シャン州を訪ねる (2004426日‐57日)

 

1章 シャン州南部(カロゥ・ピンダヤ・タウンジー)

 

430日(タウンジー・カクー・タウンジー)

 

 夜寝るのが早いせいで、朝の寝覚めが早くなる。ホテルの裏門を出ると町の中心部への抜け道らしく、松葉が落ちたアスファルトの上を乗合バスがときおり通る。民家が少しあり、ティーハウスが一軒開いている。朝の早い近所の住民なのか、席はほぼ埋まっている。ティーを飲んでいると、外国人は珍しいのか、或いは別の理由があるのか、少し雰囲気がぎこちない。コンデンスミルクに煮出した紅茶は美味いが。

 

 車でホテルを出て、昨夕登った背後の山のパゴダから朝の光のタウンジーを眺める。高原の清々しい空気の中ではっきりタウンジーの町が見え、昨夜少し話題になったタウンジーホテルの場所は目線のすぐ下に確認できた。ただ、ヨンホェ(ニャウンシュエ)の平野は朝靄がかかり、昨日見えたインレー湖は靄の中である。

 

 カクー(Kakku)の遺跡は1991年にビルマ軍と休戦協定を結んだパオー族の反政府勢力PNOPa-O National Organisation)の支配地域にあり、現在PNOはビルマ政府から地方民兵軍として認定され、一定の自治権を得ている。PNOも観光に積極的で、数百本のパゴダが林立する珍しい風景が新しい観光地として、近年注目されるようになった。

 遺跡を訪れるには、まず車でタウンジー市内のPNOが経営する旅行エージェント事務所に出向いて申し込み、そこからパオー族の民族衣装を着たガイドの娘が添乗して案内する仕組みである。市内の街道に面した事務所の前で待っていると、ビルマ国軍の軍用トラックが装備を満載しその上に兵隊を乗せて数台通過して行く。郊外の兵舎に向かうのか、それともシャン州南部の交戦地帯に向かうのか。

 

       

タウンジーの町                                                            タウンジーの市内

 

 パオー族のガイドは立派な英語を話す。平野から数百メートル山を登ったタウンジーは英国が来るまでパオーの居住地で、南に向かって町を出るあたりが古いパオーの集落だったらしい。町を出た街道沿いの家にガイドが申告する。ここがPNOのチェックポイント。ほぼ真南に走る道路に沿って、鉄道の線路がある。近年モンナイ(モネー)まで繋がった路線でカクー遺跡の傍も通る。今は一日2便運行して、住民も利用しているとのこと。

 

 ガイドにパオーの伝承について尋ねる。民族的に近いカレン(カイン)族との関係については、「昔は一緒の場所に住んでいて、狩りの獲物は半分づつにする約束だった。あるときカレンがとげの長いハリネズミを獲ったので半分をパオーに分けたが、長いとげを見たパオーは獲物はもっと大きな動物だったのではと疑いの気持ちを抱き、一緒に住めないと考えて分かれた」。

 パオー族の現在の居住地への移入については、「モンのマヌーハ王の時代、パオーはタトン(Thaton)に住んでいたが、マヌーハがパガンに敗れて連行され、王がいなくなったので今の山間地に移り住むようになった」。

 

 いくつか集落を抜けて2時間ばかり走ると、カクーの遺跡に着く。左手に林立するパゴダがあり、右手に大きなレストラン兼休憩所がある。西の高い山を歩いて越えるとインレー湖畔のナムパンに至り、マーケットが立つ町。遺跡の前の道をさらに1時間ばかり進むとPNOの拠点で、指導者アウン・カムティ(Aung Kam Hti)が住むチャウタロン(Kyauk Ta Lone)の町に至るそうである。なによりガイドの語り口が誇らしげなのが印象的。ビルマ軍は武装してパオー地域には入らない約束とのこと。

 

       

カクー遺跡                                                                   中央参道

 

      

カクー遺跡                                                                   木が根をはった仏塔

 

 遺跡は東に向かって緩やかに登りの傾斜があり、人の身長の倍ほどの高さのパゴダ群を貫く中央参道は新しいタイル張りでやや趣に欠ける。中央部のパゴダは修復がされたりして保存状態が良いが、林立する奥には樹木が根を張って朽ちかけたものがあり、一時は遺跡全体が忘れられ草木に覆われていた可能性を示している。

 パオーのガイドによれば、伝説では12世紀初めのアラウンシトゥーの名などが語られるが、現存のパゴダのほとんどはコンバウン期(18世紀)のものらしいという穏当な説明。カクー(Kakku)の地名は、パオー語で境界の意味がありヨンホェ(ニャウンシュエ)領とシサイ(シーセン)領の境だという説明も納得できる。別名でワットグーとも言い、グーはパオー語の豚で、草に埋もれた遺跡を豚が見つけた説話があるそうだ。

確かに遺跡奥の主塔の裏にまわると、高台になった遺跡の下から東に向かって水田が広がる山間盆地が開け、そこはシサイのムアン(盆地低部で水稲耕作を行なうタイ(Tai)族を中心に、周辺の山地民との市場での相互補完的交換を含んだ政治・経済・社会的まとまり)世界だと実感できる。

 視線の少しさきに木に囲まれた集落が見え、ガイドの話では戦争の時にやって来た中国人が残って住んでいると言う。どうも先日のパンタラ(ピンダヤ)の古老の話にもあったが、1942年の日本軍侵攻直前に中国軍が南シャン州まで入っていたようである。

 敷地の北側には僧が止住する寺院があり、そこにつながる回廊の脇に、草木に覆われたこの遺跡を発見したとされる大きな金色の豚の像が置かれている。

 

 最近手入れされた主塔や回廊部に、漢字で書かれたシンガポール人の寄進板が並ぶ。遺跡の最近の整備についてガイドの説明では、シンガポール華人の僧が夢枕に遺跡を見、それを求めてあちこち探し回って遂にここに至り着き、ここがまさに夢に現れた遺跡だったという話。ラングーン(ヤンゴン)に在るスリ・アジアという旅行会社(Sri Asia Company)がそのシンガポール僧を連れて来たという話も。とにかく寄進板を見る限り2001年にシンガポール人がこぞって寄進・整備した様子である。本当に不思議な因縁譚なのか、歴史の浅いシンガポール華人の弱みを衝いた新手の観光開発なのか、それとも別の裏があるのか。

 

      

遺跡の裏                                                                      遺跡の裏

 

 折からの通り雨、遺跡の向かいのレストハウスに駆け込む。パオーの料理ができると言うのでそれを注文。北タイやシャンと同じで、米(ここは粳米)を数種類のおかずとスープで食べる。調味料として赤唐辛子や発酵した納豆を用いるが全体にマイルドな味付け。鶏のカレー、大蒜と油であっさり炒めた野菜が美味しい。食事を見る限り、山地民というよりかなりタイ(Tai)に近い。

 同行のHさんもこれは美味しいと言う。ビルマ(ミャンマー)渡航歴25回だが、中華料理しか食べないそうで、ローカルフードは初めてに近いとのこと。曰く「ミャンマー料理は油が多くて、その割には生煮えのようなところがあって・・・」、どうもこの世代の方にビルマの文化とパオーであれシャンであれエスニック地域の文化は違うのだと説明するのは難しい。意識としてすべからく「ミャンマー料理」でくくられてしまう。特に山間地のタイ(Tai)(北部タイ、シャン、雲南省)の食文化は日本に非常に近いのだが。

 

 ガイドによるとパオー族の人口は100万人ぐらい、カクーの遺跡を訪れる外国人は年間500人ほどでフランス・ドイツ・イタリアなど欧州人が多いそうである。パオーの一般的習俗については、高床の家屋に住み、家禽は牛・水牛・豚・鶏、仏教徒だが新月と満月には精霊に米と果物を供える。衣装は黒の袖なし貫頭衣にズボン、黒の長めのジャケットをはおり、頭には色布を数回巻きつけたターバン、シャンバッグを肩に掛ける。

 雨が過ぎて、午後の陽光が射す道を戻る。自転車に乗ったインド人の行商人とすれ違うと、ガイドは「あの人は毎日、半日かけてチャウタロンの町までアイスキャンデーを売りに来る」と言う。

高原台地を走る道と東側の遠い山並みとの間にシサイ領の水田盆地が広がっている。「この辺の人は牛や水牛を育ててタイに売りに行く」そうで、「途中は別の反政府組織の支配地域を通って行く」のだそうだ。確かに2002年末に訪れたメーホンソン県のシャン国境付近には牛を集めておく農場があって、牛をいっぱい積んだトラックがタイの国道を走っていた。地元の人間がガソリン缶を担いでシャン州側に通過する小さな国境を警備していたタイ軍兵士も、「向こうからは牛が来る」と言っていた。

 

 途中、ワンヤというやや大きいパオー村に入り、家のひとつに上がりこむ。この村は、外国人観光客がパオーの村を見たいと言った場合に案内するところらしい。高床家屋は床下部分も竹を編んだ薄壁で囲み、階段の上がり口までを軒で覆っている。竹敷きの床で、奥の間の中央に囲炉裏が切ってあり、病気だというパオーの婦人が囲炉裏端で休んでいた。ガイドの知り合いというわけでもないらしいが、「パオー族は遠慮なく他人の家を訪れる」そうである。すぐにこの家の老人が上がってきてお茶を煎れてくれる。同行のHさんが旧日本軍の兵隊だった話から、老人は当時の記憶を語り出した。

 

「ヨンホェの『チャオパー』から労働力提供の要求があり、一回10日間で3度、『ロックチョック』の飛行場建設に行った。指揮する日本兵は1人で、3人一組のグループに分けられ、それぞれ1日の作業割当が指示され、早く終わればその日は帰ってよかった。11.5ルピーの日当が支払われた」。

「自分はパオー族なのに、日本兵は『ビルマ、ビルマ』と呼び、作業の途中、休憩の合図に言うのが初めはわからなかったが、訛ったビルマ語だった」。

 Hさんによれば、ビルマ語の「座れ」を号令に使ったそうだ。この場のやりとりは、老人がパオー語で話し、パオーのガイドがビルマ語にし、同行しているビルマ人のガイドが日本語でHさんに説明するのである。この話でわかるのは、パオーの老人はビルマ語を話さないし、彼のパオー語に出る『チャオパー(ソーボワ)』や『ロックチョック(ロックソック)』はシャン(Tai)語よりもタイ(Thai)語に近い音である。

 英語でパオーのガイドに質問すれば、パオー語・英語の二段階だけでビルマ語なしに返ってくる。英領期のシャン州の公用語は英語とシャン語だったから、この老人にはビルマ語を話す機会はほとんどなかったはずである。ガイドによれば、現在のパオー支配地域では、ビルマ語以外にパオー語教育の時間があるとのこと。

 

 労務提供について、「ヨンホェのソーボワの軍隊というのは英軍だったから日本占領下では人が居ず、日本軍から人員を要求されたソーボワはパオー族に要請した」と言う。このヨンホェソーボワとは、後のビルマ連邦初代大統領になるサオ・シュエ・タイクである。ここのパオー族はヨンホェの上位権の下にあったという意味だ。伝統的なタイ系ムアン(盆地政体)に於ける首長と山地民との関係は、各山地民グループごとに様々な条件で賦課や役務提供を約しているから、この話もそのような構図だろう。

 他には、彼もやはり「戦争の初期に中国軍が来て、日本軍が侵攻してくると逃げ遅れた中国軍兵士が村に隠れていたりした」と言う。また「戦争の終わりには、南のロイコゥやタイ国境方向に撤退する日本兵が多く、牛車で途中まで送ったこともある」そうだ。

 

 話を聞いていたHさんは、「日本人がいろいろお世話になった」とか、「軍票は紙切れになってしまって」とか、「自分も戦後はヤンゴンの収容所に居て、2年近くミャンマーの為に道路工事などをしました」と言うのだが、パオーの老人はさして興味を示す様子がない。

 

思うに、このパオーの老人の視点を想像すれば、『大英帝国インド王国シャン連邦ヨンホェ藩のパオー村で生まれ、英国人の姿はほとんど見たことがなく、英国が逃げ出した噂のあとに中国軍がこの地域に現れ、すぐに日本軍がやって来て、ソーボワの指示で飛行場造りにかり出されたり、撤退する日本兵を牛車に乗せたりするうちに、また英国が帰って来た。ほどなくビルマ連邦とかいうものができてソーボワはその大統領になったそうだが、カチンやカレンや共産主義者が内戦を始め、この辺りではパオー族の独立を求めるグループが武装闘争に入り、暫らくすると一旦武装闘争は落ち着きかけて、その頃ソーボワも普通の人になった。ソーボワはビルマで死んだらしいが、またパオーの武装闘争が始まり、そこにビルマ軍とか国民党とか共産党とかシャン州軍とかクン・サーとかいろいろ在るそうで、遠い親戚かもしれないカレンやカレンニーはビルマ軍と激しい戦争をしているらしい。まあとにかくこの辺では、10年ほど前にパオーの指導者のアウン・カムティがビルマと休戦協定を結んで、弾が飛び交うことは無いしビルマ軍もここには来ない。近頃は、外国人の観光客というのが前の道を通ってカクーの仏塔を見に行き、案内のパオー娘と一緒にワシの家に上がりこんで来るようだ』ぐらいではなかろうか。

 

       

パオーの家                                                                   パオーの家 手前左がガイド

 

 午後4時ごろタウンジーに着き、パオーの旅行エージェントまでパオーのガイドを送って、ホテルに戻る。さきほどの村について、「パオーの老人はパオー語を話していましたね」と言うと、Hさんはそれに気付いていなかった。『ミャンマーの人は、ミャンマー語を話して、ミャンマー料理を食べている』というのが訪問25回目のHさんであっても、やはり日本人の固定観念であるようだ。「ミャンマー」と言い替えても、そこにはビルマやシャンやパオーやカレンやその他いっぱいあって、それがそれぞれの言葉や料理や文化や歴史や習慣を持っていることになかなか気付いてもらえない。とは言え、都市部に住むミャンマーの中国人(華人)とかインド人は区別されるのだが、その他は押しなべてミャンマーの人で、料理も中華以外はミャンマーの料理でくくられてしまう。

いみじくもパオーの老人が言った「自分はパオーなのに『ビルマ、ビルマ』と呼んで、ビルマ語で号令をかける」のとそう変わっていない気がする。また戦争経験者の方からしばしば「ミャンマー(ビルマ)の人からは敗走時や収容所時代に食糧をもらったりしてお世話になった」の言葉を聞く。しかし、たいていの場合、その場所はカチン州やシャン州やカレン州やモン州のエスニック地域である。

まあ、こういう話はタウンジーに戻ると思わず辺りを見回してからしなければイケナイ気になる。パオーの村では遠慮なく話ができたし、何よりパオーのガイドの凛々しさとでも言うか、ある種の誇りと、パオーの老人の自由さが印象深い。

 

 夕方、ホテルから裏道を町の中心方向に歩いてみる。松林の間に植民地時代の屋敷が続き、大きな建物は政府関係の機関が入っている。数百メートル歩いてからメインストリートに出ると、少し先にモスクがある。今日は金曜日でイスラームの礼拝日である。どんな人々が集まるのかと覗きに行く。

日没の祈りには少し早く、人がまだいない小ぶりのモスクの入口にいた少年に話しかけると、奥からイマーム(寺院の指導者)を呼んで来た。1939年メイクティラ生まれのインド人ムスリムで、祖父はパンジャビ、父はインド人の母から生まれ、二世代英国印度軍の軍人だった。1960年代にパキスタン国境に近いインドのイスラーム学院で学ぶ。

 

     

夕暮れのタウンジー                                                     屋敷

 

タウンジーには現在4つのモスクがあって、ここはインド人ムスリムのモスク、パンデー(中国人ムスリム)モスクは市場の近くにある。やはり「ナショナリストの時代に多くのインド人・パキスタン人商人が国に帰った」から、今のムスリム人口は少ないという言葉が出る。

 パンデーのモスクを見に行く。日没の祈りが近づき、人が集まって来ている。ここのイマームなのか、見慣れぬ奴が覗きに来たなとこちらに注意を向けたちょっと偉そうな人物に話しかけると、「このモスクは百年以上の歴史があり、今のタウンジーのパンデーは800人」、もう日没の祈りを始めるから、「暇な時に来れば知っている限りのことは話す」と言われる。明日はもうマンダレーに移動だからと、謝辞を述べ退出。ちょうどミナレットの上で礼拝を告げるアザーンが始まる。なんとここは肉声である。塔の回廊に立った人物の「アラーは偉大なり」の呼びかけが夕暮れのタウンジーに響く。

 

       

インドイスラームモスク                                              パンデーモスクのミナレット

 

 タウンジー最後の夕食は、昨日サオ・キャオムンと昼食をした店に行くことになった。シャン料理を食べさせる店はないのかホテルや運転手に尋ねても、ラングーン(ヤンゴン)やマンダレーならその看板を揚げて商売になるが、「シャン州ではみんな家で食べるから、わざわざ表に食べに行くときは中華料理店に行くのだ」と、2年前のチェントゥン(チャイントン)と同じ答だった。

 

 51日(タウンジー・ヘホー空港)

 

 朝食後、タウンジーの市場に寄ってからヘホー空港に向かう予定で早めにホテルを出発する。町の中心の交差点を通るたびに気になったシーク寺院を覗く。

メインストリートに面した一階は中央の寺院入口をはさんで両側に普通の商店が軒を連ね、二階と三階は寺院らしい造りの建物である。英領インド軍の主力だったパンジャブ人だから、今はどうなっているのか知りたかった。門を入ると小さな吹き抜けの空間があって、両側に二階への階段が設けられ、イタリアの建築物を思わせる。中庭にいた人物に挨拶し、今のタウンジーにシーク教徒がどれくらい居るのか尋ねていると、奥から姿を現わした婦人が「36世帯で総数150人ぐらい」だと答える。英印軍や植民地政府の雇員はとうの昔にいなくなったから、今居るのは商人ということになる。

国有化の時代には多くのインド・パキスタン系住民と同じで大勢帰国したはずですよねと確認すると、「そうだ」と言う返事。思わず「残った人はなぜ残ったのでしょう?」と訊いてしまった。簡単に答えられる質問ではないのだが、まあ予想通り「帰らない人は帰らなかった」というインド的と言うか、禅問答のような答を聞いて、「そうでしょうね」と応じるしかなかった。

 

 タウンジーのマーケットは3階建てのビルが四方を囲む、街路の一区画を占めている。人も多くにぎわってはいるが、特に惹きつけるものを感じない。インドとまでは言わずとも、香港のあちこちに在る「街市」や、バンコクならヤワラーの横道など、うっかりしていると生肉を切る血しぶきを浴びそうになる雑然や、手押し車やバイクが狭い通りの買い物客の波を分ける喧噪、そして何よりも、次に思いもかけない商品や光景が目に飛び込んできそうな期待というものがない。市場という場所が社会を映すものだとすれば、ここは混沌を管理され生身のダイナミズムを骨抜きにされた、スープの上澄みのような感覚か。

 

       

タウンジー市場                                                            タウンジー市場

 

       

タウンジー市場                                                            タウンジー市場

 

      

タウンジー市場                                                            タウンジー市場

 

 タウンジーの急坂を下り、シュエニャウンの町を抜け、再び坂を登ってヘホーの空港に至る。門の中には乗降客しか入れない空港の待合室に、大勢の軍人が詰めかけていた。ほぼ同じ時間帯に、ラングーン(ヤンゴン)からのミャンマー航空、マンダレー航空、ヤンゴン航空の3便が順に着陸する。ミャンマー航空だけはジェット機で、軍人の数人が乗り込む。大勢いた軍人のほとんどは上官の見送りに来ていたようだ。ビルマ人ガイドの話では、ミャンマー航空の予約は取りにくく、突然の変更や欠航も多いそうである。

待合室の一般人の顔を見ていると中国系が多い。こういう地方空港にはとんちんかんな乗客もいるもので、やはり服装や顔立ちから中国の田舎に居そうな一人旅の娘はビルマ語がわからず、待合室の人並みが動くたびに搭乗口に向かおうとする。胸に貼られた象のシールはヤンゴン航空の乗客だが、彼女が乗るのは3便続く飛行機の最後である。どうやらターキレク(タチレーク)かチェントゥン(チャイントン)に行くらしい。

 

 最後に着いたヤンゴン航空の飛行機から数人の到着客が降り、待合室に残っていたマンダレー・ターキレク(タチレーク)・チェントゥン(チャイントン)方面行きヤンゴン航空の乗客が動き出す。

 

 

 

シャン州北部1につづく

 

 

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