シャン州を訪ねる (2004年4月26日‐5月7日)
第1章 シャン州南部(カロゥ・ピンダヤ・タウンジー)
4月26日(ヘホー空港・アウンバン・カロゥ)
ラングーン(ヤンゴン)には一泊しただけで、朝の国内線ヤンゴンエアーで南シャン州のヘホー空港に降り立つ。この空港は第二次世界大戦中、日本陸軍航空隊が使用したこともあり、戦争経験者の話題によく登場する。空港施設は当時と大きくは変わっていないそうである。
今回の旅は、第二次大戦中、滇緬公路(Burma Road 通称『援蒋ルート』)の中国領内で闘った経験のある元日本兵の方から誘いを受けた結果だ。Hさんは現在81歳、当時最年少の兵隊で昭和18年(1943年)の召集、中緬国境方面に展開した「龍」師団の支援を命じられた「安」師団の機関銃部隊だった。昭和19年(1944年)夏の中緬国境から、その後北部シャン州、イラワジ上流のモーガウン、マンダレー周辺、マンダレー街道、シッタン河と戦い続け、モールメン付近で終戦、更にラングーン近郊での抑留を経て昭和22年(1947年)に復員された。戦後は会社を経営し、1970年代からほぼ毎年ビルマ(ミャンマー)を訪問、仕事を引退された今は日本に来る留学生の世話をされている。
最近は一緒に訪れる戦争経験者も少なくなり、今回特にシャン州を中心にまわられることで、お誘いを受けることになった。

ラングーン空港 ヘホー空港
ヘホー空港には迎えの車が待っていた。今回の旅行は全てHさんが懇意にしているラングーン(ヤンゴン)の旅行会社の手配で、行程中ラングーン(ヤンゴン)から日本語ガイド(ビルマ人)がひとり付いている。昼を過ぎた時間で、今日の宿泊地点カロゥに向かう途中、峠を登ったアウンバンの町で昼食にする。街道沿いの店に車を止めると、道路に並んだ物売りの間にはパオー族の衣装が見られる。シャン州内でも管区ビルマ(英領期直接統治下のビルマ本土)に近いこのあたりは、英領シャン州期にはミエラット(Myay Latt中間地帯)と呼ばれた地域で、シャン族ではなくパオー族・ダヌ族などの比較的小さなソーボワ(藩王)領が並んでいた。コンバウン朝時代は、ソーボワ(シャン族のサオパーSaopha)より自律性の低いミョーザ(Myoza)やグェクンム(Ngwe Goon Hmu)の称号であった。

ヘホー空港の外 アウンバン
標高1000メートルに近いシャン高原とは言え、暑気の終わりの強い陽射しは熱い。アウンバンの商店に並んだ品物を見ていると、2年前に訪れた東部シャン州のチェントゥン(チャイントン)に較べ、思ったより品揃えが豊富な印象を受ける。よく見ると、タイ製や中国製の品物に加えて、ビルマ(ミャンマー)製が多く並ぶ分、チェントゥン(チャイントン)と違った品揃えに映る。

アウンバンの商品 カロゥ駅を出発する列車

また峠を登り、松の木が多いカロゥの町に入る。英領期、暑さに弱い英国人が開いた町で、植民地時代の別荘や修道院学校の建物が残っている。小さな町のメインストリートを抜け、東側の高台に建つ今晩のホテルに向かうと、カロゥ駅の踏み切りで列車に出会った。日に2往復しかない列車に出くわしたのは幸運と言える。シャン高原を下ってタジ方面に向かう列車の、屋根の上まで人が乗っている。

ホテルからの眺め ホテルからの眺め
ホテルはカロゥの町が一望できる位置にあり、近年できたリゾート風のバンガロータイプだ。さっそく植民地時代の建物を見に行こうと、昔の寄宿学校の場所などホテルのスタッフに訊くと、「カロゥの駅の近くに日本語を教えているビルマ人がいて、昔のことも詳しいから彼のところを訪ねろ」と勧められる。
小さな日本語の看板がある家に居たのは、日本人旅行者のHPでも紹介されているというウ・ラミン(U Hla Myint)氏。ビルマ中部サガインの近くで生まれた彼は戦争当時10歳ばかり、すぐに日本語を修得し日本軍や村長などに重宝されたそうである。戦後は、賠償でのダム建設調査に来た日本人技術者の通訳などをし、その後電力関係の仕事をしていたが、引退して妻の出身地のカロゥに住んでいる。非常に立派な日本語を話し、ウ・ヌー時代の日本人青年留学僧の通訳係りもした話で、ビルマ仏教研究の泰斗池田正隆氏の知己であることもわかった。
彼の案内で、英国国教会の男子寄宿学校だったキングズウッド校の建物から訪れる。現在はビルマ軍がカロゥに新しく作った軍人教育学校の宿舎として使われている。ここは日本軍が兵站病院にしたところで、特にインパール作戦やマンダレー周辺での傷病兵が多く収容され、タイ国に後退する傷病兵が通過した場所として戦争経験者には有名である。ウ・ラミン氏は、この病院で看護婦をしていた元日赤看護婦の日本人婦人と訪問したこともあり、死亡者を葬った場所や情況など詳しい。

キングズウッド校 キングズウッド校

別荘 別荘
キングズウッド校の先には植民地時代の別荘がいくつか見られる。また、カロゥにも小規模の洞窟寺院があり、陸軍病院の日赤看護婦が散歩でよく訪れたそうである。
英領時代のシャン州では厳しい教育をすると有名だった聖アグネス寄宿学校に向かう。ここはカトリックで、道を挟んだ向かい側に建つ教会には、今でも神父がひとり住んでいた。ウ・ラミン氏とも顔見知りで、話が聞けた。ポール(Paul)神父はイタリア語も話すが、1939年タウンジー生まれのビルマ(ミャンマー)連邦国籍のようである。この教会はタウンジー司教区の下にあり、信者数は1000人ぐらい。
向かいの聖アグネス寄宿学校は、英領時代はイタリア人修道女の運営で、南シャン州のソーボワ(藩王)子女が多く学んだ。寄宿学校内では英語で生活するよう指導され、男子は幼年組だけで12歳までにタウンジーのシャン首長学校に進み、女子は大学進学までの9年間を寄宿学校で過ごしたようである。現在は地元の学校として使われている。

カトリック教会 聖堂内部

聖アグネス 聖アグネス

聖アグネス 聖アグネス礼拝室
植民地時代からのホテル、カロゥホテルを覗く。外観はいかにもの英国コロニアル建築、午後のお茶でもと思ったが内部は手入れが行き届かず粗末な印象。ウ・ラミン氏はここのマネージャーをやったこともあるそうだ。

カロゥホテル ロックハウス
ホテルに戻る東の丘に、有名な別荘ロックハウスが在った。岩の上に建つ特徴的な建物は、引退した英領期のエリートインド植民地文官(Indian Civil Service)ホワイティング氏が住んだもので、1938年には当時英国の人気旅行作家だったモーリス・コリス(彼自身もICS出身)も訪れている。
4月27日(カロゥ・アウンバン・ピンダヤ)
朝、カロゥからアウンバンに下り、道を北にとってパンタラ(ピンダヤ)に向かう。英領時代の道路が、赤土の丘陵地帯を抜けて行く。ところどころに木を残して耕作されたなだらかな丘陵は、中部イタリア、トスカーナ地方の風景にも似ている。
松の木に囲まれた小さな湖が見えるとプェラの町。ここもダヌ族のソーボワ領だった。

アウンバンから北に向かう道路 プェラ
西に高い山なみが迫り、中腹に白い寺院が見えて来るとパンタラ(ピンダヤ)の町である。山腹の寺院には洞窟があって、数千躰の仏像が納められている。この町の中心にも湖があり、昔から舟を浮かべることと漁獲りが禁じられ、水浴すれば若返りと肌が奇麗になる効果があると信じられている。
洞窟と湖をめぐる伝説では、南の国(現在のカヤー州あたり)の7人の娘が湖に水浴に来たが遅くなったので洞窟に泊まると、大きな蜘蛛が住んでいて襲われる。助けを求める声を聞きつけたのは、ちょうど狩りをしていたヨンホェ(ニャウンシュエ)の王子で、見事蜘蛛を退治してめでたしめでたしという筋書きである。
何にせよ、湖はこの地域ではマジカルな効力を信じられていて、先住のパオー族やダヌ族などの聖なる地であったと考えられる。蜘蛛は在地の支配者で、それをシャン族の権力が平定したとも読めそうである。
見事な菩提樹が湖から洞窟への参道をつくる脇に今夜のホテルがあった。ここもバンガローが並ぶリゾートホテルで、背景に山腹の洞窟寺院が見える。チェックイン後すぐに町の役所に出かけ、明日さらに北へ道を進みロックソック(ヤソーク)経由でタウンジーに向かう許可を取りに行く。答えは否定的だが、それ以上に道が悪いから普通車では無理との説明。

ピンダヤ洞窟寺院遠景 ピンダヤ湖
パンタラ(ピンダヤ)の市場を見に行く。このあたりでは5日ごとに大きな市が立ち平日よりもにぎわう。今日はその日に当たるが、市場を歩くが期待したほどエスニックの衣装は見られない。食品は確かにシャン的なものだが、衣装や風俗はビルマに近いようである。
街道に面したティーハウスに寄り、ティー(練乳に煮出した紅茶を注ぐミルクティー)とロティ(旧英領インドによくある薄いパンケーキ)を注文する。典型的な英領インドの味だが、店の人間はインド人ではなく中国系。
あまりの暑さに通りの店で、皆が履いているビロードを張った草履を買う。さらに次の店で、シャン服の上下、ゆったりした上着とだぶだぶのズボン、を買う。この店も中国系で、なかなか値切りには応じない。とは言え、着心地が良さそうな木綿製の上下で4000 Kyat(チャット)ばかり、日本円なら500円ぐらい。涼しそうだと試してみたが、着慣れないズボンは紐でおさえなければ止まらないし、ポケットが少ない。だからシャンバッグと呼ばれる肩掛け袋を持つのかと納得。あとでシャン人に聞くと、ポケットは自分でつけるのだそうだ。

ピンダヤの町 ピンダヤ市場

市場 市場
町を北に出たところに有名な僧院があり、昨年亡くなった高僧の遺体を展示して、新たな仏塔を建てる寄進を集めていると聞き、訪れる。確かに車で20分ばかり走った丘の上に大きな僧院があり、その続きの丘の上に仮小屋の安置所が設けられて高僧の遺体が展示されている。人々が訪れて何がしかの寄進をしている。このようにして、またひとつ新たな仏塔が建つのだろう。
その横で、地元のダヌ族の子供が食べ物の屋台を出していた。黄色い米加工食品らしきものをきざんで赤唐辛子などで味をつける。食べてみると悪くない。
町に戻って山腹の洞窟寺院を訪れる。駐車場の先からエレベーターで登れ、眼下にパンタラ(ピンダヤ)の湖と町と狭い平野が望める。整備された洞窟の中には数千躰の仏像があり、石灰洞窟を進むと伝説の蜘蛛が居たと言うところや、願いがかなう祈願所などがある。
洞窟の入口になる寺院の休憩場所にお茶があるので休んでいると、老人が話しかけてきた。顔付きは日本にもよくある顔立ちだがダヌ族とのこと。この寺院の在家世話役らしく、詳しい説明はこの本に書いてあると、英文の小冊子を取り出す。元マンダレー大学歴史学教授でミャンマー歴史委員会会員のタン・トゥン(Than Tun)教授が著した“History of Pindaya (Town, Pagoda and Cave)”Mandalay 1998で、英領期の情報や洞窟内の仏像の年代考証が載っている。それによれば洞窟内の仏像は18世紀以降のものとされている。
この老人ウ・オーン・ピー(U Ohne Phye)氏(74歳)によれば、第二次大戦中は洞窟に日本軍の士官数人が駐留していた。ピンダヤでは大きな戦闘はなかったが、戦争の初めに中国軍が来て、直後に日本軍が侵攻してきたそうである。また戦争の終わりには、ロックソック方向から米軍がカチン兵と一緒に象に乗って来たとも。彼が言うには、「最後のパンタラ(ピンダヤ)ソーボワ(藩王)は今も健在で、昔からのホウ(領主の館)に住んで、朝は近所を散歩したりしている」とのこと。シャン州の元ソーボワはもう誰も生存していないと聞いていたので意外な情報だった。

洞窟から見る湖 ロックソックに向かう街道
さっそく町の中心部、朝訪れた市場の近くのホウ(館)に向かう。はたして、アウンバンからロックソックに向かう街道に面して石段を昇った敷地に大きな木造建築がある。手入れが行き届いているとは見えない館の一階ではバイクの修理を営むらしく数台のバイクが並び、男が作業をしている。声をかけると、この家の息子のひとりで、父親はオレンジ農園に出かけていると言う。そこは遠いのかと尋ねると、耕運機を使った荷車でないと道が狭くて行かれないとの返事。夕方までに戻るかどうかはわからないと言うので、こちらが泊まっているホテルを告げて、お目にかかりたいと言い置く。
一度ホテルに戻り、近くのレストランで軽食をとって休憩していたら、ホテルのスタッフが探しに来た。「ソーボワが来ている!」と言うので、あわててホテルのスタッフが乗ってきたバイクで戻る。ロビーに居たのは、最後のパンタラ(ピンダヤ)ソーボワサオ・ウィン・チー(Sao Win Kyi)氏であった。
普通のロンジー姿だが、昔は人の上に立っただけに凛とした風情があり、年齢の割には矍鑠とした印象である。1922年生まれの82歳、昨日訪れたカロゥの聖アグネス寄宿学校に入ったのは1年だけで1932年から1939年までタウンジーのシャン首長学校で過ごし、当時講師だったサオ・サイムン(Sao
Saimong Mangrai:1950年代のシャン州教育行政官で、“The Shan States and The British Annexation” や “The Padaeng Chronicle and The Jengtung State Chronicle Translated” などの著作がある)にも習ったと言う。
ソーボワ位に就いたのは1946年で、戦争中は「普通の人」だったから日本軍政の詳細はわからないが最大で600人ぐらいの日本軍が駐留したそうである。1958年にソーボワ特権をシャン州政府に委譲、終身の民族院(ビルマ連邦上院)議員となり、1962年3月2日のネ・ウィン将軍によるクーデタで収監され、1967年までインセン刑務所で暮らす。彼の言葉では、「ゲストハウスのような待遇」で、新聞やラジオなどはあり、外部との通信もできたが、「外に出ては行けない」という状態だったそうである。
この世代のエリートは自由に英語を喋る。1946年からソーボワ位にあったということは、1947年2月のパンロン会議に出席されていますねと確認すると「Yes」。では、アウンサン将軍は何と言ったのでしょうか?と尋ねると、「それは言えない」と答えられた。まわりを見回すと、ホテルのロビーで、ビルマ人のガイドやホテルのスタッフ、加えてたまたまそこに居合わせたのかそれともしかるべき人物なのか、とにかく衆目のある場所では未だに不適切な質問であったようだ。
そろそろお帰りになると言うので、車で館までお送りし、庭先で写真を撮らせてもらった。手入れされない館を背景に、並んでカメラに向かうと、肩にまわしたソーボワの手に一瞬力が入った。語れない多くの思いがそこにあるように感じられた。世が世ならかもしれないし、それなら小生が突然訪ねて会えることなどないかもしれない。ただ、彼は英領シャン州から日本軍占領期、パンロン会議、ビルマ連邦、ネ・ウィンクーデタと軍政の時代を生きて今があることだけが歴史的事実だ。

ピンダヤホウ パンタラ(ピンダヤ)ソーボワ
夕食後、ホテルのロビーで運転手とビルマ人ガイドと一緒に地図を広げて検討する。運転手はインダー族でシュエニャウンに住んでいる。長くトラックの運転手をしていたそうで、シャン州のほとんどの道を走ったことがあるようだ。外国人がタウンジーから先に行く許可を得るのは難しいそうで、トラックの運転手をしている時には、「南のモネー(モンナイ)からタサンのタンルウィン(サルウィン)河に架かる橋を渡ってマイントン(モントン)やマインサ(モンサッ)に行ったこともある。そのあたりだと軍のエスコートが付く」そうだ。彼の言う地名は全てビルマ語の形である。「ホーポンの先に行くと、住民はみんなシャン語で話している」と不満そうに言う。
<indexに戻る>
|
|