シャン州を訪ねる (2004年4月26日‐5月7日)
第1章 シャン州南部(カロゥ・ピンダヤ・タウンジー)
4月28日(ピンダヤ・ヘホー・シュエニャウン・タウンニー・ヨンホェ・タウンジー)
翌朝、鳥の声に起きだして、洞窟寺院に向かう菩提樹の並木を散歩する。昇ったばかりの太陽が朝靄をはらいながら低い光を投げかける道路の向こうから、二頭牽きの牛車が姿をあらわす。そのあとからは、朝の市場に売りに行くのか、野菜を持った人影がしっかりした足取りで通り過ぎる。道路には電柱や電線がなく、道を行き交う車やその騒々しいエンジン音もない。ときおりのバイクが、にぎやかな鳥のさえずりをかき消して過ぎるだけだ。開発の遅れとも言うが、ここには数十年前の風景が残っていることも確かだ。

ピンダヤの朝 ピンダヤの朝
湖のほとりから洞窟寺院の山腹を眺め、パンタラ(ピンダヤ)を後にする。昨日の道をアウンバンに戻り、ティーハウスで休憩して、さらにヘホーまで一昨日走った道をたどる。ヘホーの町は、5日ごとの市場日にあたっていた。車を止めて市場を歩く。黒い衣装のパオー族の集団がいくつか居て、買い物をしている。だがここでも、期待ほどエスニックな衣装は見られない。
ちょうど腕時計のバンドが傷んでいたので、インド人の屋台で替えのものがあるか尋ねる。最初に800 Kyat(チャット)(日本円で100円ほど)のものを見せるが、材質が悪く皮膚が荒れそう。日本のメーカー名が入った替えバンドを取り出し、これは上等だから2500 Kyatとか言い出す。相手はインド人であるから、ビルマで生まれたのかなどと、世間話をしながら値切ってみる。なかなか値段が下がらず、どうやら本当に質が良さそうなので2300 Kyat あたりで折り合う。ネ・ウィン時代の強引な経済国有化で、多くのインド系住民が去ったと聞いているが、残った者もいるのは確かだ。

ヘホー市場 ヘホー市場のパオー族

ヘホー市場 ヘホー市場
ヘホーから東にタウンジーに向かう。インレー湖の平野へはかなりの高低差があり、平行する鉄道線路はループを設けて下っている。ヨンホェ(ニャウンシュエ)へと南下する道の分岐点がシュエニャウンの町。ここから北に向かう道路もあり、パンタラ(ピンダヤ)からは廻れなかったロックソック(ヤソーク)に通じている。現在のロックソック郊外にはバトーミョーというビルマ軍の施設が集中した場所があり、これが外国人に対してこの地域の立入を制限している理由らしい。ちなみにバトー兵営は、ネ・ウィンクーデタの1962年3月2日早朝、タウンジーからヘホー空港に向かう途中で行方不明になったシポーのソーボワが数日軟禁されていたと噂される場所である。
地元の運転手(シュエニャウン在住のインダー族)によれば、北に十数キロのタウンニー村までは行けると言うのでそこに向かう。タウンジーと似た名前だが、タウン(山)ジー(大きい)に対して、タウン(山)ニー(赤い)というビルマ語である。第二次大戦の日本軍関係資料によれば、トラック部隊の分隊がタウンニー村に駐屯していた。そこにチェーンを受け取りに行ったロイレム駐屯の輜重隊(「祭」師団)の方から話を聞いたこともある。また、ヘホー飛行場の施設部隊は、1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)初めにかけて数箇所の秘匿飛行場(秘密の仮設飛行場)建設を行ない、ひとつはこの街道を行ったロックソック郊外で、ちょうど温泉が湧いているのを見つけて風呂場を作った話も聞いた。
北に向かう道路に沿って鉄道が出来ていて、バトーまで通じている。タウンニー村は、街道に沿って両側に家屋が並ぶ小さな集落だった。ティーハウスがあって、住民らしい男たちが集まっているので古老がいないかと尋ねてみた。70歳を越えるひとりの老人は、「中部ビルマのミンジャン辺りの生まれで、1971年にこの村に移入して来た。当時民家は数戸だった」と言う。中部ビルマと較べて「ここは土地も気候も良い」そうだ。
昔からここに住んでいた人はいないのかと訊くと、店にいた男たちが相談して二人の老人を呼んで来た。やって来たのはふたりともパオー族で、ひとりは戦争の始まった頃、寺の小僧をしていたそうだが日本軍の確かな記憶はない。空襲が始まったのでふたりとも森の中に3年間逃げていて、村の様子はわからないとのこと。

タウンニー村 パオー族の老人
昔からあった寺を訪ねると、仏塔は新たに建築中。止住する僧は、「1971年ごろモン州からここに移って来た」そうで、自身はパオー族。「当時、このあたりは難しいことがあって・・・」という言いかたをする。現在僧院では60名ほどの沙弥(少年僧)が学んでいて、いずれはそれぞれの村に戻るのだそうである。やはりパオー族出身者が多いらしい。
どうもこの村に、古くからの住民は少ないようである。ティーハウスにいた男たちはビルマ族で、1971年に中部ビルマから移入した老人が「数戸あった」という家は中国人の商店を含んでのことだ。パオー族の老人以外、やはりパオー出身の南から来た僧は1971年ごろの移入を語る。これはつまり、1960年代後半に住民の移動が在ったことを示すのか?
シュエニャウンに戻り、南に下ってインレー湖畔のヨンホェ(ニャウンシュエ)で昼食をとることに決める。曇り空から雨が降りだす。道路の左手には水路と浮き草の島があり、右手は西に見える山の裾まで見事な緑の水田が広がっている。
ヨンホェは南シャン州ではサルウィン河東岸のチェントゥンを別にして、モンナイ(モネー)と並ぶ大きな藩だったが、降り出した雨のせいかヨンホェの町に人影は少ない。客のいない中華料理店で食事をして雨が弱まるのを待つ。少し小降りになったのを見て、ヨンホェのホウ(ソーボワ館)を訪れる。
ここの最後の主はサオ・シュエ・タイク、1927年ソーボワ位に着き、1948年独立時はビルマ連邦初代大統領、1962年のクーデタ当時は民族院(上院)の議長だった。3月2日未明、ラングーンの屋敷で武装したネ・ウィンの国軍部隊による銃撃のあと拘束され、同年秋にインセンの刑務所から遺体になって戻った人物である。
その第一夫人(マハデヴィ)サオ・ナン・ハン・カムは北センウィー藩ソーボワだったクン・サン・トン・フンの娘で、1964年タイ国への脱出以後、昨2003年1月カナダで亡くなるまで国外からシャン州の反政府活動を支援した。彼女の実子のひとりチャオ・ツァーン・ヨンホェは、ラングーン大学卒業後1963年からシャン州独立を目指す武装闘争に参加、1975年まではSSA(シャン州軍)の司令官で、共産党からの支援をめぐって引退、1980年代まではチェンマイに住んだが、その後カナダに移住、“The Shan of Burma” Singapore 1987の著作があり、現在でもシャン州問題の理論的指導者である。
そんなわけで、このヨンホェ家は20世紀後半のビルマ連邦とシャン州の出来事に深くかかわっているのだが、今は町の名もニャウンシュエとだけ呼ばれ、足漕ぎ舟と浮島で有名なインダー族のインレー湖観光のおまけに、何やら昔のシャン族の古い屋敷が残っているそうですから余程時間のある方はどうぞ、の扱いである。建物の保存も悪く、折からの雨で雨漏りがそこここに水たまりを作る。
ホウ(館)のプラン(平面構成)はマンダレー王宮と同じで、東に大きな儀式用謁見の間があり、その後ろに普段の謁見の間、この部分と露台でつながった北側に王子、南側に王母の別棟が建ち、中央部の西側に居室と食堂が続いて、奥の北側が正妻の部屋、南側が第二夫人以下の部屋という構造、マンダレーと違うのは全体に高床の平面で、床下になる地上部分に国庫と勘定方の事務室が置かれている。
コンバウン朝ミンドン王から下賜の玉座や、チェントゥン(チャイントン)ソーボワインタレンの玉座、その他シャン首長の衣装や遺物、昔の写真などが展示されている。
サオ・シュエ・タイクの先代で叔父になるソーボワ・サオ・マウンはヨンホェの内紛でコンバウン朝マンダレーに逃れていたとき第三次英緬戦争が起き、結局1897年になって英国からソーボワに再任された人物で、南シャン州の大藩では最もマンダレーに近い位置からも、ヨンホェの趣味はビルマ的である。
1919年の英国資料“Chiefs and Leading Families in the Shan States and Karenni”は、各藩の家系や有力者を解説したものだが、世継ぎと目される人物の評価が芳しくなく、甥ながらサオ・シュエ・タイクは「1918年英ビルマ軍部隊(Burma Rifles)に入隊」と記述され、英国流の好評価がうかがえる。またその資料から、大藩ヨンホェは勢力圏の主要な町や村の長にソーボワ一族を配する小規模の領邦国家体制で、官僚を構成する家系とも婚姻で繋がり、その官吏のほとんどはシャン人だが一部ビルマ族やインダー族出身者が見られる。
入口で入館料を集めている娘はインダー族で、古い写真以外にシャン人には出会わない。

ヨンホェホウ ヨンホェの水田
ヨンホェからシュエニャウンに戻り、タウンジーへの坂道を登るころには雨も上がる。つづら折れの急坂を数百メートル登った高台の狭い平地にタウンジーの町が造られている。ここも暑さに弱い英国人がシャン州支配の拠点として、百年ばかり前に開いた町である。道路は町の北側から入って、ゆるやかに南に向かって高くなる市中を抜ける。「ここが町の中心の交差点」と言われても、鄙びた印象。中心を南北に貫く道路の南の端あたりが旧英領期の行政機関と英人居住区だったらしく、植民地風な建物の間の道を入るとタウンジーの東側にそそり立つ山塊を背景に、シャン州ゲストハウス(政府の迎賓館)と書いた敷地があり、その隣が今夜の宿タウンジーホテルだった。ここもコロニアル建築で、白塗りの外観はノスタルジックな趣がある。部屋に通されると設備は古く、これが英領期の趣かと数十年を遡った経験と納得する。

タウンジーホテル 植民地時代の建物
荷物を置くや、昨年チェンマイで会ったときに教えられたアドレスを頼りに、チェントゥン(チャイントン)ソーボワ家の長老サオ・キャオムン氏の家を探す。サオ・キャオムンはヨンホェ館に展示してあった玉座の主インタレン(在位1897−1935)の息子のひとりである。町の北側、山腹の高台になった地区で中国系とわかる対聯(門口の左右に貼られた漢字の二行飾り)を掲げた新築の立派な屋敷が多い中に、目立たないその家を発見。途中、何箇所かで尋ねながら行き着いたのだが、これが後にちょっとした問題になる。
突然の訪問だったが快く招き入れられ、翌日改めて訪問する旨約束してその夕は辞した。
夕食を市内の中華料理店で済ませ、いったんホテルに戻る。ヘホー空港から使っている車の運転手は町中の別のホテルに泊まるので、町の中心部まで乗って行って、散策することにする。デジカメのデータをCD-ROMに落とせる店があるか調べたかったし、タウンジーの町の様子も知りたかった。
帰りはタクシーで戻るから、相場を運転手に確認すると1000 Kyat(約130円)ぐらいとのこと。運転手は道を確認する意味もあって、タウンジーホテルから町を南北に貫くメインストリートに出たところで、少し南に走って「もしホテルへの入口を行過ぎたら」と中央分離帯がなくなって左にカーヴする地点まで行ってあたりの景色を見せ、Uターンして中心方向に向かう。道路の西側にある木造二階建ての建物はシャン文化に関係するものらしい。
中心だと言う交差点を過ぎ、暗い電灯の下に屋台が並ぶあたりで車を降りる。横道に入ると、食べ物の屋台が並び人が食事をしているが、しまいかけの雰囲気が漂う。メインストリートに沿った店を歩くが、垢抜けない地方都市の商店である。奥に自動現像機を置いた写真屋でデジタル処理ができるか訊ねると、奥から出てきた英語を話す男が「兄弟がやってる別の店ならできる」と、メインストリートをもう少し北に行った場所を教え、「今晩はもう閉まっているから、明日行けばいい」。確かにまわりの店も閉め初めている。時間は午後9時、この町の夜は早いようで気の利いたカフェなど望むのが無理と見える。デジタル処理ができる情報を得られたのが収穫と、暗い横道に軽トラックが並ぶタクシーだまりでタウンジーホテルまでいくらか確認、教えられたとおり1000 Kyatの返事で客になる。バイクのエンジンかと思う音をたてる超小型トラックタクシーの運転手はシャン人だった。多少のタイ(Thai)語で話ができる。今回初めて出会ったふつうのシャン人である。
ホテルに戻ってカフェが開いているかと思ったら、レセプションの人間は別棟のカラオケ屋に案内し、「ここでコーヒーも飲める」とすすめる。話の種と席に着くと、薄暗い講堂のような店内に大きな音でビルマ歌謡が満ちている。客は僅かで、それでもこの町ではナイトスポットらしい。何しろタウンジーホテルなのだから。インスタント味のコーヒーを飲んで早々に退散する。値段は500 Kyat(約70円)。
早めに床に入ったところで電話が鳴った。ビルマ人のガイドが深刻な声で「今しがた外から電話があって、ちょっと相談したいことがあります」と言う。部屋にやって来たガイドの話は「電話の相手は名前も明かさずに『あの家には行かないほうがいい』とだけ言って切れた」そうである。何者かわからないが、言葉はヤンゴン(ラングーン)あたりのビルマ人だろうとのこと。今回は一人旅ではないので、事を荒立てず、明朝サオ・キャオムン氏に連絡をとって、先方からタウンジーホテルまでお越し戴けるようお願いすることにした。どうも電話の背後にある意思は、『誰かの目のとどくところで会いなさい』とのメッセージを送っているようである。誰かとは誰なのか?そのエージェントは?夕方、道を尋ねた人物の中にいたのか、それとも家の周りには常に監視の目があるのか?少なくとも、私が訪問しようとした人物がある「意思」にとって、居住地を制限し(チェントゥンに住むことは許可されない)、移動の申告を求め、訪れる人間を監視する対象であることには違いない。
4月29日(タウンジー)
翌朝、高原の朝の空気の中、ホテルのまわりを散策する。ホテルを出て左手に別荘の間の道を下ると街道に出合い、その向かい側の敷地は軍の施設なのか大きな看板には『国軍は永遠の友人、統合に反対するものは永遠の敵』とかの文字がビルマ語と英語で書かれている。街道を右に歩くと大きくカーヴして中央分離帯のあるタウンジーのメインストリートになる。向かい側のやや大きな木造建築が昨夜シャン文化関係の何かだと教えられたものである。近づくと小さくシャンカルチャーミュージアムの文字が見える。敷地に入ると、二階建ての二階では学校でもあるのか小学生ぐらいの子供が数人遊んでいる。一階に事務所らしい部屋があるが人はいない。老婆がいたので尋ねると、要領を得ないし外国人と話すのが迷惑そうである。
その北側は元のシャン首長学校の敷地で、現在は高校になっているが朝からバイクに乗った人が詰めかけ屋台まで出ている。何があるのかと屋台のコーヒー店にいる話がわかりそうな青年に尋ねると、ここはバイクの使用許可を申請する役所で、一日当たり500 Kyatを毎月納めるのだそうだ。役所仕事の常なのか、百人を越える人々が書類を手に窓口に詰めかけている。話を訊いた青年がコーヒーを奢ってくれた。ビルマ人でメイフラワー銀行に勤めている。
タウンジーホテルに入る道の角には立派なコロニアル様式の建物、どうやらこれが英領期、シャン州ソーボワが構成する評議会の後に英国弁務官主催の宴会が開かれたバンケットホールらしい。道を挟む植え込みの奥には、広い庭をとったコロニアル建築の屋敷が見えるが打ち捨てられた雰囲気で人のけはいはない。松の木が多い登り勾配の道を進むと、大きくせまる山をバックにピッタリと門を閉ざしたシャン州ゲストハウスの正面になる。要人用にか手入れされたゲストハウス以外は、今やアジアでも珍しい植民地時代の建物が博物館にするでもなく放置されている。

バンケットホール 屋敷
朝10時過ぎ、こちらからのお願いを受け容れて、サオ・キャオムン夫妻とその長男がタウンジーホテルまで来られた。ホテルのロビーで、氏の所有する第二次大戦期の写真を見ながら当時の記憶を聞く。
1942年(昭和17年)11月25日のシャン州政廰開廰紀念とされた写真には第15軍牟田口司令官以下、日本軍人とシャン人総勢90名ほどが庁舎の前に整列している。別に、経済部の記念写真があり、こちらには雇員として若き日のサオ・キャオムンも写っている。
この時期、面白いエピソードとして、記念式典に先立ちタウンジーに入っていた牟田口将軍(General Mutaguchi)からチェントゥン一族にお呼びがかかり、当時ロックソックに避難していたチェントゥン家の十数人が参上すると、通された席で給仕役がお茶を奉げ持って差し出したそうである。何事かと驚いたが、その後牟田口将軍から「昔、日本のサムライがチェントゥンに移住したので、諸君らはその後裔である」という詳しい話を聞くことになったそうだ。例の山田長政残党説である。
当時、サルウィン河東岸のチェントゥンは日泰条約でピブン政府のタイ王国に割譲されていた。実はサオ・キャオムンは、タイ王国領となったチェントゥンに戻ったが、そこではタイ(Thai)語の読み書きができないと行政の仕事ができず、チェントゥンのタム文字しかできない彼は三箇月ほどで日本支配下のシャン州に舞い戻ったのだそうだ。日本支配下のシャン州では、英語で仕事をしていたと言う。
数箇月モンナイ(モネー)の英国木材会社を接収した日系商社にいて、その後ロックソックに住み、シュエニャウンに在った日本の会社の雇員として働いていた。そこではカメイさんが上司で、シャンの伝統的紙造りに日本の和紙の製造方法を導入しようとしたが、数枚を一度に漉くシャンの方法を、一枚ずつ漉く和紙のやり方に替えるのには成功しなかったそうである。
当時の日本によるシャン州統治の実情を尋ねると、行政関係の記憶より憲兵隊(Military Police)の記憶が確かで、ロイレムやタウンジー駐留の憲兵隊長の名前が出てきた。ロックソックにも3、4名の憲兵が駐屯したそうである。興味深い話は、1945年(昭和20年)5月に、戦況の変化からライカ(Laihka、レーチャ)に脱出して米・カチン軍部隊のキャンプに留まり、その後バモーに移動する飛行機で、駐ロイレム憲兵隊長だったIという人物が一緒だったと言う。米軍に護送されていたが、容姿に特徴があった人物だから間違いがないとのこと。
ロックソックからライカへの脱出では、日本軍の監視下に置かれたロックソックソーボワ(義理の兄)と一緒にカメイさんの助けで逃れたが、日本軍協力者の朝鮮人Lと兵隊が追ってきた。カメイさんは当時47歳で日本に妻と5、6人の子供があり「自分はヨンホェ(ニャウンシュエ)からタイに逃げる」と語っていたそうである。今回、カメイ氏が写った当時の写真を見せてもらった。
昼になるので、どこかレストランに移動しましょうと相談の結果、市内の中華料理店へ。昨夜食べた店の名も出たからタウンジーでは有名らしいが、そう美味い店とは思えなかったので、別の店にした。ここは今回の旅行で初めて納得できる味だった。
サオ・キャオムン氏は1960年に日本に15日間滞在したそうである。ウ・ヌーが首相に戻った時代で、ビルマ連邦の外務大臣を務めたこともあるシャン州評議会議長モンミットソーボワのサオ・クン・ケォの計らいでパスポートが取れたので、姉(センウィー藩に嫁ぎその後離婚)の病気治療の為東京近郊のI夫人宅に滞在、結局処方箋を書いてもらっただけで帰国、ほとんど観光しなかったとのこと。羽田に出迎えたK氏という名前も記憶にあった。
戦前、日本軍が来る前の話では、1941年3月のシャン首長学校の写真があり、サオ・キャオムンは同年度の学生代表(Captain)で教職員と生徒の並ぶ記念写真の中央におさまっている。シャン首長学校は英領シャン州のソーボワ男子子弟を教育した学校だが、1941年度記念写真には98名の生徒が数えられる。また、教員の中には英語講師だった異母兄サオ・サイムンの英国帰りの背広姿もある。サオ・サイムンはロンドン大学に留学していて1941年帰国、同年12月には英国シャン州政府に付いてインドのシムラに退避している。サオ・サイムンは10歳から16歳までバンコク宮廷で過ごした経歴があり、サオ・キャオムンによれば、父親のチェントゥンソーボワ・インタレンが「タイ語を学ばせたくて」送ったそうである。
戦前にチェントゥンを訪れた日本人の逸話で興味深いことが聞けた。インタレンの治世でサオ・キャオムンがワット・ホゥコン(チェントゥンの王宮付き寺院)での修行(サオ・キャオムンの言葉では「黄色の衣を着る」)から戻った時期だから、1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)の間のいつか、数名の日本人がチェントゥンを訪れ、モンサッ(チェントゥン藩南西部、19世紀末にチェントゥン藩に組み入れられたタイ国境に近いムアン、戦後は国民党やクン・サーの拠点になり、現在はビルマ軍とワ軍が支配している)に入植する許可を願ったそうである。インタレンは許可したが英国官憲は反対し、その日本人はチェントゥンで英国官憲に拘束されてラングーン(ヤンゴン)に送られたとのこと。名前などは不明。
まだまだ聞きたいことがあるが、昔の記憶をたどる疲れもありそうだし、昨夜の不審な電話のこともあって、今日はここまでとする。写真を借りて、町中のコピー屋を探すが、タウンジーの町には朝から電気が来ていない。あそこなら出来ると教えられた店では、値段を交渉したのち、やおら自家発電機を回してコピー機を動かした。ドラムの瑕も多い中古機械だが贅沢は言えない。
ホテルの近くなので同行のHさんをホテルに送り、昨日聞いたデジタル処理のできるカメラ屋を探す。メインストリートを脇に入った小さな店の並ぶ建物の一階、パソコンに高性能の小型スキャナーとプリンターを備えた個人商店。店の主は中国系で、パソコンや周辺機器はタイや中国などで買ってくるそうだ。値段はCD-ROMの価格で決まるようで1枚3500 Kyat(約500円)、スマートメディア2枚のデータをCDに落とす。手馴れた様子で、店というよりパソコンおたくの小遣い稼ぎという印象。サオ・キャオムンの写真がスキャンできるかと思ったが、フラットベッドの大判スキャナーがなく断念。インターネットが使えるか訊くと、電話回線のスピードと政治的なことの両方が問題で難しいとの返事。
その後サオ・キャオムン宅まで写真を届け、運転手とビルマ人ガイドを表に待たせて少し話したが、うるさい監視の目が在るかも知れず再会を期して退出。周りの裕福そうな中国人屋敷については、ムセ・ナムカン方面から移入している中国人とのこと。
帰り道、午後の強い陽射しの中に白く聳える、カトリック教会の聖堂に寄る。カロゥのポール(Paul)神父の話にあったタウンジー司教座になるが、聖堂の門は閉ざされあたりにも人気がない。あたりの色と雰囲気は、一瞬、地中海世界の午後を思わせる。
タウンジーホテルに戻ると、中庭に面白い光景があった。どうやらプロらしい長髪のカメラマンが、着飾った人を撮影している。モデルを使って撮影をしているのかと見ていたら、着飾っているのは客で、ホテルの庭が写真スタジオなのである。朝の早い時間にホテルの別棟ではパオー族らしい民族衣装の集団が集まって結婚式らしかったが、それとは違う「いまどき」の若い娘のグループが、タウンジーでは「すすんでいる」のに違いない長髪のカメラマンに声をかけ、撮影の順番を待っている。

タウンジー司教座 タウンジーホテルの中庭
夕暮れが近づいて、ホテルの背後にそそり立つ東側の嶺に登ろうということになった。町を南に出たところに検問所があって、そこから先ホーポン・ロイレム・タコウ・チェントゥン、更にタイ国境のターキレック(タチレーク)・メーサイに至る街道は外国人には開かれていない。
検問所の手前に登り道があり、これを登るとタウンジーを見下ろす嶺に建つパゴダに至る。高原の町タウンジーをさらに数百メートルの眼下にするパゴダの展望台からは、南北に細長いテラス状の土地にできたタウンジーの町全体と、そこからさらに数百メートル崖を下ったヨンホェ(ニャウンシュエ)の平野が望める。左手奥にインレー湖の水面が夕暮れの陽光を反している。惜しむらくは、金色の塔頂に風鈴を響かせるパゴダの背景に青く抜ける東の空に対し、太陽の沈む西に向かって空気が通らず、霞がかった状態である。
町の真ん中の交差点付近にサッカースタジアムがあり、ほぼ正面になるタウンジー台地の西端にパゴダ、その先の崖下右手にタウンジーの住民を移動させた新市街が造られ、その北側に小さな湖が見えるあたりにはゴルフリゾートが出来ているらしい。その一方、タウンジー台地上の左手、南の郊外のかなり広い部分には兵舎やグランド、市場まで備えたビルマ軍関係の敷地がひろがる。

タウンジーの町とインレー湖方向 タウンジー山頂のパゴダ
山を降りてホテルに戻る前に、朝がたバイクの登録で人だかりのあった元シャン首長学校の敷地の奥、古い校舎が建っていた場所を見に行く。Hさんによれば日本軍は病院に使ったとのことで、確かにしっかりしたレンガ造りの校舎が今では高校の教室として使われていた。洗濯物が干してあるのは、ちょうどこの時期は一斉試験が終わったところで、教員が校舎に泊り込んで採点をしているそうだ。
夕食はホテルの食堂で摂る。客は一組だけで、ミヤワディ(軍のTV局)TVの番組が大きな音をガランとした食堂に響かせる。番組は他に英語の放送が入るが、戦争ものが多い。ビルマ人ガイドによれば、最近韓国ドラマが流行っていて皆が見ているそうだ。ミャワディTVの海外ニュースは、トピックごとにビルマ語の説明がされ、そのあとでCNNやヨーロッパ系TV局のオリジナル音声付映像が放送される。
明日の予定は、近年公開されたカクー遺跡を訪れることに決める。

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