその対象は、古今集や百人一首に詠まれているところの「逢ふ」という
「心に思ふこと」をはじめとするものであるに違いありません。
人々の心に何か訴えるものでなければ、和歌の命はなく、詠まれてもすぐに忘れ去られて
しまいます。
しかし、一旦、誰かの人の心によって言霊としての命が吹きこまれた和歌は、永遠にその後の時代にも
日本民族の中で営々と伝えられてきましたし、今後も伝承されていくことでしょう。
人を理解すること、人を理解させることのむづかしさは、ギリシャやローマ時代でも、
現代でも、さらには、来る未来でも変わることはないと思われます。
ところが同時代人の間での意志の伝達は、逢うことが最良の方法ですが、昔に人に
逢うためには、やはり大半は書き物に記して残しておく必要があるわけです。
現在では、映像も音声も残せるのですが、千年前では、書き残すことが、唯一の方法だったのです。
しかもその最良の方法が、「敷島の道」だったのです。言い残した人も、
言い残された人も、容易に後世に言いたいことを伝え続けて来たのが、和歌の数々です。
この道は、大切な情報手段として、千年後にも伝えていかなければなしません。
八世紀後半の万葉時代及び九世紀から十世紀の古今集時代から、さらにはその後の
二百年間の新古今集に至る八大集の時代を経て、この細長い日本列島の中で、
日本民族に語り継がれてきたものが、和歌すなわち「敷島の道」であるわけです。
まさに日本民族は五七五七七のわづか三十一文字を使ってその歴史を語り継いできたとも言えます。
この民族にとっては五七五七七の言葉の醸し出す韻律が体質的にあっていたのでしょう。
飛鳥文化から千四百年の間に多種多様な外国の文化を受け入れ、育み、又自から日本独特の文化も
創り出しながら、常にそれらの基になってきたのが、和歌であったと考えられます。
従ってこれまでの千年、あるいは、千五百年がそうであったように、来る千年や
千五百年後も「敷島の道」は続いていくものと見て間違いないでしょう。
和歌によって語り継がれてきたその時々の人々の感情は、時代が変わっても変わるものではない
事が解ります。時代とともに変わるものは、人の内面ではなくて、物理的な人の外部の事象だけと
思われます。時代とともに変わる外部の事象とは、衣食住に始まって諸々の人の手になった人為的なものや
人工物ということになり、これらのものだけが、時代を感じさせてくれるのです。
人を受け入れているこの世での森羅万象は、変わることがありませんから、昔の人も現代の人も
花鳥風月に感じる心は、同じように、ともに喜びともに悲しむことが出来るのです。
この辺の機微は、紀貫之等が古今和歌集の序の部分で見事に述べております。
もっとも千年前の人々の感じた世界は、現代の我々が感じる世界より広がりのあるもののように思うのは、
ものの量の多い少ないに関係しているように思います。
すなわち、人工物が少ないほど感情の世界が広がり、人工物が人の前に溢れれば溢れるほど、
感情の世界は狭くなるのではないでしょうか。一言で言えば、精神世界の深さと物質文明の
創り出す世界の範囲との差と言えるかもしれません。
平安遷都1210年記念・時代祭の日
磯城島綜芸堂・主筆 謹 言
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