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競馬
3.競馬特殊世界
<2012年3月>
競馬サークル(競馬界)の中で生きる人々、騎手も調教師もスポーツ紙・専門紙の予想記者も因果な商売である。
船橋競馬場
川崎競馬場 スパーキングナイター
浦和競馬場
大井競馬場
高知競馬場 よさこいナイター
金沢競馬場パドック。おやっさんたちが真剣に馬を見つめる
なぜなら、彼らの言動が、人々の金を左右するからである。
まず騎手。これは特殊中の特殊な職業である。特殊な技術を持ち、死に至る危険と隣り合わせで、なおかつ人々の金の行方を握っているのである。
例えば、プロサッカーやプロ野球選手。サッカーや野球は誰でも出来るが、そのプレイを人に見せることで金を取れるほど上手い人たちがプロ選手である。騎手はどうか。普通の現代人は、馬を操ることすら出来ない。これを操り、ただ操るだけではなく、馬を究極のスピードで走らせるのが騎手の仕事である。サラブレッドという、絶え間ない品種改良によって速く走るように進化した生き物を、最大のスピードを引き出して走らせる。もっとも、「馬を操る」という技術は、騎手養成学校に入って、しかるべき訓練を受ければ、身につけることは出来る。特殊な素質を持っていなければならないということは、それほどないと思われる。しいて言えば、小柄なことが必要だ。
危険という意味では、彼らはプロ野球選手などとではなく、プロレーサーと対比されていいだろう。F1などのオートレースでは、今も死亡事故が起こる。騎手もそれくらいの危険な職業である。まさに命がけである。自分の乗る馬が競争途中で故障するということは、自分の運転する車が故障するのと同じである。馬のスピードは時速60km。時速60kmで密集して走る多頭数(JRAの1レース最大頭数は18頭)の馬達、しかもその体重が400kg〜550kgという生き物である。そんななかで、馬が躓いたり、足に故障を発生したらどうなるか?馬の背から騎手は放り出され、最悪の場合、馬たちが走っている下に投げ出される。馬に頭でも踏まれたらおしまいだ。
落馬で毎年、何人もの騎手が大怪我をする。骨折は当たり前。それで再起不能になる騎手もいる。しかし、それがこの職業の宿命なのだ。いや、そんなときでも、彼らは「死ななかっただけ良かった」と思っているかもしれない。それほど危険な職業である。
こんな危険な職業であるにもかかわらず、さらに彼らは大きな重圧を背負っている。それは、我々が金を賭けている、ということである。走るのは馬であるが、走らせるのは騎手であるので、馬券を買った人は当然、自分が買った馬と同じくらい、その馬の騎手に期待する。下手な乗り方をしてヘグったら、当然馬券師たちは騎手に非難の矛先を向ける。何しろ金がかかっているから、人々の目の色が違う。目が血走っている。かわいそうなのは、馬の調子が悪くて負けたとしても、一般人にはそれがなかなか分かりづらいので、真っ先に騎手に批判が向けられがちだということだ。もちろん、騎手の技術とは、馬の能力を引き出すことのみならず、各レースレースで、ペースや相手関係(「先行する馬が多いのか、差し馬が多いのか」とか、「マークすべき強力な馬はどれか」等)、馬場状態など、すべての状況を勘案し分析してレースを進めるという、頭脳部分も含んでいる。この分析力とそれに応じた対応を各レースで臨機応変に出来る騎手が、上手い騎手である。
騎手のせいで負けたのか、馬のせいで負けたのか、なかなか素人には分かりづらい。が、ほとんどは馬のせいであろう。昔から競馬は「馬7、人3」と言われている。馬が良くなければ、いくら騎手や調教師ががんばっても勝てないのだ。逆に言えば、ちょっと足りない馬を上位に持ってくるのが、騎手の腕の見せ所である。
だから、心無いファンは、人気を背負って負けた馬の騎手を罵倒する。
「おい、○×、何やってんだ!」
中には、パドックで騎手が乗った後に、ファンから「おい、○×、お前死ね!」という罵声が浴びせられ、騎手が逆上した、という事例もある。そりゃそうだ、もともと命がけで乗っているのに、それで「死ね!」とか言われる筋合いはない。
(逆に、人気のない馬に乗る騎手は気が楽である。負けてもともと、もし上位に来たらその馬券を買った人に称賛される。)
騎手とは、途方もない危険と重圧を背負って、馬を走らせるという、とてつもない職業なのである。
これらは、馬を訓練する調教師や、予想を世間一般に披露する新聞記者にも似たようなことがいえる。
調教師は、ファンの金がかかっているので、下手なコメントをしづらい。
「今、ウチの馬は絶好調です。まず負けないでしょう」
と言ったとする。それで負けたら、その言葉を信じて馬券を買った人々に、逆恨みを買うことになるのだ。「あいつ、嘘つきやがって」と。
いきおい、調教師のコメントは、当たり障りのないものにならざるを得ない。
「馬の調子はいいです。だけど競馬ですので、やってみないとわからないところはあります」。まったくその通りである。
いくら馬が絶好調でも、レースは相手があることなので、相手に強い馬がたくさんいたら、勝てるとは限らない。それを分析し、見極めるのが、我々馬券師の仕事なのだ。
(しかしこれは相当に難しい。何しろ、一握りの圧倒的な馬を除いて、サラブレッドたるもの、能力に大きな差がないのである。だから、最近ずっと負け続けていたとしても、ある日ひょんなことからいきなり絶好調になったとしたら、勝ててしまうのである。機械でなく生き物なので、気性なんかも予想が難しい要素である。人間でもいるが、馬でも「気難しい」というタイプがいて、走る気がないときは全然走らない、しかし走る気になったらとてつもない、という予想家泣かせの馬である。)
(しかしそういう事例、例えば、前走までずーっと負け続けていて、最低人気の馬が、ある日突然、直線で最後方から全馬をごぼう抜きして優勝する、なんていうのを見るのは、爽快というか、サラブレッドの素晴らしさを見る瞬間というか、奇跡を見るような高揚感、とかいう、とてもかけがえのないものを僕らに与えてくれる。これも競馬の魅力である。)
新聞やテレビで予想する記者や予想家たちも、予想をはずせば何を言われるか分からない。だが、こちらはさすがに馬券師たちもいかに的中させるのが難しいかを知っているので、記者に対してとやかく言うことは少ないだろう。予想がハズれるほうが普通なのだ。むしろ、僕なんかは、あれだけトレセンで取材して、調教師や騎手といった関係者の近くにいるにも関わらず、予想を外しまくっている記者を見ると、「俺の方が当ててるのとちやう?」という優越感さえ感じたりする(笑)。だから僕は新聞は馬柱(レースに出走する各馬の最近の成績が詳しく乗っている表のこと)を確認するために買うのであって、誰かの予想を見るために買うのではない。新聞の予想なんて、ほとんどがハズレなのだ。というか、自分で予想するのが楽しくて僕は競馬をやっているのである。
僕はやらないけれども、的中を連発している記者に乗って馬券を買う、という戦法はあるだろう。あやかり戦法。「運」に波がある、というのはギャンブルをやったことのある人なら経験しているだろう。麻雀なんかで、ツキの波が来て、「かっぱぎ警報発令!」的状態になることがしばしばあることを多くの人が体験しているだろう。残念ながら逆もあるけれど。競馬のように緻密な知的推理作業を「運」では片づけたくないが、まぁ、これだけ多種多様な予想ファクターがあると、「当たったら運」だ、というのも当らずも遠からず、って気がする。ギャンブルの不思議な法則。
若干話がそれたが、以上のように、とにかく金がかかっているので、関係者に対する馬券師の視線というのは、とかく厳しいものになりがちである。そんな中、職業で馬を走らせている人々は、大変な重圧を背負っている、ということが言える。これぞ競馬特殊世界。
馬券師たちが自覚すべきは、「馬券が外れたのは、他の誰のせいでもない、自分のせいだ」ということである。以前に書いた通り、これだけ複雑な要素が絡み合う競馬で、馬券が外れるのはむしろ当たり前なのである。それを自覚して、「このレースは難しいな」とか「このレースはどの馬が勝ってもおかしくないな」と思ったら、きっぱりと手を引くべきなのである。「見」する勇気。そうしないと、いくら金があっても足りない。
しかし、これが難しいんだよなぁ。何しろ、そういう難解なレースは、配当が高くなりがちだからである。いきおい、買いたくなる。当たればデカい。
いやぁ、本当に競馬は罪である。いや、このことはギャンブル全般に言えることなのかもしれない。
(続く)
(競馬 1−2−3−4−5)
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