シャン州を訪ねる (2004426日‐57日)

 

2章 シャン州北部(ラシオ・ムセ)

 

54日(マンダレー・メイミョー・チャウメ・シポー・ラシオ)

 

 早朝マンダレーを出発、東に望むシャン高原に向かって、通り雨に埃の静まった街道を走る。つづら折れの坂道が高度をあげると、眼下にする緑の平野にマンダレー市街とイラワジ(エーヤワディ)の川面が遠く、視界の左手からミンゲ川が西流してイラワジへ向かう。

 

 坂を登りきると風は涼しく爽やかで、道路沿いの樹木の間には菜園や果樹園、コーヒー園の表示まである。2時間たらずで、メイミョー(ピンウールウィン)の町に入る。ここも英領時代に、平野の熱と湿気を逃れた英人が開いた町である。英軍の司令部が置かれ、町の名メイミョーは駐留した英軍指揮官の名にちなむが、ビルマの暑さを逃れる英人の避暑地となって、未だに多くの別荘や教会・修道院など植民地時代の建築物が残されている。

 英軍はここでカレン・カチン・チン・グルカなどの兵隊を訓練したそうだが、軍隊の歴史は日本軍時代にインパール作戦を始動した第15軍牟田口将軍の司令部を挟んで、今はビルマ軍の諸施設が並ぶ。

 町の中心部、有名な時計塔パーセルタワーの周辺には古き英国を思わせるコロニアル風の街並みが残る。町外れの植物園も有名で、別荘が点在する林間の小道を抜けると、湖を配した広大な植物園の入口がある。同行の旧日本兵Hさんによれば、日本軍時代は現在の入口付近の樹間に傷病兵を収容した病棟があったそうだ。

 

      

メイミョー中心地                                                        メイミョー中心地

 

       

パーセルタワー                                                            商店

 

       

植物園                                                                          別荘

 

 別荘が立ち並ぶ地区に、衛星アンテナを付けた新築の建物もある。ちかごろ別荘を建てるのは中国系の人々か退役した政府高官らしい。

 

       

チャンダクレイグ館                                                     チャンダクレイグ館一階ホール

 

 門を過ぎると花が植わった広い前庭、二階にバルコニーを持つ瀟洒な建物があった。大英帝国時代の商社ボンベイバーマ商会(Bombay Burma Trading Company)の休養所だったチャンダクレイグ(Candacraig)館。ボンベイバーマ商会はチーク材の取引を行ない、コンバウン朝滅亡に至る第三次英緬戦争のきっかけにもなった会社である。この館は1906年に建てられたもので、現在はホテルとして使われている。車寄せから玄関のテラスに進むと、両側は食堂とティールーム、吹き抜けの一階ホール正面に設けられた大階段が回廊式の二階廊下に昇り、四角の建物の四隅にそれぞれ暖炉を持った主客室が4部屋配されている。部屋を見せてもらうと、完璧とは言えないがバスルームなどは更新されていて、なんと言っても植民地時代の雰囲気をこれだけ残した建物は少ないと言える。ちなみに部屋代は一泊US40$ほどとのこと。

 寄宿学校だった男子校聖アルバートと女子校聖ヨゼフ。ここもシャンのソーボワ子女が多かったところだ。隣接する教会を訪れるが、人影はなく扉は長く閉ざされたままのようだ。

 

     

聖アルバート                                                               修道院

 

      

学校敷地                                                                      閉ざされた教会

 

高原台地を走ると次の大きな町はノゥンキォ(ノォンチョー)。町にかかるとビルマ人ガイドが『ノォンチョー』だと言う。初めは何と奇妙なことを言うのかと驚いたが、疑いも無く本気である。ノンはタイ(Tai)系諸語で「池」、ケォは「緑」、ノン何とかは北部タイやイサーン(東北タイ)でもよくある地名だ。この辺に湖か池はないかと訊いても、質問の含意は理解されない。ビルマ人にとっての地名とは、文字を見てビルマ訛りで読むだけで、元の意味はどうでもよいことらしい。

 

 高原を走る街道が峡谷に行き当たると、ゴクテークの鉄道橋が見える。第二次大戦前からマンダレーとラシオを繋ぐ鉄道で、1930年代後半にはラングーン(ヤンゴン)港に荷揚げした物資を重慶の蒋介石支援の為に輸送したものだ。

 道路はつづら折れになって谷底へ下り、車一台が通れる橋を渡って、再び向かいの崖をつづら折れで登る。この辺りには山地民が居るのか、焼畑のような畑が樹木の間に見える。

 下って登って峡谷を過ぎるのに小一時間をかけ、再び高原台地を走る。この辺りからチャウメの間では、木を払って耕作された土地が多くなる。高原台地で灌漑設備は見当たらず、天水だけで農作を行なうと見える。ただし耕地の形状や大きさは山地民の焼畑より平坦で樹木はほとんど見当たらずはるかに広い面積である。

 

       

ゴクテーク鉄道橋                                                        ゴクテーク峡谷の道路橋

 

      

ゴクテーク峡谷を過ぎる                                              ゴクテーク・チャウメ間

 

 チャウメを過ぎた街道脇の店で昼食にする。こういう場所では、先客のテーブルを見渡して人気のあるメニューを選ぶのが正解である。香草を交ぜて豚の挽き肉を炒めた皿は大正解。シャン高原の米が美味いのは日本軍時代から定評がある。

 

 客の中に軍服の男がひとり。マンダレーからこの旅に合流しているKは「あれはワの軍隊だと」小声で囁く。KHさんが十数年懇意にしているラングーン(ヤンゴン)の旅行会社のMDManaging Director)だが、実際に会社をやってきたのは華人の妻で、彼自身は海運会社でシンガポールと行き来したりして今のビルマ人の中では珍しくハイカラな人物である。男の袖肩についた軍章がビルマ国軍とは違うのだが、店の人間とかに確認するとどうやらワではなくコーカン(果橄)らしい。ビルマ人は地方民兵軍(休戦合意などでラングーン政府に認定された元反政府軍)を見ると何でもワだと言いたがる。それだけ有名で意識されている証拠だが。

コーカンはワ州の北に隣接するサルウィン河東岸の狭い帯状の地域で、19世紀末英国がサルウィン河東岸部分までの領有を清朝と約した結果、英領シャン州北センウィー藩の領地(コーカンの首長がセンウィーソーボワの配下にある)となり、第二次大戦後センウィーから分割された雲南中国人地区である。この地域の国境線が最終的に確定したのは1960年の周恩来とウ・ヌーの時である。

隣接するワ州は英領時代、先住の「野蛮なワ族(Wild Wa)」が住むとされる非統治地域(実際の植民地行政が及ばない地域)で、1970年代には管区ビルマ(英領期英国の直接統治下にあった中央部ビルマ)を追われたビルマ共産党の根拠地となり、ワ族住民をリクルートしたワ軍が組織された。1989年ワ軍内部の叛乱でビルマ共産党系の古参幹部が放逐され、ラングーン(ヤンゴン)政府と休戦協定を結んで今に至るが、影響力を持っているのは芥子栽培を得意としたワ族を用いて阿片交易を支配してきたコーカンの雲南中国人である。

想像される理由でコーカンとワは大きな資金力を背景に、現在のビルマ(ミャンマー)連邦内で様々な事業を行なっている。マンダレーからここまで走って来た道路は、民間のBOT(建設・運営・委譲)方式がとられ、民間企業が道路の建設補修を行なって通行料を徴収し、25年か30年後に政府に委譲するしかけである。資金のない開発途上国で採られる開発手法だが、ほとんどの料金所はコーカン資本といわれるアジアワールド社のものである。

 

       

チャウメの食堂                                                            道路沿いの風景

 

 店の壁に学生と学校が写ったポスターがいっぱい貼られている。メイミョーにあるプライヴェートの寄宿学校の宣伝である。地方の子供を寄宿舎に預かって勉強させるのは、昔のミッションスクールの代替物なのか。

 食事をした店の前にはこの地方の乗合タクシーの定番、旧式のトヨタカローラバンが何台か停まっている。中国国境のムセ・ナムカン方面とメイミョー・マンダレーを結ぶ足で、街道を客と荷物を詰め込んでかなりのスピードで行き交っている。中国国境とマンダレーの間を9時間ほどで走るそうだ。

 街道沿いには、洗濯物を干すような竹ざおに白く薄い食品を下げて干している家がある。近くで見ると、漢字の聯をそこらじゅうに貼った中国人家屋の土間で何かの乳を手でまぜながら加熱し、上澄みと凝固物が分離したところで、凝固物を伸ばして薄い膜状にし、竹ざおに掛けて干している。チーズの類らしい。

 

 街道を進み、川と水田が見えるとシポー(ティボー)である。鉄道線路を横切ると有名なパゴダがあり、休戦協定を結んだ北部シャン州軍(SSA North)の事務所を過ぎると町の中心部に入る。

英領シャン州では南部と北部が行政上区別されていて、大小さまざまな大きさの藩が27存在する南部に対し、北部は6つの比較的大きな藩だけで構成された。その内訳はシポー、モンミット、タウンペン(パラウン族の土地で茶が有名、町の名はナムサン)、北センウィー、南センウィー(モンヤイ)、マンルン(サルウィン東岸のワ地区)で、ラシオ駐のシャン州副弁務官が管轄した。

 シポーの歴史では13世紀ごろ現在の中緬国境シュエリー(ナムマオ)川流域にあったムンマオ王国からの系譜を伝えていて、古名はオンバン。19世紀にシポーの娘のひとりがコンバウン朝のミンドン王の宮廷に入り生まれたのがティボー(シポー)皇子だ。英領期になって20世紀初頭のシポーソーボワは開明派でサー(Sir)の称号を持ち、1927年にソーボワ位を継いだサオ・オン・チャはオックスフォードで修士を得ている。この一族は英国流の趣味で、西欧風の夏用離宮を建てたりもした。最後のシポーソーボワは196232日の朝タウンジーからヘホー空港に向かう途中行方不明になったサオ・チャ・センで、彼の妻はアメリカ留学中に知りあったオーストリア人だった。1960年代にビルマを出国し、現在は再婚して米国に住む元シポーのマハディヴィ(正妻)サオ・インゲは1990年代に、思い出を綴った“Twilight over Burma”を出している。

 

 シポーの町は大藩の中心だったとは思えない小さなひっそりとした町だった。実際、町を通り過ぎそうになって尋ねると、シポーのホウ(ソーボワ館)は手前にあった民家の集まった辺りを北に入ったところだと教えられる。人通りの少ない午後の道端で野菜などを売る人々の前を過ぎると人家が切れ、西から流れてくる川にかかった橋を渡ってから、舗装のされない草道を入った先に屋敷の門があった。門は閉じられて鍵がかかっている。運転手がクラクションを鳴らすが直ぐには人の出てくる気配がない。Hさんが持っていた「歩き方」を見ると、夕方4時ごろから訪問客を応対すると書いてある。時間は未だ3時だ。そうこうするうち人影が見えた。鍵を開けに来た婦人は、現在この館に住む行方不明になったソーボワの甥夫婦の妻のはずだ。

 初対面だが彼女サオ・サム・ポーンのことはよく知っている。シャン州に興味を持つきっかけになったロックソックソーボワの娘サオ・ノン・ウゥの姪になる。サオ・ノン・ウゥの自伝“My Vanished World”によれば、ロックソックの長姉がモンヤイ(南センウィー)藩に嫁し、娘ばかり8人姉妹が生まれた4番目がこのサオ・サム・ポーン、英名ファーンだ。

 

       

シポー館                                                                      シポー館のシャン州旗

 

 ソーボワ世代の人物は英名で呼ぶことが多く、ファーンは「今日はドナルドがいなくて」と言いながら、屋敷の庭にあるサーサナー(仏法)の旗を飾った菩提樹の先の礼拝堂や裏手の農地を見せ、屋敷へと案内する。ドナルドとは彼女の夫サオ・ウゥ・チャのことで、タウンジーに住む老父を訪れているらしい。

 過去の写真で何度か目にしたシポー館のヴェランダから一階の部屋に入ると、奥の壁には黄・緑・赤の三色の真ん中に満月を表わす白丸をあしらう大きなシャン州旗がかかり、シポー家の人々の古い写真や遺品が並べられている。「これは日本の写真館が撮った写真だ」と言って見せたのは、1927年から1928年のソーボワ葬儀風景で隅に“Nikko Studio Taungoo”と有る。ところで、ドナルドのお父さんは行方不明になった最後のソーボワの兄弟だとは聞いているが、どういう人かと尋ねると、なんと、1927年にソーボワになったオックスフォード帰りのサオ・オン・チャは1938年に亡くなり、その叔父でサー称号のソーボワの弟が日本軍時代に位を継いだが高齢で、その息子のサオ・チャ・ソンが「ヤング・ソーボワ」として実務を行なった。まさにこの「ヤング・ソーボワ」がドナルドの父で、1948年に弟のサオ・チャ・セン(これが行方不明になった人)をソーボワにして、自身はタウンジーのシャン州政府に参加したということがわかった。

「ヤング・ソーボワ」は日本軍資料によく登場する人物でその後どうなったのかと思っていたが、タウンジーで存命とは知らなかった。タウンジーの家はどこですかと訊くと、「大叔父のサオ・キャオムンと会ったのでしょう。友達だから彼に言えばすぐ連れて行ってくれますよ」の答に納得。先日タウンジーで会ったサオ・キャオムンはファーンの母親の叔父になり、ファーンは母方をたどればチェントゥンのタイ・クーン(Tai Khun)で、チェントゥンソーボワインタレン(在位18971935)の曾孫にあたる。

 日本軍資料でも「ヤング・ソーボワ」はしっかりした論客で、ファーンの話では1948年にシャン州政府に参加したのも「シャン州の将来の為に仕事をしたい」思いからで、「今でも記憶はしっかりしている人だ」と言うから、次回タウンジーを訪問の際には是非話を聞きたい人物である。

 同行のHさんは戦時中シポーを通過しているが、その頃ファーンはモンヤイで生まれたばかりで、それでもモンヤイに駐留した日本軍人で戦争末期に亡くなった「オキタチョー」とか言う名の記憶があるそうだ。

 話は今朝から走って来た地域のことになって、メイミョーからが昔のシポー藩の領地だった。最近ピンウールィンと呼ぶのは元々パンウーロンというシャンの村名があるからで、第三次英緬戦争で英国が上ビルマとシャン州を領有した時、英軍駐屯地とヒルステーション(避暑地)にするので当時のシポーソーボワが英国に譲ったそうだ。ノゥンキォはやはりファーンの説明では「エメラルド池」で、チャウメあたりにはカチンやタイ・ヌー(北のタイ族あるいは中国のタイ族)が移入しているらしい。

 シャン語の教育については、「シャン州軍(休戦協定の北部シャン州軍)が努力してくれている」とのこと。シポー館を訪れた人の名刺があり、日本人では東京外国語大学でシャン語研究の新谷さんや広島大学の高谷さんなどがある。

 展示してある一族の写真の中には最後のシポーソーボワの妻サオ・インゲの本の表紙に使われた写真もあり、同行のハイカラなビルマ人Kでも白人がシャン衣装を着ているのが珍しいようである。やはり、シポーソーボワの妻がオーストリア人だったことや、本人は行方不明のままである事情は一般のビルマ人には知られていない。書棚に置かれたサオ・インゲやサオ・ノン・ウゥの本は英語であってもビルマ(ミャンマー)ではアブナイものだろう。ファーンによればSLORC(国家法秩序回復評議会)からSPDC(国家平和開発評議会)となった現軍事政権に、1962年以来行方不明となっているソーボワの再調査を依頼したところ、現政権の人間は「ネ・ウィンクーデタの朝そんな事が起きたのも知らない」そうで、「軍が拘束した記録はどこにも無い」と言っているそうだ。

 今晩はラシオ泊の予定なので、約1時間話して退出する。現在京大の院生でシポーの寺で出家した経験もあるK君によれば、「ドナルドが居ればシャンのことについて話し出すと45時間は帰らしてくれないから、出かけてたのは幸いだったかもしれませんね」となる。

 

 傾きかけて黄色味を増した太陽に照らされるシポーの道端の風景を写真に撮る。道端に野菜を並べた数人の婦人は普通のシャン人だ。ビルマ人のガイドによれば、ビルマでは「シャンの美人ならティボー(シポー)に行け」と言うそうで、期待したのだが。

 

       

シポーの橋                                                                   シポーの川

 

      

大きな川に合流する                                                     シポーの路上

 

      

シポーの路上                                                               シポーの路上

 

 シポーの町を出ると大きな川が西に向かって流れている。どうやらミンゲ川の上流になるらしい。街道はしばらく川沿いを走る。雲南省から中国軍と対峙しながら最後尾で撤退した「龍」師団の人の話を思い出した。

「弾薬が少なく、ほとんど戦闘はできないが、塹壕を掘って中国軍と対峙すると向こうも小銃の射程距離の外に塹壕を掘って睨み合いになる。数日その状態が続くと中国軍の後方から大型の榴弾砲が到着して砲撃準備を始める。砲撃が始まると塹壕にいても上から砲弾が落ちてくるので損害が大きく、後退する。適当な距離を下がって地形の良いところでまた塹壕を掘り待ち構える。これを繰り返す。もとより大規模な戦闘をするつもりも戦力もないが、敵の前進をなるべく遅らせるのが使命だった」そうだ。

「昭和201945)年の4月ごろシポーの郊外まで下がってくると、川の対岸に米軍がいるのを発見。こちらは息をひそめて隠れると、どうやら向こうは攻撃の準備中ですぐに動き出すけはいではない。もちろん敵の火力と弾薬量は桁違いなのでこちらから撃ちかければひとたまりもないし、見つかっただけで大量の射撃を受けることになる。結局一週間ほど川を挟んで隠れ、敵に前進の動きが見えたところで南に向かって後退した」そうだが、「米軍は武器も食糧も豊富で、夜になるとジャズを鳴らしていた」と言うのが印象的である。

 

 1時間ほど走るとやや大きな橋があり、山が迫って小さな峡谷になっているところがシポー藩とセンウィー(ティンニー)藩の境か。風景が山がちになって夕陽を受ける町が見えるとラシオである。英軍が駐屯し北部シャン州の行政機関が置かれ、鉄道の終点だった英領時代の要衝である。

 マンダレーから来た街道が、駅に向かう道と分かれる交差点の近くに今夜のホテルがあった。チェックインを済ませ、陽が落ちて黄昏の交差点付近をHさんと歩く。

「ちょうど交差点の南西角に輸送隊の本部があり、その横、新市街に登る道を行くと病院があった」。交差点から中国国境に向かう街道はやや左に曲がりながら下って行く。東南角には建替えられて今は市の行政関係のやや大きな建物があり、その隣に教会。

「教会の石段で休憩した記憶がある。もっと道の傍だったと思う。その向かい側は道路からぐっと下がった窪地になっていて、売春婦の小屋が並んでいた」そうだ。現在は公園になっていて、確かに谷状に下がっているが、Hさんの感覚ではもっと高低差があったようだ。

 交差点から鉄道の駅に向かう方向に数十メートル行った地点に今夜のホテル、ラシオモーテルが建っているが、ちょうどそのあたりに植民地風の家が数軒並んでいて、そのひとつに泊まったそうである。60年ばかり前のことだ。Hさんは昭和191944)年の5月ごろ援蒋ルートを抑える「龍」師団の支援の為、ここを通って中国に向かい、龍陵(ロンリン)に布陣、7月からの激しい戦闘で玉砕を覚悟した9月に龍陵を撤退、彼の部隊は北シャンのモンミット方面に移動してカチン州北部フーコン方面から後退する「菊」師団の支援に向かう指令を受け、同年末ごろ再びこの道を通過してチャウメからモゴック、モンミットへ向かったのである。

 

       

ラシオに近づく                                                            ホテルの裏

 

      

ラシオのホテル                                                            ラシオ交差点

 

 ホテルは典型的な中国旅社の造りで、食堂は別棟の宴会場に使える建物にある。ここも客は我々だけ、メニューは中華でたいしたものは無い。食堂の人間に「何かこの近くに見どころがあるか?」尋ねると、ラシオの温泉があると言う。Hさんには街道沿いに在った温泉の出る村の記憶があるが、どうもそれとは違ってラシオの近郊で少し街道をそれた場所に入浴施設ができているらしい。

 食後することもないので、そのまま食堂でビールを飲みながらお喋りを続ける。ハイカラなビルマ人Kは旅行会社のMDだから、特に午前中通ったメイミョー(ピンウールィン、パンウーロン)など、「植民地時代の建物と雰囲気がこれほど残っている場所は、東南アジアの旧英領地域でも珍しい。はっきり言って開発の遅れがそうさせたのだが、観光資源としては有望だ」という話になる。

似たようなところでは、マレーシアのキャメロンハイランドとか、英国そっくりのパブと郵便ポストが在るがほんの一部で、町やホテルは最近の建物だ。今回旅したカロゥやメイミョーにはホテルや別荘の多くがほとんどそのまま残っているし、メイミョーでは未だに昔ながらの馬車が交通手段に使われている。植民地時代の建物がわりあいそのまま残っている町と言えば、マレーシアのイポーで、19世紀末から20世紀前半は錫鉱山で繁栄したが戦後錫価格が低落して住民の数も減り、特に錫以外の経済基盤があったわけではないから、今では落ち着いた田舎町に不釣合いな競馬場やクリケットクラブや英国行政機関の建物がほぼそのままの姿で見られる。

 ここから、ハイカラなビルマ人Kとクリケットの話になり、あの退屈なゲームのルールを説明することで結構盛り上がった。旧英領地域でも、インド・パキスタンなどは今でもクリケットが盛んだが、ビルマは昔からサッカーが好まれたようだ。サオ・ノン・ウゥの自伝にシャン首長学校とカロゥのキングズウッド校のサッカー対抗試合を応援するくだりがあるが、熱が入っていた。規則が厳しいことで有名だったカロゥの聖アグネスに寄宿するソーボワ子女も、この対抗試合の応援に出かけるのは許されたと言うから、英本国に於けるラグビーやクリケットやボート競技並みだったのだろう。

 

 

 

シャン州北部2につづく

 

 

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