シャン州を訪ねる (2004年4月26日‐5月7日)
第2章 シャン州北部(ラシオ・ムセ)
5月5日(ラシオ・センウィー・クッカイ・モンユウ・チュウゴック・ムセ)
また朝早く目が覚める。清々しい高原の朝で、近所を散歩する。交差点から少しマンダレー方向に行った地点に、人が集まって朝から店を開く食堂も数軒。マンダレー方面への小型バス・タクシー乗り場である。荷物を抱えた人がバイクや乗合トラックでやって来て、小型バスにいっぱいの荷物を詰め込み、満員になったバスから出発して行く。食堂では、米麺が美味そうである。タイ(Tai)系の土地に一般的な、白い米麺をさっと茹でて椀にあけ、大鍋に用意したスープを注ぎ、香草を添えるものだ。スープだしの味が店の人気をわけるポイント。

ラシオ、ミニバス乗り場 バス乗り場

バス乗り場 麺
まだ朝食には早いので、鉄道駅方向に歩いてみる。道沿いには背の高い樹木が多く、間隔をとった家並みには清潔感があるが、駅は数キロ先と聞いている。通りかかった乗合トラックを止め、駅に行くか確認して乗車、値段は200 Kyatチャット(約25円)。おおむね下りの道路は、家が建てこんで人の多い地区を過ぎ、ほんの少し雑然として小汚い雰囲気になって車や乗合トラックがいくつか溜まっている場所に至る。乗合トラックの運転手は車を止め、前方の店の間、舗装が途切れ砂利が浮いた道を示す。
行ったことはないが、西部開拓時代のアメリカはこんなところではなかったと思ってしまう。理由はわからないが、昔見た西部劇の映画にこんな光景があったのかもしれない。

ラシオ駅 西に向かう鉄道線路
教えられた道に進むと、高い山を背後に小さな駅前広場を持った低い駅舎があった。駅の手前、左側の横道に貨車が留められた引き込み線があり、これならすぐ横付けしたトラックに物資が積み替えられそうである。援蒋ルートの時代、まさにこの駅でラングーン港からの荷が中国行きのトラックに積み替えられたのだ。ここが滇緬公路(Burma Road)の起点である。
駅舎には人がいないようで、空っぽのホームに出ると、近所の人間が線路敷きを行き来している。ホームの先の車止めから西に向かって伸びている線路のグレードは良いものではない。路床は貧弱で、レールは波打っている。つまり20世紀前半の鉄道の動態保存なのだろう。ある意味これも貴重である。

ラシオ引込線 ラシオ駅前
乗合トラックでホテルに戻ると、やっと朝食時間だった。ホテルを出発し、交差点の南側、元日本軍病院の跡。と言っても現在も病院だから、車で構内をさっとまわる。兵隊、特に激戦の経験者には病院の記憶が重要であることがわかってきた。兵隊は戦闘で負傷すると、歩けるものは自力で、それでなければ介助をつけて野戦病院まで下がる、ここで応急の治療を受け軽症なら回復を待って前線の自分の部隊を探して復帰する。重症ならさらに後方の設備が整った病院に送られ、加療休養ののち、戦闘に適する身体であれば自力で部隊に復帰する。つまり日本陸軍の場合、負傷や病気で病院に入っても回復すれば元の部隊に戻って来るし、それ以外は野戦病院で手遅れとなればそこで、重症で悪化したり衰弱した者は病院で亡くなることになる。激戦を生き残った人なら、野戦病院ぐらいは世話になったか、或いは復帰してきた戦友から話を聞いたり、或いは戻らなかった者はどこそこの病院で死んだという情報が復帰した者から伝えられたわけだ。

ラシオ新市街モスク ラシオ電話屋

ラシオ路上 ラシオ山地民
病院の先、ラシオ新市街のマーケットを歩く。大きなモスクがあり、出入りしているのはインド系。しかし見渡すと、道路に並んだ店には漢字の看板や説明が多く、道路に出した机に電話機を置いた店には「可以播打世界各国」と国名の並んだ立派な墨文字の貼り紙がある。達筆である。かなり中国文化の色が濃い。市場の中、しっかりした店構えの雑貨店の表で、朝食なのか麺をすすっている中国系のこざっぱりした身なりの青年に声をかける。予想通り英語が話せる。雲南系中国人だがイスラームのパンデーではない。通りかかった友人を指して「彼はパンデーだ」と言う。外見だけではほとんど違いがない。ところで「ここで両替ができるか?」尋ねると、中国元だけを扱うそうだ。東部シャン州と西双版納の国境付近ではタイバーツも流通して交換できるが、ここからチェントゥン(チャイントン)を経由してタイに行く人や物の流れはなさそうである。
マーケットの周辺に山地民の姿は少ない。昨日ホテルの食堂で聞いたかぎり、朝の早い時間など、そこそこ山地民が来るような話だったが。旧ラシオ行きの乗合トラック乗り場付近にひとりだけ、山地民の婦人が竹篭から出した山の産物を並べていた。ひとりで行動する山地民は珍しいし、パラウンのように見えるが決め手がない。
ラシオ新市街を出、旧ラシオのあたりで鉄道駅から来る道路と出会うといよいよ「バーマロード(Burma Road)」、滇緬公路、通称「援蒋ルート」である。小一時間走ると検問所があり、全ての車両は乗員の身元と積載する荷物の検査を受ける。時間がかかるのを見越して物売りが大勢やってくる。竹筒飯(カオラーム)を試すと、中はもち米ではなく赤黒い色をした本当の餅で甘い味がする。柔らかめのういろうとでも言うか、なかなかいける。
検問所を通過する外国人はパスポートのコピーを提出する必要があるが、用意がなく、ここにもコピー機はないと言うので、交渉の結果、ひとりの男の子が同乗して来た。検問所の係官にも身元が知れている近所の子供で、駄賃と帰りの交通費をもらう約束で次のセンウィー(ティンニー)の町のコピー屋まで同行し、コピーを受け取って検問所まで届けるそうだ。気が利いた子供で、ビルマ語を話しているが中国系らしい。
雲が厚くなり雨が降り出す。道路に沿って長く続くビルマ軍の施設の銃眼なのか装飾なのか、規則的に開口部を設けた壁が途切れると、センウィーのひとつの村に入る。村を過ぎて橋を渡り、雨に緑が映える水田の中を進んで、道路沿いに民家が立ち並ぶ集落に入ったところでコピー屋があった。ここも小型エンジン発電機を回してコピーを撮る。

ラシオを出るバーマロード チェックポイント
町は鄙びた風情だが、北部シャン州の雄センウィーである。ここの歴史も13世紀、ムンマオ王国の系譜に連なり、明朝史料の「木邦」宣慰使に比定される。16世紀のタウングー朝バインナウンによるシャン高原制圧直前の首長カムへップファー(チェントゥン音での表記)はサオ・サイムン訳「チェントゥン国年代記」に最初に登場するシャン(サルウィン西岸のタイTai系)の首長で、チェントゥンの内紛に介入している。またチェントゥン史料によるかぎり、サルウィン河西岸にあった「コーサムピーの国」とはセンウィーのことである。
英領期になった19世紀末、北センウィー(センウィー)と南センウィー(モンヤイ)に分割されるが、ここもコンバウン朝末期の内紛でマンダレー宮廷に逃げていたセンウィーソーボワに対し、実質上の支配者であったクン・サン・トン・フン(センウィー家臣の娘婿でタンヤンのミョーザ)がシャン州を併合した英国からセンウィーソーボワに任命され、英国の調停でセンウィー藩を分割して元のセンウィーソーボワには南センウィー(モンヤイ)を与えることになったいきさつがある。
1938年にセンウィーを訪れた英国人旅行作家モーリス・コリスに、クン・サン・トン・フンの息子でソーボワ位を継いでいたサオ・ホム・パーは、「人は私を『盗賊の息子』と呼ぶことがあるが、事実は違う。クン・サン・トン・フンは暴君から人々を解放した」ので、「あなたの本にそこのところをちゃんと書いてくれ」と言ってタイプ打ちしたノートを渡している。コリスはそのとおり彼の本に書いている。サオ・ホム・パーは「センウィーは君主領だが『デモクラティックな原則』で統治されている」とも言っている。なんにせよ、彼がセンウィーの正統性をかなり気にしているのは事実で、当時でもシャンの中では陰口を囁かれたということだ。
センウィーのホウ(館)はどこかと、雨で人影の少ない通りの薬屋の店先に居た男にビルマ人ガイドが尋ねに行くと、男の様子が変に不機嫌である。車に戻って来たガイドは「あの人はソーボワの親戚だと言っています。この裏が家だと言っています」。雨の中、年齢は30代に見える不機嫌な彼のあとを追うと、横道を入った裏に廃屋かと見える家があり、ここがセンウィーの館だと言って中に入る。元はしっかりした造りだが、ガランとした室内には何もなく内装を撤去した貸し家か工事現場のようで、まさに工事現場のように部屋の片隅には小さな椅子と簡単な朝食の残りがのった机、折からの雨で暗い室内、椅子に座った男は迷惑そうに「何故ここに来たんだ?」と言う。こちらがシャンの歴史や文化に興味があって昔のソーボワ関係者の知り合いもいると説明すると、「何が知りたい?」と訊く。英語で喋るがそう得意ではない。
まずあなたは誰か?と尋ねるとセンウィーソーボワの甥で、名はチャ・ムン、43歳独身でこの建物にひとりで住んでいる。ここが昔のホウ(館)とは思えず確認すると、戦後ソーボワ一族が使っていた家らしい。ここで、彼が奥の部屋に案内してくれた。比較的新しいパソコンを置いた机と蒲団を敷いた鉄パイプのベッドがあって、学生の下宿部屋のイメージ、彼が住んでいる部屋である。壁に写真があり、彼の父親は国会議員だったと言う。
これで彼の系図が理解できた。モーリス・コリスが書いているサオ・ホム・パーの弟サオ・ヤン・パーが彼の父で、1956年の総選挙でセンウィー選挙区の議席を、妹でヨンホェに嫁してビルマ連邦初代大統領夫人となったサオ・ナン・ハン・カムと争った人物である。前回の選挙で妹はセンウィー選挙区の議席を得ていたが、兄のソーボワはこの時の選挙では妹に立候補を留まるよう勧めた。だが妹はその忠告を聞かず、議席を失うことになった。
と言うことは、目の前の男は実力で北センウィー藩ソーボワになったクン・サン・トン・フンの孫で、ビルマ連邦初代大統領夫人のヨンホェマハディヴィの甥になり、チャオ・ツァーン・ヨンホェの従兄弟である。
彼は5人姉弟の3番目で、長姉はマンダレーでコンピューター関係の何かをしていて、他の男兄弟3人は僧だと言う。43歳ということは、1960年か1961年の生まれだから、生まれてすぐにネ・ウィンクーデタで、ものごころついて以来、彼はずっとネ・ウィン政権下で育ったわけだ。

センウィー館跡 入口の階段に立つチャ・ムン
突然の訪問者に対する苛立ちも少し落ち着いたのか、「昔のセンウィーの遺物を見せてやる」と、運転手に指示し、街道を少し戻って舗装のない道に入って行く。一軒の伝統的な家屋に立ち寄って家人に声をかけるが、鍵を持っている人間は不在。さらにその先、樹木が繁った草地の隅に小屋があり、そこに遺物がしまってあるらしいが、鍵がない。雨に濡れた草地が少し開けた向こうに壊れた建物の壁が見える。これがセンウィー館の跡だった。20世紀になって建てた洋風建築で、第二次大戦中にアメリカ軍の爆撃で破壊されたと言う。当時、日本軍がセンウィーに駐留していて、米軍機はセンウィーの大きな建物を狙って爆弾を落としたそうだ。
廃墟の西側は土地が一段低く、昔の館に導く立派な石段が残っていた。訪問者の乗った車は、街道から入ってこの石段の前の広場に到着し、石段を登って館に導かれたと見える。
歩きながら、タイ語を話すかとタイ(Thai)語で尋ねると、チェンマイに居たことがあると答えた。チェンマイのほうがいいのではないかと言うと、はっきりした答はなかった。
小ぶりになっていた雨がまた強くなる。車で彼の家に戻りかけると、道路の反対側に立派な仏塔を持った大きな寺院が目についた。シャンの寺院だが、ここら辺りにチェンマイ系のサンガ(宗門)は有るのか尋ねると、ここにも居るという興味深い返事だった。
最初に彼に声をかけた店の前で礼を述べ、別れると、まだ降りやまない雨の中、彼は手にもった傘をささずに振り返らず、あの何もない家に向かって歩いて行った。
思いもよらずセンウィーの縁者に出くわし、不思議な縁を感じるが、実はこのあとさらに意外な出会いが待ち受けていることは、知る由もなかった。
センウィーの町の出口に料金所があり、そこから道路は北に向かって急な登りになる。登り坂の途中に印象的な光景がある。北に広がるクッカイ高原台地がセンウィー平野に落ちかかる先端で、侵食を受けない固い岩が奇妙な形で露出している。大きなカーヴになったその地点で車を止める。60年前に通過したHさんにもこの場所の記憶がある。
道路から南を望むと、眼下に雨上がりのセンウィー平野が開けている。水田のあちこちに集落があり、特別に大きな街区は見当たらない。19世紀末の英国植民地官僚の報告でも、歴史的に長く中心であった集落はなく、短い期間で首長の居住地が移動していたとある。
右下に料金所が見えるから、右手奥の樹木に囲まれた集落が先ほどのセンウィー館跡あたりだろう。左手は東に向かって視界の端まで水田が続いている。東は外国人制限地域で、クンロンを経てサルウィン河を渡ればコーカンに至る。20世紀後半にはコーカン勢力・国民党・地方民兵・反政府武装組織・共産党・ビルマ国軍が阿片取引も絡んで入り乱れた地域だ。

奇岩 眼下にセンウィー
クッカイの高原台地には畑が多い。英領期の記述だと「荒涼としてカチン族がところどころに住む」と有るが、耕作された畑と中国風の土壁家屋が目につく。

土壁の家 集落
さらに台地が高くなって、樹木のない円錐形の山を過ぎるとクッカイの町が近い。道路わきの食堂に車が多く止まっている。街道を走る運転手に人気がある店で、表には麺の屋台があるが、お薦めはビュッフェ形式の食事である。おひとり様いくらの定額で、シャンの料理が二十種類ほど鍋に並んでいる。店をやっているのは中国系で、壁には紅い対聯と漢字が氾濫している。
奥の手洗いに行くときに厨房が見える。数人の婦人が食材を準備しているものの片付いていて、店に並んだ多くの料理を簡単な調理設備で作るようである。この店だけではなく、今回旅をした何箇所かで厨房を見たが、どこも整理がよく簡単な設備だったから、この地方の調理方法は効率的と考えてよさそうである。
ビュッフェ形式とは素晴らしい考えである。作る方も、減ってきたおかずを見ながら適当なペースで足せばいいだけで、いちいち注文を聞いてあれこれ作る手間がなく、客の方はよくわからないメニューや料理名を聞いて考えるより目の前の実物を食べたいだけ取ればいい。なにより遠来の客は、様々な料理をちょっとづつ試せるのが嬉しい。

ビュッフェ式食堂 漢字の聯
店の前には頭に色布を巻いたパラウン族の物売りがいる。全体にここのパラウンはナイーヴな印象で愛想が良い。山の野菜やキノコと並んで、枝を払って節の多い茶色の不思議な木の幹を売っている。人の良さそうな売り手に、半分身振りで「食べるのか?」と訊くと、拝むしぐさをする。Hさんやハイカラなビルマ人のKによれば、「樹木の王」と呼ぶ木だそうで、ビルマ人は魔よけだと言って家に飾るとのこと。

パラウン族の売る木 物売り

クッカイ山地民 クッカイの町
クッカイの町を過ぎ、高原から焼畑も見られる山がちの道になって、しばらく走ると中国風の土塀家屋も多い集落。集落を過ぎた山あいに、昼の眩しい光を浴びる検問所があった。ナムパッカで、ここからナムカンに向かう道が分かれる。我々の進む「バーマロード」はムセ方向に向かう。

焼畑 ナムパッカチェックポイント
次の検問所はモンユウ。Hさんはモンユウと言うが、ビルマ人ガイドはマインユーである。ここに三叉路があり、左に折れればムセ(木姐)、今の道路はムセ方向に整備されている。しかし「バーマロード」は直進して国境のチュウゴック(九谷)・畹町(ワンチン)に向かう。
「バーマロード」は道幅が狭く舗装も傷んでいる。道路の周囲は、樹木がなく短い草に覆われただけの小山が連続する。Hさんは昔の戦闘の記憶を語る。「戦闘をしたのもああゆう山で、頂上付近に塹壕を掘って陣を敷く。敵の砲撃には、横向きに掘ったトンネルに居れば被害はない。砲撃が終わるといよいよ下から中国兵が攻めてくる。傾斜がきついので片手に銃を構え、片手で草を掴みながら迫って来る。激戦だが、夕暮れまで持ちこたえれば中国兵は山を降りて行く。次の日も朝の砲撃から始まって同じことが繰り返される」そうだ。興味深いのは、「夕暮れになると戦闘が終了し、中国兵は戦死した兵の遺体を収容し、日本兵は尾根伝いの後方から補給を受け、飯盒炊爨の水を汲みに谷に降りると中国兵も水を汲んでいる」話だ。前線の兵にとって戦争とは何かを考えさせる。
狭い山間地に水田を持ったタイ系集落を過ぎ、峠の下りになると、前方の谷間にビルが建ち並ぶ町が見える。中国側の畹町(ワンチン)である。中国と言ってもここは、正確には中華人民共和国雲南省徳宏泰(タイ)族景頗(ジンポー)族自治州という、元は北部シャン州と現在の徳宏の両側にまたがるムンマオ王国系のタイ(Tai)族地域で、ほぼ現在の国境線を形成するシュウェリー川(麗江)はタイ(Tai)語でナムマオ(マオ川)、ムンマオの真ん中を流れているのである。ちなみにジンポーはカチン系の最大支族で、徳宏には他にパラウン系のドゥアンなども住む。

モンユウからチュウゴックへ 畹町を望む
畹町をまのあたりにして、久しぶりに市街地を見た気がする。マンダレーにしても高いビルはまばらだから、狭い空間にビルが立ち並ぶ光景は新鮮だ。ここでは中国が輝いて見える。香港から中国の国境はよく通った、澳門から中国も眺めた、2002年には北タイのチェンマイから西双版納の景洪(チェンフン)に飛んだ、いままで一度も輝いて見えることはなかった。
坂を下ってチュウゴックの集落に入り、いくつか横道があって、この道路を進んでいいのかと不安になったところで道が左に折れると、前方に国境の橋が見えた。狭い川にコンクリートの橋がかかり、中華人民共和国とビルマ(ミャンマー)連邦の国旗が揚がっている。
こちら側の橋のたもとにはイミグレーションの小屋があり、橋の手前に止まった野菜を満載した耕運機トラクターの運転手が申告している。
近づくと、現在の橋に並行して鉄枠に木の板を敷いた古い橋が残され、中ほどに「中緬国境禁止跨越」の札、中国側に立つ大きな看板には「百年畹町橋」の文字。看板の下部に百年間の主要な出来事を示す写真がデザインされている。写真の中には周恩来、李鵬、朱容基などの顔も見える。中国側の建物に「免税店」と表示され、その先、橋を渡ったT字路には首に輪を巻いたパダウン族をあしらった「玩転緬甸」と観光を誘う看板がある。ここから見る中国には泥臭ささがない。

畹町橋 昔の橋

国境の川 橋と中国の国境事務所
中国領を望む国境右手の丘で、Hさんは持参の日本国旗とビルマ(ミャンマー)連邦旗、日本陸軍の連隊名にビルマ慰霊巡拝団と書かれたのぼりをひろげる。視線の先、高い山並みを越えた向こうに彼の戦友と若き日の追憶が眠っている。「バーマロード」は目前の山を急坂で越えたそうで、「日本製のトラックは力がなく、兵隊が押しながら登ったが、「龍」師団がジャワで接収したアメリカ車はスイスイ登った」そうである。
ここで私服のビルマ(ミャンマー)官憲登場、「彼は旧日本兵で中国領で亡くなった戦友のメモリアルサーヴィスをしている」と説明すると、携帯電話でどこかと連絡する。この辺りで電波が届くのは中国側の電話だろうから、中国官憲から指摘されたのかもしれない。もうひとりビルマ(ミャンマー)官憲がやって来て渋い表情だが、直ちにやめろとは言わないので、ラジカセによる「海ゆかば」演奏のうちに黙祷して終了。直ちに旗をしまって撤収する。
数年前までは毎年いく人かの戦友とともにビルマ(ミャンマー)各地の戦跡を訪れて来たHさんだが、高齢の仲間は動ける者の数も減り、お経をあげる係りの人間もいなくなって、ついに今年はたったひとりの慰霊団になった。

中国に向かって慰霊 モンユウ
中国側の時計は午後4時30分に近い。この国境には1時間半の時差がある。モンユウに戻ってムセへ。ムセではイミグレーションとのダメモトの交渉が待っている。明日半日、中国側に入りたいのだが、ビルマ(ミャンマー)側の正式な出国手続きをすれば戻ってくる時に新たなヴィザが必要になる。一番近い領事館は昆明に在る。
ムセの町に入って観光省の事務所というのを訪ねるが、町外れのアパートの一室で、ここではどうにもできないとの返事。次に地元の旅行会社で日帰り中国ツアーを手配するところなら何とかするかもと訪ねるが、これもだめ。ただ、「今のイミグレーションの偉い人は話がわかる」から相談してみればと勧められる。
だめならしょうがないと、ムセ(木姐)・瑞麗(ルイリー)国境ゲートに向かう。ここは中国領がムセの町中に深く入り込んだところで、家並みの裏、金網の向こうは中国という風景がある。国境ゲートは立派な建築で、通過する客も多い。中国側に入った広場には「中国移動通信」の高層ビルが建ち屋上にはお約束の展望台が付いている。中国側からは徳宏泰族の観光団がビルマ(ミャンマー)側ではあまり見かけない小奇麗なタイ系衣装でやってくる。
さて問題の交渉は、ハイカラなビルマ人Kがラングーン(ヤンゴン)の旅行会社MDの肩書きを頼りにイミグレーションの責任者と話している。二人が国境ゲートに近づき中国側係官を交えて相談している輪に、地元の人間なのかロンジー姿の男が交じって何か言う。男はどちら側の国境係官にも顔が利く様子。どうやら話は前向きで、ビルマ(ミャンマー)側のイミグレーションオフィスにHさんと小生の日本人二人が招き入れられ、責任者から身元確認を受ける。彼は外国語大学で少し日本語も勉強したそうで、簡単な会話ができる。ここは想い出の戦地をぜひ訪れたい高齢の老兵と、その善良な付き添いとして殊勝な態度でよろしくお願いする。
その後、再度責任者とKが話した結果は、明朝9時前にここに申告せよということで、ほぼ行けそうである。

ムセ国境ゲート 中国境界標

民族衣装に着替えて中国に向かうシャン人 ムセの通り

ムセ市場 ムセの中心
国境ゲートから町の中心に向かう道路に面した今夜のホテルにチェックインし、歩いてホテル前の登り坂を登ると、ナムカンやラシオ行きの乗合タクシーが客を呼び、露店が集まった町の中心である。露天の入口付近には両替屋がたむろしている。ほとんど中国系の婦人で、束にしたビルマ(ミャンマー)紙幣Kyatと人民元を交換する。露店の商品は特に珍しいものがあるわけではない。今では、地元の人間は簡単に徳宏泰族景頗族自治州には出入りできるから、ここで中国製を並べても意味がない。むしろ、果物屋にあったタイ産のドリアンに注目するべきか。モントーンという名の樹高が低くて大ぶりの実をつける栽培型改良種で、東南アジア全域に輸出されている。ここでドリアンを食べるのは贅沢だとは言わないが、タイ(Thai)からの流通ルートがあることは確かだ。
夕食は町の中心部の店。中華料理が主で、雲南スタイルの鶏スープ(汽鍋鶏)は美味いがそれ以外は言うほどのものなし。
ここも早く床に就くと、遠くに花火の上がる音がする。にぎやかな中国式の連発である。一段落したかと思うと、再び始まる。ホテルの暗い階段を登って屋上に出ると、ホテルの手伝いの少年がいる。花火はあの辺りだと指す方向には、光が輝く中国の町が闇に浮かんでいる。その瑞麗(ルイリー)の市街から先ほどの中国国境ゲート方向にオレンジの水銀灯が並び、それを追うと途中の闇を透かして暗い川面が光る。初めて目にするシュウェリー川である。少し待つが、もう終わったのか花火は上がらない。
翌朝Hさんに、昨晩花火が上がっていましたねと言うと、一瞬「砲撃か」と思ったそうだ。戦争の記憶と、反政府軍が出るという理由でこの地域は数年前まで外国人立入禁止だったことがあるようだ。
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