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仲居Aの独白
(本ページの内容は、フィクションであり、実在の人物や組織などとは関係ありません)


1.仲居の仕事(1)
私は新人の中年仲居である。
訳あって、瀬戸内海に浮かぶとある島の観光ホテルで派遣社員として働いている。派遣社員というと聞こえはいいが、実質は時給で働くアルバイトである。
いままでに、仲居の経験はない。どころか、接客業という意味でも、ほとんど経験はない。遠いむかし、学生の頃にアルバイトで喫茶店、セブンイレブン、ケンタッキー・フライド・チキン、東京ディズニーランドのスペースマウンテン前の玩具などを扱う売店、音楽スタジオ、などで客とやり取りすることはあったが、ホテルの仲居という本格的な接客業は初めてと言っていい。
喫茶店も接客業であるが、当時の客は私を一目見て、「あぁ、学生アルバイトか」と思ったに違いないし、私自身もプロの接客者としての自覚も覚悟もなかった。。だが今回、中年おじさんが仲居をしているとなれば、さすがに客からは素人とは思われまい。
しかし私は、厳然たる新人仲居である。

この観光ホテルは3階建てで、50部屋以上ある結構大きなホテルである。部屋は基本和室で、部屋によっては風光明媚な瀬戸内海のオーシャンビューが楽しめる。
島には有名な観光地はないので、ホテルは常に賑わっているわけではない。本土と橋でつながっておらず、船でしか来れないので、アクセスの面からも常に満室というわけにはいかない。
島々の風景とのんびりした島の雰囲気と温泉を楽しむために、観光客はやって来る。主に近畿、中国地方に住む年配の人が多い。

仲居のメインの仕事は、チェックイン客の部屋への案内と夕食の給仕である。朝食はバイキングなので、朝食においてはご飯、みそ汁をよそうのと、なくなった料理や飲み物の補充をしていくのが仕事になる。

午後2時半、私はホテルの従業員が住んでいる寮の部屋を出て、下に降りる。服装は、仲居の制服として支給されている作務衣。男性の場合、足下は黒い靴下に黒いサンダル。女性は足袋に草履。これが当ホテルの仲居の正装である。機動性を重視した服装だ。
ホテルのマイクロバスが迎えに来て、出勤の社員、派遣社員らを乗せてバスはホテルに向かう。大きな船を建造中の造船所を左に見て、バスは坂道を上がっていく。
海を見下ろす高台にホテルは建っている。

10分ほどでバスが着くと、我々は裏口からホテルに入る。控室で各自インカムを取り、今日の宿泊客をまとめた一覧表が貼り出されているので、自分の担当するお客さん、夕食の場所を確認する。
給湯室からお客さんの人数分だけおしぼりを取り、フロントに寄る。フロントで、自分の担当する部屋の夕食のお品書きを取り、まかないが必要かどうか、申告をする。これを忘れると、まかないが食べられないという致命的な事態が生ずる。

3時前から、夕食会場の大広間で仲居のミーティング。ホテルの理念を表した訓示を全員で唱和する。
各自の担当が伝えられ、夕食の内容とお客さんの構成を確認する。夕食は基本コース料理で、いくつかの種類があり、それに従って料理が若干異なる。
子供がいるのか、食物アレルギーのあるお客さんがいるのか、いるならば該当する料理がある場合、何に替わるのか、などの個別情報も伝えられる。

3時、いよいよ仕事が始まる。
まず、自分の担当のお客さんが入る部屋の点検をする。客室は、2階と3階にずらりと並んでいる。
和室の部屋は、日本人が「旅館の部屋」と聞いて思い浮かべるそのまんまの部屋である。8畳くらいの畳には、中央に割と重厚な四角の座卓があり、その周りに座布団と座椅子が人数分配置されている。
座卓の上には湯のみセットとポット、お茶菓子、おしぼり、テレビのリモコンなどが置いてある。
そして、奥の大窓の近くは小さな板の間、いわゆる広縁となっていて、小さなテーブルと椅子が置いてある。ここから眺める瀬戸内海の風景は秀逸だ。
旅館では、なぜかこの広縁が居心地いい。日本人の心のふるさとと言ってもいい。

すでに昼番の人がその部屋に入るお客さんの性別や数を確認したうえで準備をしているので、必要物は揃っているはずだが、仲居はお客さんが入る前にそれらを点検する。
湯飲みの数、ポットのお湯、浴衣や帯、歯ブラシやシャンプー、髭剃り、髪留め、ハンガー、金庫などを確認する。男女がそれぞれ何人いるかにしたがい、浴衣の色や髭剃り、髪留めなどの数が合っているかを確認するのだ。
そして、トイレや部屋に紙やゴミなどが落ちていないかどうかをチェックする。
必要に応じて部屋にエアコンを入れて、部屋の点検完了。

自分の担当するお客さんがホテルに到着すると、インカムでフロントから連絡が来る。
フロントに行き、チェックイン後のお客さんを部屋まで案内する。荷物が多いならば台車を持ってきて荷物を載せ、運ぶ。
「本日は、○×ホテルをご利用いただき、ありがとうございます。本日お客様を担当いたします、吉田と申します。お部屋にご案内いたします。」

ホテル1階には客室はなく、フロント、ロビー、温泉大浴場、売店、レストラン、夕食や朝食の会場となる大広間があるのだが、お客さんに対し、大浴場と売店の営業時間、大広間での朝食時間などを説明する。
エレベータで上に上がる。非常口の場所を伝えて、部屋に入る。

部屋ではお茶を淹れ、金庫の使い方を説明する。浴衣のサイズを聞き、すでに置いてある浴衣のサイズが合わないようであれば、裏から適切なサイズの浴衣を持ってきて取り換える。
タバコを吸うかどうかを聞き、吸う場合灰皿を持ってくる。当ホテルは、部屋の中で喫煙可である。
窓から見える海や島、橋について、簡単な説明をする。
「あちらに見えるのが○×島で、△◇信仰で有名です」
そのような地理や文化に食いついてくるようなお客さんであれば、さらに詳細な説明をすることもある。

そして、夕食の希望時間を聞く。夕食開始時間は、午後6時、6時半、7時の3つから選んでもらう。
夕食の場所には二つあり、「部屋食」と「大広間食」である。部屋食は、客が宿泊する部屋ではなく、近くで開いている部屋を部屋食用として使う。
大広間食は、1階の大広間での食事で、お客さんの各グループが広間に配置されたデーブルに分かれて食事を摂るスタイルだ。
宿泊客には、予約の際、このどちらにするかを選んでもらっている。
部屋食なら部屋番号を告げ、時間になったらその部屋、もしくは大広間食なら1階の大広間に来てもらうように伝えれば案内完了である。
「ごゆっくりどうぞ」
畳に正座し、両手をついて土下座をするように深々と頭を下げる。そして部屋を出たところで両膝をつき、入口の障子を2段階に分けて閉める。
この辺りの作法は、仕事前の研修時に教えてもらったのだ。

フロントにインカムでお客さんの夕食時間を伝える。これが厨房に伝達され、その時間に合わせて夕食が準備されるという仕組みである。

一人の仲居が担当する客は、大抵の場合2組か3組で、自分がその日担当するすべてのお客さんの案内を以上のようにして行う。

その日のお客さんがすべてチェックインし終わる午後5時くらいまでの間、ホテル玄関での「立ち番」というのも仲居の仕事である。
これは、その日出勤している仲居が各自15分ずつ交代で玄関の自動ドア脇に立ち、来訪した宿泊客をフロントまで案内したり、駐車場の説明をしたりする役割である。

そして、夕食の準備が始まる。
部屋食、大広間食いずれの場合でも、仲居はまず、自分の担当する客の人数分の食器を準備し、テーブルに並べていく。
食事は前述の通り、コース料理である。値段違いでいくつか種類があるのだが、一番多く出るコースの基本構成は、先付、吸い物、お造り、蓋物、焼き物、合い肴(茶碗蒸し)、揚げ物、台の物、温物、御食事(ご飯もの)、香の物(お新香)、デザート、となる。
お造り、焼き物などの料理は厨房で皿に載せるので、仲居が準備する食器とは、ご飯茶碗、湯飲み茶碗、飲み物、食前酒用のグラス、箸、フォーク、ナイフが主である。
これら食器を食器置き場から集めて、台車に乗せる。
焼き物は「鮑(あわび)の踊り焼き」であることが多く、ご飯ものは鯛または縮緬の釜飯である。
この鮑の踊り焼きは、当ホテルの食事の売りの一つである。鯛釜飯も評判が良いようだ。
この二つは、固形燃料で加熱するので、台座と固形燃料も準備する。

テーブルに、食器や台座を並べる。釜飯の過熱前のものも台座に乗せておく。これらの配置は決まっていて、その通りに並べる。
お客さんに子供が含まれている場合、子供用の食器となる。
最後に、お客様の名前、料理コース名、料理全品が書かれたお品書きを手前に置いて完了。

食器を並べ終わった後、食事の準備をする。部屋食の場合、2階か3階となるため、この頃にはすでに完成している先付、蓋物、香の物、合い肴、デザート、吸い物などを人数分取って部屋食のフロアにあるパントリーに運んでおく。ここにはコンロや冷蔵庫、温蔵庫、流し、自動食器洗い機、各種食器などが完備されていて、仲居はここから各部屋に食事を運んでいくことになる。
業務用冷蔵庫にはアルコールやソフトドリンクなど各種飲み物が入っていて、また電子レンジもある。
先付やデザートを別の冷蔵庫に入れ、合い肴や蓋物、吸い物の入ったやかんを温蔵庫に入れておく。

こうして、客を部屋に案内し、夕食の食器を並べ終わり、すでに完成している料理を準備すれば、仕事の前半が終了となる。
宿泊客の人目につかないよう、ホテルの裏口でタバコを一服する。
この後夕食が始まれば、後片付けが終わる仕事終わりまで、休憩時間はまず取れない。

(続く)

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