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2.競馬の魅力
<2012年3月>

小倉競馬場 スタンドから馬場と街並みを見渡す

京都競馬場パドック

新装なった函館競馬場スタンドと芝生席(2010年7月)

JRAの競馬場で唯一、昔ながらの雰囲気の札幌競馬場(2010年10月)

阪神競馬場の劇場のようなパドック観覧所
 
阪神競馬場のパドック。本当に劇場のような場所。だけど馬は見にくい。

ここまで延々と競走馬の悲劇的一生について書いてきたが、僕は競馬愛好家である。今から3年半ほど前、前の彼女に連れられて府中の東京競馬場に行ったのがきっかけだった。それ以前にも、何度か大井競馬場に行ったことはあったし、ウィンズで馬券を買ったこともあったが、そのときは別にのめり込まなかった。だが、今回は違った。一度入るともう出られない、出口のない世界に足を踏み入れてしまった感がある。今となっては、こう思う。
「競馬を知らずに死んでいく人は、不幸だ」(笑)

さて、なぜ僕は競馬が好きなのだろうか?
この自己分析はなかなか難しい。自分で自分を客観的に見つめるのが難しい。なぜならば、金が絡んでいるからである。

金。カネ。カネを巡る議論は、永遠ともいえる精神への旅路である。
「カネ」というものを人間が発明してからというもの、その精神性は大きく変わってしまった。

カネが絡むと人間は冷静ではいられない。いや、カネが発明されてから現代に至るまで、人間の頭の中はカネにまつわることで一杯になってしまった。それまではセックスすること、食べることといった、普通の動物のような本能で生きていたに違いないが、カネがすべてを変えた。

競馬に金がかかっていなかったら、つまらないであろうことは確実である。麻雀も、金がかかってなかったら、途端につまらないものになる。
とすると競馬する僕は、カネのためにやっているのか?カネの亡者なのか?いや違う(笑)。
例えば、株などは全くやる気がしないし、株で金儲けをしようとしている人間に、軽蔑すら感じる。しかし、よくよく考えてみると、労働の対価として金を儲けるのも、株のインターネット取引で金を儲けるのも、馬券で金を儲けるのも、すべて同じだといえばそれまでなのかもしれない。
だが、僕にとっての競馬は、生活の糧を得る手段ではなく、あくまで生活を充実させるものである。競馬というのは、自分の人生を楽しくしてくれるものなのだ。この点は、競馬やパチンコで生計を立てている人とは違うだろう。彼らは、生活がかかっているので、真剣さが違うはずで、自ずと楽しさとは違う世界で馬券や玉を買っているに違いない。もし仕事が楽しく出来たら、いい人生だなぁ、というのと同じである。

一獲千金は当然魅力であるが、僕にとっての競馬の本当の魅力とは、こういうことである。
「複雑多岐に渡る要素を組み合わせ、自分なりの未来予想図を作り上げるという知的作業」

誰にも分からない未来を予想する。レースの結果を推理することそのものが楽しいのである。その時間の充実感といったらない。ある意味、その後のレース結果は、まぁ、どうでもいいということはないが、この「推理の時間」こそが、競馬の最大の魅力である。
推理した結果として馬券を買い、その後レースで思い通りに的中したらそれはこの上ない喜びであるし、ハズれたとしても、それは悔しいことではあるが、自分の読みの甘さを反省し、教訓とすることで次につながるという建設的なものである。
物理法則を探索、研究している物理学者が、実験によりその理論の正当性を実証する。失敗したらまた再検討、再実験する。競馬予想とはこれに似た知的な楽しさがある。日々これ研究なのだ。たゆまぬ努力が成果を生む(笑)。

推理することが楽しいのなら、推理だけして馬券は買わず、結果を分析すればいいのでは?という向きもあるかもしれない。ここが先刻難しいといったところで、やはり金が絡まないとつまらないのである。予想した結果として、身(カネ)を削って馬券を買う。やはりそれは僕が一獲千金の野望を持っていることの隠しようのない事実である。逆に言えば、金がかかっているからこそ、時間をかけて真剣な予想をするモチベーションが発生するわけである。
麻雀の魅力と全く同じ。自分が高い手をテンパイしているときに相手からリーチがかかった。相手も相当高そうである。だが、ここは引くわけにはいかない。勝負である。打牌時に押し寄せる、あのヒリヒリするような緊張感。振り込めば相手の勝ち、凌げばこっちの勝ち。この緊張感は麻雀の醍醐味の一つであるが、この感覚が生じるのは金がかかっているからこそであり、振り込んでも金が削られないのであれば、緊迫感と究極の思考を張り巡らせた読みが途端に必要なくなってしまい、麻雀というものが無味乾燥したつまらないゲームになり下がる。競馬でも、全く同じと言わざるを得ない。金がかかっているからこその充実感。

競馬における予想要素の多様さは、その他のギャンブルとは比べ物にならないのではなかろうか。馬という生き物を、人間という生き物が育て、調教し、走らせる。それだけで不確実性が目も当てられないほど増大する。競輪や競艇を僕はやったことはないので、自転車やボートといった「機械」の性能がどれだけ結果に反映するのか分からないが、馬という気ままな生き物を走らせるのと機械を走らせるのでははその不確実性は全然違うだろう。
開催場のコース形態、馬場状態、天気、馬の状態、距離、芝かダートか、レース展開、血統、相手関係、騎手、馬主や調教師の意向・・・・・。予想ファクターは、数え上げればきりがないほどである。これを色々組み合わせて誰が勝つか、誰が2着、3着までに入るかを予想する。その知的作業は、人生で一二を争うような充実した時間である。脳味噌が活性化する。
これだけ複雑な予想をしなければならないので、当然当たらない。負債はどんどん増えることになる。だがその分みんなも当たらないから、当たったときは大きい。人よりも「予想力」で一歩前に出ようと思うと、さらに研究に熱が入り、日に日にドップリと競馬に浸かっていくことになる。
週末近くなると、僕はそそくさと競馬の検討を始め、土日はずっと競馬をして過ごす(通常はグリーンチャンネルを見ながらネット投票)ことになる。確かに充実した時間が過ごせるが、イコール人生が競馬漬けになるわけである。
冒頭、「競馬を知らない人生は不幸だ」といったが、これだけ競馬に時間とカネをつぎ込む「競馬中心の人生」が本当に幸せかどうかは、考え直す必要があるかもしれない(笑)。これはひょっとしたら、典型的なダメ人間の人生か(笑)。


(続く)

(競馬 −2−−4−5−6)

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