シャン州を訪ねる (2004426日‐57日)

 

2章 シャン州北部(ラシオ・ムセ)

 

56日(ムセ・瑞麗・潞西・龍陵・潞西・畹町・瑞麗・ムセ)

 

 朝、ホテルの屋上に出て見る。曇り空で薄霧がかかった風景だが、昨夜見たシュウェリー川と橋が確認できる。瑞麗の街は高い建物が混みあい、東に延び出しているようだ。西の方角、シャンの山並みがシュウェリー川に落ちかかる稜線は、20世紀前半の古い写真で見た気がする。

 朝食は町の中心、昨夜のレストランの並びの食堂でシャン麺を食べる。これは美味い。

 

     

ムセの朝                                                                      シュウェリー川と対岸の瑞麗

 

     

ムセ中心の朝                                                              

 

 中国国境のゲートに行くと、朝から徳宏泰族観光団が次々と中国側からやってくる。やはり、中国側のタイ(Tai)族のほうがビルマ(ミャンマー)側のタイ族より、衣装・仕草・雰囲気などずっとタイ族らしい。

 

     

徳宏から来る観光客                                                     徳宏のタイ族

 

 ラングーン(ヤンゴン)の旅行会社のMDでハイカラなビルマ人のKは、昨日の交渉の場にいた地元の男と一緒に行くことになっていて、ここで待ち合わせたと言う。この時点では、彼はてっきりKの知り合いか、一月ばかり前にKの妻が今日のルートとほぼ同じルートで中国を訪れた際の知人だと思っていた。

 ほどなく男が現れ、名前はサイ・ルー、シャン人だと英語で自己紹介する。昨日の話し合いでも、中国語は達者だった。ゲートをくぐって中国側に入り、タクシー乗り場で交渉する。潞西(芒市マンシ)の先の龍陵(ロンリン)まで往復で、300元(約4500円)で成立。1キロ1元が目安らしい。タクシーは5人乗りなので、Hさん、ハイカラなビルマ人のK、地元のシャン人サイ・ルー、小生に運転手で満員、ビルマ人ガイドは残しておく事になった。Hさんは日本語のできる人間が小生だけになって不安そうだが、中国を走るのにビルマ人ガイドが役にたつとは思えない。シャン人のサイ・ルーはシャン(Tai)語・ビルマ語・中国語が達者で英語も話す、ハイカラなビルマ人のKはビルマ語とちょっとシングリッシュな英語、小生が日本語と英語と最低限の中国語、運転手は漢人だから最後は漢字を書けばいい、徳宏泰族景頗族自治州を走るには充分すぎるパーティーである。

 

 タクシーはシュウェリーの橋をわたり、瑞麗(ルイリー)の町に入らずに片道二車線の立派な道路を、時速100キロで疾走する。国境の両側で時代の差が歴然としている。瑞麗の郊外に仏塔が見える。シャン人のサイ・ルーはあそこが「ムンマオ」で、もう少し走った右手にはスーカンファーの墓所があると言う。13世紀ムンマオ王国の中心とその首長の話だ。さすがにシャン人というか、畹町(ワンチン)のシャン名はパーンサイで、ビルマ(ミャンマー)側の町チュウゴックの意味は谷が狭くなった急流地の米搗き場だそうだ。

 道路は峡谷になったシュウェリーを再び渡り、畹町(ワンチン)の市街には入らずに峠に向かう。途中、畹町から登ってくる道路が合流するあたりからは「バーマロード」かそれに沿う形で道が続く。峠を越えると左手にシュウェリーが見え、水田の平野になる。シャン人サイ・ルーによれば、この辺りのタイ族村の家屋は土壁の中国式で、色布を竹竿に下げたのぼりのようなものが見えると結婚式だと言う。

 タイ・マオの習俗として、未婚の娘はズボンで頭に巻く布の色は薄いピンクというのが伝統的とのこと。

 

遮放(ツェーファン)盆地を過ぎると、三台山の山地になる。焼畑の見える斜面はバナナ畑で、Hさんによれば60年前にもバナナ畑があったそうだ。風景はいかにも山地民の世界で、通り過ぎる村と農易市場の看板にはドゥアン族(パラウン系)の表示がある。寄ってみたいが今日は時間がない。三台山を抜けるとまた水田の平野で、風平と書かれた料金所を過ぎた右手に潞西(芒市)空港、潞西(芒市)の町の入口から新道は市街地を迂回するが、ここは「バーマロード」をたどって潞西(芒市)の町中を通過する。

典型的な最近の中国の地方都市であるが、中国につきものの埃っぽさがないのが印象的。これはいよいよ発展と近代化が進む最近の中国の変化なのか、それともこの徳宏地域の特質なのか。少なくとも一年半前に訪れた南の西双版納泰族自治州は埃っぽかった。潞西(芒市)のタイ名はモンコーン。道路の中央に大きな菩提樹のあるロータリーは60年前からあったそうだ。

 

     

中国側の道路                                                               潞西(芒市)市街

 

 潞西(芒市)を出るあたりは道路が狭く、古い街並みに元の「バーマロード」の雰囲気が残る。次に山にかかるところが放馬橋、峠の頂上に検問所があり、ここから先は雲南省保山県龍陵地区。ビルマ(ミャンマー)パスポートの人間が徳宏泰族景頗族自治州に入るのは簡単だが、ここから先は難しくなる。峠の下の龍陵まで日本人を案内していくからと、うまく通り抜けてシャン人のサイ・ルーは興奮気味である。

 龍陵(ロンリン)は、やや低い東側の丘以外は高い山が周囲を取り囲む谷底の狭い空間に、いかにも中国を思わせる瓦屋根の家が密集した、砦のような小さな町である。峠を下って新道に入ると町を通り過ぎかけ、新道をはずれて旧市街に入る。車を止めると、Hさんによればそこは東門の在ったあたりで、旧市街のメインストリートを少し西に行ったところで左に入れば龍陵賓館というホテルがあり、屋上からの眺めが良いそうである。ここは56年前に昆明経由で来られている。

 

     

龍陵市街旧東門付近から東を見る                                龍陵の街

 

 Hさんの記憶どおり龍陵賓館の屋上に上がり、1944年(昭和19年)当時の情況を聞く。

713日、中国軍は滇緬公路の東から到来し、東山(町の東側にある丘を日本軍は東山と呼んだ)を奪取、続いて数日で町を囲む高い山の東南側から二つを奪取、その隣のHさんの居た六山(日本軍は周囲の山の峰を番号で区別した)は激戦を毎日繰り返して819日まで持ちこたえが、衆寡敵せず龍陵市内に撤退、中国軍は町の東側から一軒づつ順に掃討する市街戦に移り、9月中旬玉砕を覚悟すると、今越えてきた峠のあたりで砲声があり友軍が救援に来た模様、しかし二日経っても突破できずやはりダメかと諦めかけた三日目に友軍が峠を確保、辛うじて撤退できた」そうである。その後Hさんの部隊は「バーマロード」を経由してチャウメからモゴック・モンミット方面に移動して戦闘を続けることになった。

 龍陵の町中で、Hさんは白塔小学校という建物を訪れる。1998年に建った新しい校舎で、Hさんをはじめ元日本兵の方々が寄付をして建てたものである。校舎の前の碑には「中日人民世代友好」の文字があり、日本円で七百万円の寄付があったと刻まれている。

 

     

龍陵の街と周囲の山                                                     白塔小学校

 

潞西(芒市)まで戻って昼食になる。泰族餐店の店に行こうと、町中を通らずバイパスの出口付近の店に入る。店の裏手には水田が広がり、客席は水を引き込んだ小さな池に高床の小屋をいくつか建てて渡り廊下で結んだ形、タイ(Thai)の国道沿いにある休憩所やレストランと同じ発想だが、ひとテーブルごとに小さな小屋を建てているのが特徴的である。

ここもムセ在住のシャン人サイ・ルーの案内である。自分でビジネスをしていると言っているが、ムンマオ王国とスーカンファーとか、シャン人とは言えこの地域の歴史や情況にえらく詳しい。いったいあなたは何者か?と尋ねてみた。

「クン・サン・トン・フンの曾孫になる」と言う。意外な出会いだった。またまたシャンのソーボワの関係者である。昨日センウィーに居たのはクン・サン・トン・フンの孫で、それより年かさに見えるこのサイ・ルーは曾孫だと言う。クン・サン・トン・フンの若い時代にできた娘がムセの首長に嫁いだ家系らしい。ここで語った彼の経歴が面白かった。

「ラングーンの寄宿学校に入れられ、その時に英語を喋らされたが得意ではなく、その後中国語をやるようになった。実は、英語で会話をするのは30数年ぶりだ。ラングーン大学の学生の時、1974年にウ・タント(元国連事務総長)の遺体がビルマに帰ってきたが、ネ・ウィンは葬儀を行なうなと言うので学生が抗議運動を起こし、その時のラングーン大学のリーダーで、2年あまりインセン監獄に入れられ、出獄後そのままCPB(ビルマ共産党)の武装組織に参加してモゴック・モンミット方面のコマンダーだった。1989年のCPBの内部叛乱(親中国派の指導者が放逐された)後、両親の住むムセに戻って来た」そうである。歳は小生と同じ1953年生まれ。じゃあ英名もあるのかと訊くと、少し照れながら「クリストファー」と言う。

 

     

泰族餐店                                                                      泰族餐店

 

 調理場で野菜やその調理方法を選び、注文してから客席で待つ。泰族の娘が働いているが、彼女の言う数字はほぼタイ(Thai)語と同じ音。並べられた料理の中に大きな魚がある。赤い色味が着いているのを良く見ると味噌漬けにしてある。魚、とくに川魚は苦手な小生であるが、これは美味い。米もおいしい米で、徳宏は良い土地である。南の西双版納もそうだったが、雲南省の泰族地域は食べ物が美味いようである。

 

     

泰族餐店の裏の水田                                                     峠から見るシュウェリー川

 

 帰り道、畹町の手前の峠道からシュウェリーの流れが見える。峠には碑が建っていて19451月、ここ「黒山門」で中国軍が日本軍を破った情況が刻まれている。

 新道の分かれ道から旧道に入り、畹町の市街へ下りる。昨日眺めた畹町橋を中国側から見る。こちら側からビルマ(ミャンマー)領を眺めると鄙びた風景である。

 

      

中国側から見る畹町橋                                                 畹町市街

 

 瑞麗の手前、スーカンファーの墓所だと言う横道に車を入れるが、小さな集落とやや高台になった木の繁みがあるだけで、あっけなく元の街道に戻ってしまった。ここがツェーラン(中国史料に現れる「者蘭」)の地らしい。

 夕方までにムセに戻らなければならないので、ムンマオの仏塔を横目に見るだけで通り過ぎ、シュウェリーの橋を渡る。橋の途中で、カジノ地区が見える。主に中国からの客をあてこんだビジネスで、厳密にはビルマ(ミャンマー)領内になるが、その少しビルマ(ミャンマー)側に国境の柵が設けられ、中間地帯は跨いで越せる国境の溝があるだけで、簡単に中国側から入れるようにしてある。カジノを運営しているのは、コーカン勢力とKIA(カチン独立軍)の休戦協定グループらしい。

 

      

ムンマオ仏塔                                                               シュウェリーの橋から見えるカジノ地区

 

 無事ムセに帰着。ビルマ(ミャンマー)側イミグレーションの責任者に礼を述べる。

 ムセに元日本人兵士の子供がいると言うことで訪ねる。Hさんもその日本兵のことは聞いていて、戦後日本に帰らずクッカイの近くでオレンジ農園などを経営して成功されていたらしい。既に亡くなっているが子供さんは数人居られるそうだ。はたして、ムセで開業している中国人医師の妻になった娘で、養女のような話だった。

 

 サイ・ルーから「シャンの歴史に詳しいムセ在住のシャン人を紹介する」と夕食に誘われる。それはありがたい話で、ホテルに戻るHさんらと別れ、サイ・ルーの案内する店へ。町の中心部のその店は、昨晩食べた中華料理店だった。この町ではそれなりの店だと言うことか。

 最初に現れたのは印刷業をやっているサイ・カン・ミン、次にやって来たサイ・チョウ・ミンはクン・サン・トン・フンの孫の世代、サイ・アウン・バはムセの商工会議所メンバーで中緬国境委員会の委員、他にサイ・セン・ニュンなど、ムセ在住シャン人の知識人グループと見える。

 彼らの説明では、「この地域のタイ(Tai)はムンマオ王国の住民でタイ・マオを自称する」。シュウェリー両岸にタイ・マオのムアンがあり、1924年に英国と中華民国の間で合意したマクマホン協定で、現在の徳宏地区になる8サオ・パー(ソーボワ)領が中国になった。その内容は、モン・クー、モン・コーン(芒市、現在の潞西)、モン・ラ、モン・ミィエン(騰越、現在の騰冲)、モン・ティー(梁河)、モン・ワン(ジンポー族ソーボワ)、モン・チュアン、モン・マオ(瑞麗)である。首長間では通婚関係があった。

 タイ・マオの言葉の特徴はトーン(声調)の区別が6つあり、他のシャン語地域では5つである。表記について、1974年に新シャン語表記法を決め、現在それを用いる。表記法変更の要点は声調の明示と言文一致らしい。

 昨日センウィーでクン・サン・トン・フンの孫という男に会ったと言うと、皆それが誰か知っていて、「彼の兄貴は僧で、スリランカまで行ってその帰り、バンコクでクン・サーに誘われたりして、今はチェンマイに居る」ことまで教えてくれる。

 ここの人々は、ビルマ(ミャンマー)の中にあっても、自由にものが言える様子である。

 

57日(ムセ・モンユウ・ナムオン・ラシオ・シーピンサカーン・メイミョー・マンダレー)

 

 今日は一息にマンダレーまで戻る予定。朝7時過ぎに出発すれば日暮れにマンダレーにまで着くはずである。

 朝食は中国国境ゲートに近い店で摂る。サイ・ルーが妻と一緒にやって来た。CPB(ビルマ共産党)時代に共産党の司令部だったワ州中国国境のパーンサーンで結婚したそうだ。

 

     

ムセの朝の路上                                                            ムセの朝

 

     

ムセの朝                                                                      朝食を食べた店

 

 モンユウの三叉路で小休止、Hさんはいま一度三叉路に立って、舗装の傷んだ昔のままの「バーマロード」が向かうチュウゴック・畹町(ワンチン)方面を眺めている。

 

      

モンユウ三叉路と中国に向かうバーマロード              クッカイ・ラシオ方向

 

 ナムパッカのチェックポイントでは、中国国境方面から来る車の荷物を全て調べる。クッカイには10時過ぎに到着、行きに寄ったビュッフェ形式の街道レストランで小休止。料理はいつでもあるが、昼食にするにはちょっと早過ぎる。パラウン族の物売りは今日もいる。

 

 クッカイ高原を抜け、センウィー平野に下り、行きにパスポートコピーを要求されたチェックポイントを過ぎて数キロ走ったところだった。なんの変哲もない街道に沿った小さな集落を通り過ぎかけると、Hさんがここで「停めて欲しい」と言う。

「確かこの村に温泉があったはずだ。村の名はナムオン」。

 ここには温泉が在ることから戦時中に野戦病院が設けられていたそうだ。またまた病院の記憶である。はたしてビルマ人ガイドが街道沿いの店で尋ねると、確かに温泉があると言う。Hさんの記憶は正確だった。

 Hさんの記憶する村の名前「ナムオン」は、タイ(Tai)語で「熱い水」と思える。タイ(Thai)語で「水」はナーム(nam)、「熱い」はローン(rong)、ナームローンで「温泉」の意味もある。タイ(Thai)でも北部のチェンマイやチェンラーイでは、「r」音は無声化して「h」音になり、チェンラーイはチェンハーイとなるのが地元の音である。だから「ナームローン」は「ナームホーン」で、その「h」音が無音化し母音が短くなれば「ナムオン」となる。一般に標準タイ(Thai)語はモン・クメール語の影響なのか、音が出て母音が長い。

 ビルマ人ガイドが、「道路沿いの家で風呂に入れるそうです」と言うのに構わず、Hさんは確信を持った足取りで、街道に沿った家屋の間の横道を入って行く。数十メートル入り、菜園の後ろを流れる小川に手を浸けると温かい。むしろ熱いぐらいで、数百メートル入った樹間にある源泉では手を浸けると火傷するぐらいの温度だそうである。ビルマ人ガイドが、源泉を引いているらしい小川沿いのパイプをたどって樹間に入ろうとすると、「かなり奥で樹木が多いからやめときなさい」とHさんが制止する。

 表通りに出ると、正午に近い強い陽射しがはっきりと小さな村の風景を照らし出している。数台止まった大型トラック以外に人のけはいも少ない。どうやらここも、古い住民はいなくなったビルマ人の村の様子である。

 ビルマ人ガイドにこの村の名前を訊くと「イエブーです」と答える。「水(イエ)」・「熱い(ブー)」、しっかりビルマ語で言い換えている。

 なんにせよ、60年前は「ナムオン」と呼ぶタイ(Tai)の村であったことは確かだ。

 

     

温泉の流れる小川                                                        ナムオン村

 

 ラシオで昼食にするが、客のいない吹き抜けの食堂に従業員が見ているビルマ語のTVが大きな音で響くだけで、料理は不味い。

 

      

センウィー・シポー間の水田                                       シポーの手前の分岐路、左に進めばライカ

 

 日盛りの午後をシポー、チャウメ−と走り過ぎる。ムセのサイ・ルーも、北のタイ(Tai)族がこのあたりに多く入っていると言っていた。水の便が悪そうであまり水田を見なかったがと言うと、「雨季の雨水だけでやる。土が良いので、陸稲でも収穫は多い。それに、実は陸稲のほうが楽なんだ」そうである。

ゴクテック峡谷に近づいた村で給油の為に止まる。喉が渇いたので茶店がないかとあたりを探すが、ガソリンを売る店が数軒あるだけ。一軒の店先で面白いものがあった。モデルがポーズを取ったポスターが数枚貼ってあり、これが今のビルマ(ミャンマー)の進んでいるファッションかとよく見ると、麻薬統制局のポスターである。

 

     

ポスター                                                                      給油に止まった村

 

 喉が渇いているので次の小さな村の食堂に止める。街道を行き交う車もあまり止まる様子がない店である。村の名前はシーピンサカーンとビルマ語だが、この店にいるのはシャン人だった。奥の机で、搗いた米粒の中の小石を取り除いている婦人が3人に、遅い昼食を摂るひと組の客がいた。こちらが冷たい飲物だけを飲んでいるのを見て、客の男が「食事はしないのか?」と訊く。タイ(Thai)語で「もう食べた(キン・カーオ・レーオ)」と答えると大受けだった。町で知り合いに出会うと、たいした意味はなく「ご飯食べた?」と訊くのがタイ(Thai)語の挨拶のパターンである。シャン(Tai)語でも同じらしい。

 彼等に、ゴクテック渓谷のあたりで畑を開いているのを見たが、あれは山地民かと尋ねると、「ビルマ軍だろう。パラウンはいるが別のところだ。今からそっちのほうへ行くけど」との答。

 

     

シャン人の店                                                               メイミョー、ゴールデントライアングルカフェ

 

 ゴクテックの谷を下り、また登る。臨時のチェックポイントがあって国境方面からの車を止めている。薬物の運び屋を調べているらしい。

 メイミョー(ピンウールィン、パンウーロン)に至ると太陽が傾いて、町は夕方の色をしている。パーセルタワーを過ぎたところに現代風のカフェがあった。今のバンコクにあっても不思議ではない造りで、道路から階段を数段上がる洋館に大きな看板でゴールデントライアングルとしてある。店名も刺激的である。

 エスプレッソマシーンが置いてあり、エスプレッソが出来るか確認して注文する。出てきたものは予想通り薄い。この店のコーヒー豆はゴールデントライアングルで作っているのかと尋ねると、「あそこに居るのがオーナーだから、彼に訊いてくれ」と、窓際の席で英語のペーパーバックスを読む白人を示す。同席しているインテリ風の現地人は妻らしい。

 その白人に声をかけると、「お前はなに人だ?」と訊かれる。日本人だと答えると、「NGOか何かか?」といぶかしげである。言葉の癖から判断してこの男は米国人らしい。「いや、ただの旅行者で・・・、ちょっと店の名前に興味があっただけで」と答えても、彼の目には警戒の色がある。「いや昨年、北タイのメーサリアンとかでもコーヒーを作っているのを見たから、ゴールデントライアングルと言ってもそこらへんのことなのか、それとももっと別のところなのか・・・」と言葉を継ぐと、「ここのコーヒーはシャン州で作っている、メーサリアンなんかたいしたことはない」と、やっと会話になりかけた。

シャン州のどこかと訊いてはまた態度が硬くなりそうなので、「エスプレッソを飲んだが、まだ焙煎が弱い気がする」と言うと、「ビルマでは強いコーヒーを飲む習慣がないから。うちでももっと強くと言えば、それも出来る」と強気の発言になる。「でもバンコクあたりでは本格的なエスプレッソもあるし、スターバックスとか・・・」と言いかけると、「スターバックス?!あれはいかん(awful)」と、どうもやはりコーヒーの趣味は違うようだ。

なんにせよ、いまひとつ正体のわからない人物である。まさか米国か何かの薬物抑制プログラムで、眉唾ものの芥子転作でもないだろうが。

 

 シャン高原を下りて蒸し暑い中部ビルマのマンダレーに着くと、もう太陽は落ちて、ねっとりとした夜気が熱を含んだ闇となってのしかかる。

 

 

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