2002年9月西双版納景洪旅行記 4
9月21日
朝から歩いて曼听公園に向かう。曼听路を南に歩くと中国の埃っぽい通り。高速道路の高架をくぐると曼听村綜合市場、小さな市場だが泰族の見慣れた衣装とタイ(Tai)世界の食材。

曼听路 曼听市場 曼听市場

曼听市場 豆腐屋 曼听市場 曼听市場
すぐ先に佛牙寺というのが在り、中を覗くとお堂に泊り込んでいる人々がいる。そう言えば今日は満月で、小乗仏教では戒を改める日である。昨日の孟板の拡声器と人の流れも、何か満月に関係していたかと考える。
その隣が曼听公園の入口、入園料15元。チラシがあって「泰王御膳歌舞晩会」とある。19:50開場、「領略版納民族風情、享受泰王御膳情趣」だから、やはりここでも民族舞蹈と食事が出る趣向で、晩会票价80元。泰族宮廷歌舞で始まり、山地民族風情として哈尼・布朗・ワを紹介し、食事は泰王御膳だと謳っているから、この内容どおりならここが一番正統派でリーズナブルな値段である。
公園に入るとまず周恩来の記念碑に出会う。当時の写真に附された説明では、“1961年4月13日から15日の潑水節(泰暦新年)、敬愛する周恩来総理はビルマ連邦首相ウ・ヌーと伴に西双版納を訪問した。当時、交通の便は悪く、思芽の空港から車に乗り、瀾滄江を舟で渡って景洪に着いた”とある。ウ・ヌーと一緒とは面白い。ウ・ヌーは1960年総選挙でネ・ウィン臨時政権から民政復帰し1962年クーデタで追われる間のことだが、元はビルマコンバウン朝と中国清朝に両属したシプソンパンナーを革命後公式に訪れる周恩来が、中国流の筋を通す姿勢を示したのか?それとも、この周辺のタイ(Tai)系地域のビルマと中国での分割を協議したか?いずれにせよ中緬国境線の何箇所かは未確定であった。

佛牙寺 曼听公園 周恩来記念碑 1961年周恩来訪問
記念碑になった周恩来は、泰族衣装で水盆を持ち、水を掛け合っている。元ツァオペンディン(泰族首長)の庭園で、過ぎた年を洗い流し新しい年の幸福を祝う水を掛け続ける銅像は、新たな支配者人民中国の化身なのか?もっとも、人民中国のほうがビルマ連邦よりは良い支配者だったようだ。なにしろ、4月に訪れたチェントゥンには夕方3時間ぐらいしか電気が来なかったが、景洪の夜は酒店や商場の看板が輝いている。
舞台がある。朝の10時半だというのにもう泰俗舞踊を演じている。少ない観客は泰族らしく、舞台に上げられて鼓を叩いたり一緒に踊ったりする男の客は、よほど年季の入った味がある。

泰族宮廷舞踊 舞台で踊る泰族観客
広い園内に珍しいものがあった。花腰泰族と説明が附いた泰族家屋が一軒建てられ、山地民風の刺繍を縫い付けた派手な衣装の娘が数人、暇なのかトランプ遊びをしている。どうもタイ(Tai)系は賭け事が好きらしい。
思えば橄欖貝(カンランバ)の道端の椰子の実売りも、孟混の寺院の小坊主も、一元二元の札を握ってトランプ遊びをしていた。先に翻訳したシャン州ソーボワの王女の自伝に、“シャンの習俗を記録した英国人の報告には、シャン人は女子供までみんな賭け事に興じた様に書かれるが、そんなことはない”と有ったが、やはりタイ(Tai)系の暇つぶしは賭け事なのではないか?彼女のそれに続く説明では、“女子供は面白いからほんの遊びでちょっと小銭を賭けるだけで、本気でやる賭け事は別に有る”というから、現代ならカジノでやるようなものが賭けで、トランプ遊びで小銭が出るのは楽しみという理解か。英国人にはどちらも賭け事に映っただろう。何も賭けないでトランプ遊びだけやろうと誘ったら、タイ(Tai)系の人々からは「そんなんおもろない」と言われそうである。
はたと思い当たるのは、この地域を走って良くわかる豊かな土地である事実だ。気候温暖で降水量が多く、山間盆地で米は年に3回耕作でき、その他、野菜や果物も種類は多く、そう手をかけなくても充分採れる。だから、家屋敷や田圃を取られるようなものは賭け事だが、手持ちの小銭をなくしたとしてもほんの遊びである、食うに困ることではない。ましてや交通不便で、消費財やその情報も少ない時代なら、手元の小銭などゲームのチップである。
土地の豊かさと言えば、雲南には各種の植物の変異種が多く、それ故原生地とされるものが多いが、ここならどんな種でも生育してしまう環境である。他所から数種の種を持ち込んでも、全て生育するだろうし、変異種も存続し易いと言えるのでは。米でも、糯、粳、早生、晩生、雨季、乾季、食用、調理用、酒造用など、盆地内の田圃で様々な栽培ミックスが可能だろう。実際の農村風景を見ていても、僅かな距離の中で、青田から刈り入れまでが在るし、更に山腹の高度差を利用してほとんどの作物が栽培可能だ。
つまり、米その他、雲南起源でなくとも灌漑水稲耕作技術と、変種の固定や種の管理など農業栽培技術を持った集団が長江流域から移動して来ても現在のような状態になるのでは、と思わせる。ひょっとしたら、長江中流域で稲の栽培化に成功した集団が、中国の戦乱と大中華帝国への糾合を嫌気して、一部は東に向かって河口から海を渡り、一部は西に向かって山間盆地に気楽な小世界を見出したのかも知れない。
さて、その花腰泰族の説明に、なんと仏教を受容せず未だ精霊信仰で、花腰の意味は綺麗な衣装にあると言う。泰族で非仏教徒と言えば、ヴェトナム北西部とかインドアッサム州とかは聞くが。これは山地民の一派ではないかと疑うが、結構山地民というのは自分たちのアイデンティティーにこだわるものだし、このお気楽に賭けトランプに興じる姿はやはり泰族か?

花腰泰族 花腰泰族トランプ

橄欖貝トランプ 孟混トランプ
広い曼听公園の一番奥に、初日訪れた総佛寺が建っている。曼听公園の裏口からお寺に入れるようになっていて、その周辺には土産物屋があり瓢箪笛を吹く男もいた。お寺には参拝客が三々五々あり、地元の泰族は曼听公園の裏口ではなく、初日に訪れた寺の表から出入りしている。中国人観光客はお寺の護符のようなものを買い求め、本堂内の椅子に座した僧の前に跪拝し、護符を奉げて短いお経を唱えてもらっている。こうすると効力が増すのか?護符は翡翠でできているようで、中国人が買い求めるのであるから、商売繁盛とか勝負運が良くなるの類と推量する。

総佛寺 曼听公園内の湖
曼听公園内に戻って帰る途中、雲南茶道店と看板を挙げた竹造りの小亭でお茶を飲んでみる。泰族の娘が煎茶式で数種類の茶を煎れる。初めは苦瓜露という灰色をした花茶のようなもの。次は細く棒状になった茴生茶、これは甘い。次に紅茶、これも甘味がある。最後に、烏龍に似た糯米香茶、もち米の香りがするというお茶である。香りが良く、確かにそう言われれば炊き上がった御飯の匂いに似ている。飲んだ味もすっきりして良い。
「普洱茶はないの?」と訊くと、「これはみんな普洱!」と言われる。彼女の意味は、景洪から北に130キロほどの思芽(スーマオ)を過ぎ更に北に70キロばかり行った普洱(プーアール)地区は古来中国では有名な茶の産地かつ取引地なので、全てそこのものと言うことらしい。種類はいろいろあっても宇治茶と言うような。
「香港あたりで普洱茶と言えば、発酵の強い固形のもので」と説明しかけると、「ああそれもある」と別の娘が四角い板状にした包を取って来る。娘の首に銀の十字架が掛かっているので、「それは飾りか?」と尋ねると、「クリスチャン」と答えるではないか!新教なのか旧教なのかが、尋ねても判然としない。「今の教会には外国人はいない、礼拝は泰語ではなく中国語」と言う。
アメリカンプレスビテリアンのW.C. Doddは、北部ラーオミッションとして1886年チェンマイに着任。ラーオ語(現在のタイ王国の感覚で言えば北部タイ方言)を修得し、その後チェンラーイ、チェントゥンなどを拠点にラーオ語地域での宣教活動を行い、1910年にこの景洪(Cheng Rung)を初めて訪れ、1917年にはこの地に教会を開き、1919年10月景洪で亡くなっている。1923年にアメリカで出版されたDoddの「The Tai Race」(1996年バンコクのWhite Lotusから復刻版)は、自身の経験や当時の北部ラーオミッションの活動を踏まえた19世紀末から20世紀初頭のタイ(Tai)系地域の貴重な文化人類学的資料になっている。
彼によれば、1919年1月、タイ・ルー(シプソンパンナーのTai族)の老夫婦に景洪で初めて洗礼を施し、その夫について老紳士で元は“仏教の司祭”だったと書いているから在家の有力者だったのか。更に、その4月の復活祭には男女11名の洗礼準備者がいると記録している。Doddの時代の宣教はラーオ語で、新約聖書のラーオ語訳もされていた。
また、当時の景洪は本当に陸の孤島で、一番近い郵便局と電信設備は6日かかる思芽にありそこからは飛脚(official runners)で届く。4ヶ月遅れの新聞が読め、クリスマスカードは7月4日に着いたと書いている。最寄の駅は、フランス鉄道のMengtze(今のMengziか?)駅まで思芽経由で26日の旅程、タイ鉄道のランパーン駅までは24、5日、ビルマ鉄道の駅へもチェントゥン経由でほぼ同距離だそうである。
今、目の前で180元と値札がついた普洱茶を買って行けと勧めるこの泰族クリスチャンの娘18歳は、ひょっとしたらDoddの生きた遺跡なのか?
結局、糯米香茶をひとつ70元に値切って買う。

茶道店 四種の茶 泰族クリスチャンの娘
最後にもうひとつ曼听公園の不思議があった。記念写真屋が在るのだが、“蒋中正とツーショット”とか書いてある!よくよく見ると、蒋介石のそっくりさんがいて一緒に写真を撮るのだが、国民党の首領である。しかも1950年代の前半には、雲南省を追い出された国民党軍がシャン州に拠点を作り、CIAは中共転覆を画策して台湾から国民党軍の兵士を空輸して増強した事もある。その後、国民党軍の一部は紆余曲折の後、タイ王国北部に村を作って住んでいるのは周知のとおり。
これが中国革命の父孫中山(孫文)ならまだしも、敬愛する周恩来総理や偉大な指導者毛沢東主席が苦難の末に打ち立て建設した中華人民共和国に於ける周辺民族政策のひとつの手本のような西双版納の地に、当時朝鮮半島の親愛なる友人金日成主席を支援して戦う揺籃期の人民共和国に敵対し米帝国主義者の後押しを受けて雲南の背後から転覆を謀った国民党の反動的首魁蒋介石である。
西双版納には各種の動植物が生育し、変異種や希少種も多くある風土なのだが、どうも人間もそうらしい。各種少数民族どころか、泰族でも回教、精霊信仰、クリスチャン、果ては国民党のそっくりさんまで居る。
公園の出口でボロボロのタクシーを拾い、ホテルに戻る。
直ぐに空港まで約束していたタクシーが来たので、最後に昨日街を歩いていて発見した緬甸人街の茶店に寄る。西双版納で唯一、奶茶(ミルクティー)の文字があった店。4月のチェントゥンではティーハウスで美味いミルクティーが飲めた。思うに、このコップの底にコンデンスミルクをたっぷり入れ、強く煮出した紅茶を注ぐミルクティーは極めて旧英領東南アジアの標識物なのか。マレーシア、シンガポール、香港、チェントゥン、そしてあのモンラー(小孟拉)にもあった。店の娘はロンジー(ビルマの腰巻)を巻き、顔にタナカー(白い植物粉)を塗っている。

曼听公園 蒋介石そっくりの背中 ティーハウスのビルマ人
空港に着くと早すぎたようで、国際線出発には職員すらいない。待つ事一時間、やっと職員とバンコクエアーの係員が現れ、公安係官の到着を待って受付開始。空港管理建設費の名目で90元徴収される。
待合室にいると中国人旅行団がやって来る。バンコクまで行く様子で、飛行機はほぼ満席らしい。
空港に着いてから一便国内線が飛んだだけで、他に機影も無く不安になるころ、リゾート風に塗られた少し場違いの、バンコクエアーの飛行機が到着する。これで普通話の中華世界から出られると思い、ほっとする。

バンコクエアー 瀾滄江 チェンマイ上空
チェンマイに着陸、ここで降りるのはやはり中国人旅行団以外の10人ほど。入国手続きを済ませ、荷物を持ってタイ航空のカウンターに行くと直ぐ出発するバンコク行きに乗れた。滑走路に出ると、景洪から乗って来たバンコクエアーのプロペラ機が後から誘導路をやって来るから、ここで追い抜いたことになる。
景洪発15:20で、バンコク到着17:25。陽のあるうちにバンコクのホテルにチェックイン。街を歩くと、バンコクは暑いところだと感じる。
〈了〉
注:文中、泰族の泰、愛尼人の愛は、現在の中国の正式表記では人偏が附く。
同様に、橄欖貝の貝は土偏附き。
地名の孟、孟罕・孟海・孟混・孟拉・孟板などの孟は旁に力字附き。
茴生茶の生は草冠附き。
2002年9月30日 森博行
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