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私の魚釣り(1)
2018年4月
2018年2月。私は友人2人とダム湖にワカサギ釣りに出かけた。しかし、1匹も釣れなかった。

ハゼ? |

クサフグ |

アイナメ |

メバル |

ベラ |

メジナ |

ウミタナゴ |

ギンポ |

メゴチ |
翌3月。私は友人4人と海の堤防釣りに出かけた。誰も1匹も釣れなかった。
私は愕然とした。ワカサギ釣りは初めてだったが、先入観から、10匹くらいは釣れるものと思っていた。釣ったら天ぷらにすべく、天ぷら粉や油を買い込んでいったのだが、すべてパーとなった。
堤防でも、近くの釣具店のホームページを前日に確認したところでは、「昼過ぎに来たお客様、アジやコノシロ爆釣!」てな感じで魚の写真が踊っていた。今度こそは、アジを釣ってアジフライだ!と意気込んで乗り込んだが、1匹も釣れなかった。しかしながら、周りの釣り人たちは、何かしらを釣っていた。家族連れの小学生も我々の横で小さな魚を釣り上げていた。
これほどの屈辱があろうか?ダメダメじゃないか。小学生にも釣れてるのに。
ここに至り、私は決意した。
このままでは終われない。絶対に釣り名人になってやる、と。
そもそも私は、釣り初心者ではない。中学生のころまではよく釣りに行っていた。
近くの川に自転車で出かけ、フナ、タナゴ、クチボソ、コイなどを釣り、海では堤防のサッパや投げ釣りでシロギス。中学生になると当時の流行に乗って、ブラックバスのルアー釣りに熱中する。もっとも、シロギスもブラックバスも結局は釣れなかったが。
余談だが、小学生の頃に釣りをしていた川は今では見る影もなく、治水だか利水だかの大儀のもとに、用水路のような小さな流れになってしまった。昔は草に覆われた野性的な、いかにもフナが潜んでいそうな川だったが、開発とは本当に罪深い。日本全国でそんな川が山ほどあるのだろう。「私が子供の頃は魚であふれていた」っていうアレだ。
当時の私の愛読書は、『釣りキチ三平』である。学校にロクに行っていないように見える三平を羨望し、その奇想天外な釣技に魅了されたものである。
あれから30年以上の時が流れた。
上記の屈辱を晴らすべく、30年の時を経て、私は魚釣り、特に海釣りを本格的に始めることにした。
2018年の3月〜4月にかけ、無職の特権を濫用し、平日に釣りに出かけた。幸い、私の住む千葉県は、海に囲まれているため、海釣り場には事欠かない。
釣り人口というのは相当に大きい。週末ともなれば、評判の釣り場には釣り人があふれる。平日に釣りに行けるなんて、何と恵まれていることか。
さて、本格的に釣りを始めて1か月経った。
爆釣はないが、釣行のたびに小物は数匹釣れた。始めはフグ、メゴチといったあまり釣り物としては歓迎されない魚から、やがてアイナメ、メバル、ベラ、メジナ、ウミタナゴ、ギンポなどを次々に釣り上げた。正直、私には外道意識はなく、フグでも釣れたらうれしい。子供の頃の経験から、私のなかには「釣りというものは釣れないことが多い」という前提がある。よって、何かが釣れたら、何であろうとうれしいのだ。なにも釣れないのに比べれば、0と1であるから、無限大の価値があるわけである。
ちなみに、私は魚の名前をよく知らないので、釣り上げても何の魚か分からないことがしばしばである。そんなときは、写真を撮って、家に帰ってネットで調べることにしている。
2月のダム湖と3月の堤防では釣れなくて、この1か月、なぜ釣れたのか?
要するに、前述したダム湖や堤防では、私は白痴的に何も考えていなかったのである。釣り初心者ではないのだが、まるで初心者のように、釣りの基本というものをまるで考えずに、ただ釣具店で購入した仕掛けを竿につけて、何も考えずに糸を垂らしていたのである。これで釣れるわけがない。
釣りは、頭を使わないと釣れないのである。
当たり前じゃないか。頭を使わないで釣れるなら、釣りという遊びは、途端につまらないものになり果てるだろう。
なかなか釣れないから、創意工夫、努力をして釣れるようになる。釣果とともに、この「釣れるようになるプロセス」が楽しいのである。
麻雀や競馬と同じで、釣りも頭を使うからこそ面白いのである。
釣れたのは、釣りの研究をしたからである。海釣りの知識は私にはほとんどなかったので、どんな場所にどのような魚がいて、どのように釣ればいいのか、潮の動きと魚の活性度の関係、様々な魚の生態、などをにわか知識として本やネットから詰め込んだ。まだ研究途上であるが、こういう知識・情報をインプットすることによって、釣れるようになったのである。
当たり前のことである。
1か月没頭してみて、改めて釣りは楽しい。私にとっての釣りの楽しさとは以下のようなものである。
■海釣りは、何が釣れるか分からない。海の魚なんてほとんど知らないから、釣りに行くたびに見知らぬ魚が釣れてワクワクする。こんな無限のような海である、多種多様な魚たちが共存していることに驚く。
逆にいえば、ある程度釣れる魚を釣ったら、今度は、狙った魚を釣り上げることが楽しさになるに違いない。
■魚の造形、デザイン、色の美しさと多様性。これには心底驚かされ、感動する。普段山歩きしていて、植物や小動物の造形の美しさ、多様性にも感動するのだが、魚もまたしかりである。どんな進化を経て、こんな形や模様、色になったのか。
思えば、生き物を自分の手のうちに入れてその感触を確かめ、仔細を観察するということは、滅多にないことである。犬や猫やうさぎやモルモットなどのペットなら触れ合えるが、それ以外の生物は、なかなか手に触れることはかなわない。せいぜい、カエルやヤモリ、トカゲなどの小動物、カブトムシやアリなどの昆虫くらいだろう。ある程度以上の大きさの生物ともなれば、陸上生物なら動物園で、水中生物なら水族館で見るくらいしかできないのだ。
魚と直接触れ合える体験を可能にする釣りは素晴らしい。特に子供には貴重な体験となるだろう。私はもはや子供ではないが。
■魚とのやり取り。魚がハリにかかった時に、竿と糸を通して、人間と魚との命のやり取りが始まる(大げさか)。あのブルブルと竿が震える感触が、この上ない快感となる。
■釣り中、常に頭を働かせること。釣り糸を垂らしてボーっとしているのが釣りではない、というのが私の持論だ。もちろん、そういうのんびりした釣りもあろう。だが、釣り場の状況は常に変化しているし、釣れない原因を常に考え、次の手を打っていかなければならない。潮汐、潮の流れ、天候、魚がいるタナの推理、釣り方、釣り場の海中・海底の様子、などなど、釣りの最中は脳はフル回転である。だから釣れなくても割と時間が経つのが早いし、釣りの後は結構疲れるのだ。
もっとも、頭を使うのは釣りの最中だけではない。釣りの前には、どの魚をどのような仕掛けで狙うのかを検討する。ウキ釣りならどんなウキを使うか、オモリをどうするか、考えることはいくらでもある。この検討する時間も楽しい。このような想定なしに行けば、あっという間にダム湖や堤防の時の坊主に逆戻りである。
釣りは奥が深い。
■無量に見える大海の中から、たった一匹の魚を引き上げ、自分の手のうちに入れることの奇跡。川釣りとはそのスケールが違う。
■海の壮大さと表情。たとえ堤防であっても広々とした海を見れば、伸びやかな、晴れ晴れとした気分になれる。強風や雨の時の釣りは精神修行を兼ねた苦行となるが、日和がいいときの海というのは、脳内に快感物質が分泌されるように爽快である。海面が陽光にキラキラと光って波と風が様々な夢幻の模様を作り出す。
山には山の爽快感があり、海には海の爽快感がある。
ところで私は、この1か月間、釣り上げた魚はすべてリリースしている。ガキの頃、川釣りではキャッチアンドリリースが当然だと思っていた。一方、海の魚は食べる人が多い。大抵の魚は美味しく食べられるから、海釣り師の多くは、釣りの楽しさの中に、「自分で釣った魚を食べること」を挙げる。
だが私は、あまりその方向に向かない。お恥ずかしい話、生き物全般を殺すのが苦手なのだ。まぁ、猟師や漁師や屠殺場の職員など以外には、生き物を殺すのが得意な人はいないだろうが、どうも日頃口にする魚でも、自分で殺すのに抵抗がある。以前、ニジマスの釣り堀で、釣ったニジマスを釣りの後さばいて、串焼きにして食べたのだが、まだ生きているニジマスの腹に包丁を入れるのに抵抗を感じた。情けない話だが、まぁ別に海釣りと言っても食べなければいけないわけでもあるまいし、リリースしてもいいだろう。
どころか、いまのところほとんどの釣りでアオイソメの活き餌を使っているが、アオイソメをちぎってハリにつけるのもやや気後れする。そんな仏僧みたいな釣り師いるかよ!?って話だが、まぁ、そんな私でも、釣りの魔力には勝てない、ということだ。
もっとも、今後友人と釣行する際などは、食べるのを目的として行くこともあろうから、アジやサバなどの青物が釣れた時のために、せめてきちんとさばく技術を修得せねばなるまい。
今後私は、「日本全国釣りの旅 自給自足への挑戦」という壮大な旅を始めないとも限らないのだ。
房総半島の山にはほぼ登り尽したので、まずは千葉県の海を釣り尽すことから始めよう。
もう一つ言っておかなければならないことがある。
「釣りは、環境を破壊している」ということだ。
子供の頃はもちろんそんなことは意識していなかった。今回もそんな認識はみじんもなかったが、釣りするにつれて分かってきた。
釣り人は、釣り場にごみを捨てる。特に、仕掛けを作るときの糸クズを捨てる人がいるだろう。私は環境破壊を憎むので、どんな短い糸くずでも持って帰る。当然だ。
今はだいぶ減ったのだろうが、釣りの仕掛けだけでなく、釣り人が捨てた一般ゴミが問題となり、そのために房総のいくつかの港では釣り禁止、立入禁止となったと聞く。全く嘆かわしい。
そのような輩の愚行のおかげで、みんなに開かれるべき海が釣り禁止や立入禁止となるのである。
また、深刻なのは、釣りでは不可避の根掛かりである。
仕掛けが海底の岩や障害物に引っかかることを根掛かりと言うが、どうしても取れないときは、道糸やハリスが切れ、仕掛けやハリが海中に残ることになる。
私もこの1か月、根掛かりで何度も仕掛けを失ったし、投げ釣りをしている際に、誰かが根掛かりして失った仕掛けが「釣れた」こともある。
釣り場の海中には、そうやって「捨てられた」仕掛けや糸、ハリ、オモリが眠っているのだ。人気の釣り場には、相当に溜まっているに違いない。
根掛かりするポイントというのは、岩や障害物があって魚が居着いているので、釣りには絶好のポイントとなる。よってそこを攻めるのだが、必然的に根掛かりが多くなる。そうすると仕掛けを失う確率が高くなる。
これを環境破壊と言わずして何と言おう。
糸やハリスは当然水に強いので、何十年も何百年もそこに残ることになろう。ナイロン糸は海中であまり変質しない気がするので、それほど環境に対する影響はないのかもしれない。その意味では、糸よりもオモリ(鉛)やハリやヨリモドシなどの金属部品は腐食していくので何らかの影響はあろう。
釣りする方としても根掛かりで仕掛けを失うのは嫌なので、極力根掛かりしないように攻めるのだが、それでも根掛かりは不可避である。
これには対処の仕様がない。だが、釣りという遊びは、環境を破壊していると認識しておくのは重要だろう。
(続く)
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