タイ・ビルマ(現ミャンマー)国境地帯を行く II チェンラーイ県 2
保護林を抜けて数分走ると山地民の娘が荷物を担いで歩いていて、その先の尾根の突端部には監視所か軍事ポストが在りそうな様子。果して道路からそちらに向かう山道は進入禁止で、傍らにタイ語の説明板。どうやら2001年にこのあたりで戦闘か何かがあったらしい。

山地民の子供 軍隊の説明版
それを過ぎるとすぐ、村に入る。パロゥンの村で、中ほどに学校があり、道端に子供が大勢集まっている。車を止め、ふと看板を見ると「タイ・ミャンマー国境」とある!そこから舗装のない道が登りになって、高台のタイ軍チェックポイントらしい敷地に向かっている。登るとタイ軍の兵舎とヘリパッド、横のあずまやに観光客目当てらしいパロゥンの民族衣装を着て、特徴的な銀の帯をした子供が数人いる。花などが小奇麗に植えられたこの兵営地は、観光スポットでもあるらしい。ちょっと上等そうなタイ人観光客を乗せたミニバンが、兵営の駐車場まで入って来る。

パロゥン村 タイ・ミャンマー国境の表示
敷地の奥まで行くと塹壕が掘られ、小さな監視台があって双眼鏡が用意されている。双眼鏡を覗かなくても、その場所に立てば、前方20メートルあたりに赤白のペンキが塗られた柵があって国境を示している。さらにその先200メートルばかりで、ミャンマー軍の小屋があり、人影が見える。タイ国軍備え付けの双眼鏡で覗くと、ロンジーを穿いたビルマ人である。歩哨に立っているタイ軍兵士が、ミャンマー軍はこの付近三箇所に居て、正面の位置以外に左手と右手の数百メートル離れた岩山の上だと教えてくれる。で、この監視所のすぐ脇に、リゾートホテルのプールサイドにありそうな草葺のカウンターバーのようなものがある。フレッシュ・コーヒー15バーツ(約45円)の看板。なんと、タイ軍の兵隊がコーヒーバーをやっている。塹壕から二メートルばかり後方で、バーに座ると、国境の境界柵と三箇所のミャンマー軍拠点がゆっくり眺められる。つまり、向こうからも丸見えだと言うことだが。

国境の柵とミャンマー軍陣地 タイ国軍コーヒーバー
看板には、けちなタイ華人向けにか、お茶は無料ともしてある。ここは煎れたてのコーヒーを所望。柱に携帯電話がさがっていて、コーヒーを待つ間に携帯が鳴る。電話を取ったコーヒー係り兵士は、歩哨に立っている兵を呼ぶ。電話の会話の調子は、明らかに友達。が、さすがに兵隊と言うべきか、長話はせずに数分で切る。もっとも一日に何回も架かってくるのなら、そんなに話すこともないか。
ペチャブン(タイ中部)の出身だそうで、いつ町に戻るのか訊くと、一応軍事機密なのかそれとも本当に良くわからないのか、「ひと月ぐらいかなぁ」。ここには女の子はいないんだろうと訊くと、喉もとを切られるような仕草。規律は厳しいらしい。そんな話をしているところへ、小金もちそうなタイ人観光客がやってくる。歩哨係は監視台脇に戻ってシャキッと姿勢を正し、観光客の挨拶に敬礼で答えている。ここはやはり観光スポットらしく、タイ王国北辺の護りに精励するたのもしくかつ勇敢なタイ国軍のイメージを、訪れたタイ市民に多いに印象付けなければならない。ではあるが、タイ市民もなかなかのつわもので、コーヒー係の兵士は「備え付けの双眼鏡は持ち帰らないように」と鋭い指摘をすることになる。
この先がどうなっているか尋ねると、もう少し先に進めば景色の良いところがあるそうで、そこらあたりに次のタイ軍の兵営とチェックポイントがあり、そこから右に折れればファーンに戻るとのこと。バーを出て歩哨係の兵の傍を通ると、観光客もいなくなって休めモード。自動小銃の弾倉は装着されていない。普段はポケットに入れているそうで、小銃はアメリカ製かと思うと、シンガポールなんだそうである。
走り出すと道は狭くなり、少し下ってまた登る。前方に岩山が迫っているが、ひょっとしてそれはさっきの監視点から見たミャンマー軍拠点の真下か。すると、さっきあの岩山の下に細い舗装路が通っていて、あんなところを誰が通るんだろうと思ったその道を、走っているのは自分だ。

山の上にミャンマー軍、その下を通る道路 次のチェックポイント附近、中央に小さな湖
一山越えると下りになった前方に小さな湖があり、その手前にタイ軍兵営。坂の上から景色を撮って、チェックポイントに着くと、「今、このあたりの写真を撮ったな」とやや厳しい調子で質問される。「景色が良かったもので」と答え、単なる日本人観光者であると説明すると、車のトランクを開けてチェックする。どこから来て、どこに行くのか訊かれるので、ドイアンカンから来て、この道がファーンに抜けられると聞いたと説明する。「行ってよし。もう少し先で分かれ道があるから、右に行けばファーンだ」。
さて、右手に分かれ道らしいものが有るが狭い道で人気がなく、真っ直ぐ進む方向には村と果樹の植わった山がある。これは違うかなと直進すると、オレンジがいっぱい実をつけた果樹園を巡って道は再び登りになる。10分ぐらい走って人里離れた印象になり、どうやらファーンとは別の方向らしいが、そのまま走ることにする。尾根に近くなったところに、またタイ軍のチェックポイントがある。どこから来たの問いには「ドイアンカン」、どこへ行くには「ファーン」と答えると、この道はメーアイに行くと言われる。それならメーアイのほうが北でメーサイ寄りだから、このまま進みたいと告げると、パスポートをチェックしてから、「行ってよし」。
行ってよし、ではあるが、走り出すと道は尾根伝いにアップ・ダウンの連続で、舗装はされているが結構きびしい。隣の峰の景色に目を取られていると、思ったより急な下り傾斜で二速でもスピードが上がり、おまけに砂の浮いたカーヴでスピンしそうになったりする。かなり車の往来は少ないと言うか、ほとんど誰も通らないのではと考えていると、それを証明するような場所に行き当たった。尾根筋の鞍部の道路は両側の谷に崩落して、車がぎりぎり通る幅だけ舗装が残っている。しかし、良く見るとその残った舗装にも亀裂が入り、ひょっとして今度通るとその舗装も落ちるのではという光景である。

オレンジ園 崩落した道路
小さな地図には載っていない道ではあるが、あとでチェンマイの有名書店で地図をあれこれ見比べると、確かに国境線の尾根をたどる道がある。左手に連なる山はビルマ(現ミャンマー)領である。走っているとまったく人の姿は見えないが、道路の端に刈りとった草を並べた区間があるから山地民が居るのだろう。1945年頃の、ビルマ戦線トラック部隊の記録が脳裏をよぎる。シャン州、カレンニー州、カレン州を通ってタイ国境方面に撤退する際、道路に大きな木とか障害物があったら止まらずにすり抜けなければならない。たいていは山地民ゲリラの待ち伏せだったそうである。現代にそれはなさそうだが、ひょっとしたら刺繍のされた袋とか民族衣装を買っていけと囲まれる可能性はありそうだ。

隣の嶺 尾根を伝う道路
距離にして20キロほどか、山岳地帯の絶景を縫う道はやがて東に向きを変え、山地民の待ち伏せも無く、人の気配があるやや広い道路になった。タイ軍のポイントがあるがチェックなし、その先にはいくつか山地民の村が道に近いところに見え出す。道路沿いのひとつに寄って尋ねるとラフ族とのこと。三叉路があって、メーアイに下ると思える方向にチェックポイントがあり、直進する方が広い道である。これも真っ直ぐ進むと、すぐに前方が下りになって水田の広がるメーコック川の平野が開けた。道を下りきるとタートンの町で、国道1089号に出会う。

山地民の集落 ラフ村
タートンの橋の手前で船着場の通りに入り、遅い昼食にする。船着場にはベンツのリムジンが待っていて、チェンラーイからのボートで着いた成金趣味の白人観光客が乗り込んだ。メーコック川はこの数キロ上流でビルマ(現ミャンマー)に入り、昔から国民党やクン・サーが麻薬の積み出しに使った飛行場のあるモン・サッ(Mong Hsat)に至る。カオ・パット(炒飯)を食べた食堂の娘に、ここの人は何タイ(Tai)と訊くと、「タイ・ムアン(チェンマイのTai)。橋の向こうの左側はタイ・ヤイの村」との答え。この「タイ・ヤイ」がまた、国民党の「チン・ホー」と同じぐらい不正確というか、今日的な言い方である。厳密な意味では、タイ・ヤイはサルウィン河の西側に住むシャン(タイ・ロンTai Long)を指す言葉で、メーホンソン県のタイ・ヤイは確かにそれだが、チェンラーイ県が接するシャン州旧チェントゥン藩の住民はタイ・クーン(Tai Khun)かタイ・ルー(Tai Lue)というのが本来のタイ(Tai)族間の呼称である。この店の娘が言っている意味は、『最近ビルマ(現ミャンマー)からタイ王国に入って来たタイ(Tai)』の意味で、こちらもその意味で娘の言説を理解しているのだから、既に単語としての意味変容をした、或いは辞書で言えば二つの意味を持つ言葉になったと考えるべきか。もっともこの意味変化に関して、タイ王国側の住民の用法だけではなく、不法移住許可(Illegal Immigrant Permit)を得て都市部で働く旧チェントゥン藩地域からの人間も、面倒なのかどうなのか「タイ・ヤイ」で済ましてしまっているようである。
この不法移住許可(Illegal Immigrant Permit)というのが正式名称であるかどうかは確認していないが、ことの中味はきわめてタイ王国的処置である。初めて英字新聞上でこの言葉を見たとき、「なんじゃこれは?」と思ったものだ。要はビルマ(現ミャンマー)やカンボディアからの労働者を受け容れる措置で、数ヶ月ごとに登録料を払っての更新を要求するが、その数は30万から50万人だそうである。非正規外国人労働許可制度と呼んでも良いかもしれない。Illegal(不法)、即ち存在しない、即ちそういう事態を生ずる者を追い出す或いは拘束する、とは考えず、しっかり労働力市場の底辺として社会に組み込んでいる。不法行為を認可する法的根拠とは何なのかとか、許可をするのだからそれは不法ではなく然るべき法制化を行わなければ法制度的整合性を失するとか、そんなことは置いといて便宜的措置を講ずるのである。寧ろ法の枠外であるからこそ弾力的運用が可能であると言うか。法治国家を至上とする人からすれば、なんと無茶で野蛮なと言われるかもしれないが、大人の行政的対応と言えなくもない。
タートンの橋を渡って左手の道を進むと、二キロも行かないうちにメーコック川のほとりのチェックポイント。道はここで切れて、背後に迫った山に山地民らしい住居が在る。車を止め、そのあたりの様子を見ようと歩きかけると、兵士が「ここが国境だから、その先に行ってはいけない」と止める。上流のメーコック川は両側から急傾斜で山が迫る渓谷になっていて川沿いに道はなく、ここの船着場が船で来る人間のチェックポイントらしい。すぐそこの村はカレンだとの説明だが、「ビルマの村が見たかったら対岸の山の上のお寺に上がれ」と教えられる。ここから対岸の山を見上げてもお寺や仏塔らしきものは見えないが、言われたとおり国道に戻って、お寺の表示がある道を登ると、200メートルはある高台に仏塔が建ち、目の下にメーコックの流れが在る。メーコックの上流の山並みも、下流の河川平野も見事な眺望である。足元の泥を流すようなメーコックの谷を、黄土色の布を纏う僧を乗せた小舟が一艘、下って来る。

タートンのメーコック川沿いチェックポイント メーコックの谷、ビルマ(現ミャンマー)領

見下ろすメーコック川 タイ領側、メーコックの河川平野
タートンからメーサロンを目指す。1089号を左折して山に入るとメーサロンの町は近い。中国の気配がある町の入口、中国寺院がありそうな表示を見て、脇道を登ると豊炳新村と看板が揚がった集落がある。一瞬、ここは中国の片隅かと錯覚する風景である。それも決して豊かではない。やはり碑文があり、この村の名は中華民国黄浦軍監学校を出た林豊炳将軍に由来するとある。

メーサロン豊炳新村 豊炳新村の碑文
メインの通りに戻って、すぐ先の土産物屋の脇に段将軍廟の表示。こちらを辿るとメーサロンの町を見下ろす山腹に、立派な中国風墓廟。段将軍は、国民党第五軍を率いて雲南省からビルマに入り、最後はこのメーサロンを拠点にCIAの代理戦争やドラッグトラフィッキングに関わった人物である。将軍は1980年にバンコクの病院で亡くなったが、メーサロンの住民にとっては大恩人であったようだ。

段将軍廟 メーサロンの町
メーサロンの中心部は立派な町である。最近では茶の生産が盛んでお茶を売る店が多い。先週、チェンマイで寄ったティーハウスの女主人は、メーサロンに工場があってパリの茶舗に卸していると話した。十年前ならモデル並みと見えるこのタイ人マダムはファーンの出身だと言ったが、そのフランスで売っているお茶のカタログを見ると、「コーカン」とか「オピウムフィールド」とか、結構あぶないネーミングである。「コーカン」とはシャン州北東隅の地区で、大英帝国と清朝の間で決めた国境によってシャン州センウィー藩に含まれたが、住民は中国人。もともと麻薬生産地帯(英領時代、サルウィン河東岸、つまり北からコーカン、ワ、チェントゥン、では麻薬栽培が容認されていた)で、ビルマ独立直前にセンウィー藩から分離、1950年に雲南の国民党軍が逃げ込み、後の麻薬取引の深い繋がりができたし、1970年代にはビルマ中央部から放逐されたビルマ共産党が逃げ込んで、国民党と近かったコーカンの支配者ヤン(楊?)家は追い出される形になった。「オピウムフィールド」とは直截な名前だが、芥子畑を転作した意味なのか?
どうやら台湾の茶商の影響力が強そうな品揃えで、店先で喫茶もできる一軒に入った。実はお茶ではなく、「美斯楽珈琲」の文字に惹かれたからだ。美斯楽はメーサロンの漢字表記である。店にいたのは中国系のオカマ兄さんというのも怪しさを増すが、コーヒーはアラビカ種で、エスプレッソマシーンも置いてある。飲んでみると、香りや苦味に癖があるが、コーヒーの範疇には入る味。エスプレッソとしては不満だが、煎りは強めでしっかりしてグラインドは細かい、ミルクを入れてカフェラッテぐらいにすると不味くはない。オカマの押しに負けたわけではないが、「美斯楽珈琲」と烏龍系のお茶「高山茶」をそれぞれ200バーツ(約600円)で買う。お茶の品種は緑茶もあり、グレードも様々。上等なものはきっちり真空パックが出来ていて、台湾で詰めるとのこと。中味も台湾じゃないのかと訊くと、そんなことは無い、ちゃんとメーサロン周辺で採れた葉だとの由。ここはホテルもやっていて、ちなみに一泊の値段は500バーツ(約1500円)だそうである。この町で500は高いんじゃないかと言うと、「高くない!うちは綺麗だから、今日は白人グループも泊まってる」。店先に止まったチェンラーイ師範大学のミニバンがそのグループらしい。確かに建物の後ろは谷になって眺望も良さそうではあるが、今日はまだこの奥に見ておきたい場所がある。

メーサロンの町中 ホテル兼茶店、一番下に美斯楽珈琲の看板
メーサロンの町を出て少し走ると、アカ族村があるところで交差点。右に進むとメーチャンに至り幹線国道110号に出るが、左に行くと昔はバンヒンテックと呼ばれた今のトット・タイ村に向かう。その先の国境附近は、国民党、クンサー、SSAと歴代の武装勢力が拠点を据える難攻不落の地形であると伝えられる。難攻不落とは、ビルマ(現ミャンマー)領内の高台に位置し、周囲は急傾斜の壁で、そこを軍事的に制圧するにはタイ領側から攻撃するしかないとされる場所である。過去何度かミャンマー国軍が作戦中にタイ領に入り、タイ国軍は国境侵犯として思いっきり反撃するから、バンコク・ラングーン間で揉める原因になって来た。
この道沿いには山地民の村が次から次へと現われる。山地民めぐりが好きな人にはお薦めかもしれない。トット・タイ村には立派な中国学校、村を過ぎても小集落がいくつか有り、道路は何箇所か枝分かれする。が、常に本道らしい方を選んで進むと、尾根道になって村があるところで、タイ軍のチェックポイント。多少の緊張感があり、何の目的で何処へ行くと訊かれるから、「観光(ティーアオ)」で「この先に山地民の村が有るかなと思って」と答える。「これより先には行けない」と言われる。タイ軍士官によれば国境まで約10キロで、ここの村はムソ(ラフ)族とのこと。

トットタイ村内の地図 タイ軍チェックポイント地点のラフ村
戻りながらアカ族らしい衣装の村で、住民に声をかけるがはっきりした返事がこない。数軒先の家から現われた男が、中国語で話しかけてくる。見ると中国人である。中国語はできないと言うと、台湾人じゃないのかと言いながら、この村の住民はアカ族だと答える。住民の様子やその場の雰囲気で、どうもこの男が村の責任者のようである。
次にトット・タイ村の手前の、明らかにタイ族と見える集落で、店の前にいる住民に声をかけると、「25年ぐらい前にチェントゥンから移動して来た」と明確な返事。日本人で一人で観光していると説明すると、冗談なのか「この娘を連れて行け」と言われる。

チェントゥンから移住したタイ村 中国村のラフ族
トット・タイ村に入って、側道の先に中国風の集落がある。見に行くと、小川にかかった橋のたもとには中国の義捐金で橋を造ったように書いてある。果してその先には学校があり、その手前の集落の入口には女の子が数人、特に目的もなさそうに集まっている。顔つきは中国人には見えないので、声をかけると「この村は中国の村だが、自分たちはムソ(ラフ)だ」と言う。これで、さっきのアカ村にしても、この地域のパターンが見えた気がする。どうやら国民党系の集団でビルマを通ってタイに至った時その中に山地民がいくつか含まれていた、或いは、この辺りは国民党系が支配していた地域でそこに山地民が入り込んだか、と推量する。
村を出ると、もう日が暮れかけている。

トットタイ村と国境方向を見る トットタイ村附近夕暮れ
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